医療ガバナンス学会 (2010年9月9日 14:00)
目次
第一回 冤罪事件経験者からの伝言
第二回 医療事故の冤罪-医療過誤と過失
第三回 任意事情聴取-取調は通常の会話ではない
第四回 任意事情聴取-医師の”良識”が狙われる
第五回 供述調書の作成-苦しいが自分の調書を作れ
第六回 供述調書の署名-唯一の”武器”は署名しないこと
001 冤罪事件経験者からの伝言
「虚偽の報告書」で犯罪者扱い
私が「治療行為」に関わった東京女子医科大学付属病院での心臓手術後に、患者さんが亡くなりました。遺族の要請があり、調査を行った大学側は、明らかに科学的・医学的事実に反する報告書を作成し、私に責任を押し付けてきました。民事紛争の話し合い開始後、遺族がこの報告書をメディアに暴露したため大騒ぎとなり、さらに手術に関わった私と4人の医師が「業務上過失致死罪」で告訴(最終的には「被害届け」提出)され、警察は捜査を開始しました。その後、私が逮捕・勾留・起訴されました。結局、裁判では無罪判決を言い渡され確定し冤罪は晴れました。
警察・検察の作文が署名・押印で”証拠の女王”に
富山県で発生した「無実の強姦事件」のように、悪名高き「自白調書」を基にした多数の冤罪事件が起こっています。警察が、論理的証拠もない最初の段階で「こいつが犯人だ」という心証を得ると、捜査官の努力方向は「真相の解明」ではなく、「有罪の立証」に向かいます。女子医大事件でも、任意捜査が進むにつれて刑事たちは「報告書」が誤っていることに気づいた様子でしたが、私を犯人扱いしました。「お前が一生懸命に心臓外科をやっているのは知っている。心臓の手術をたくさんしていれば、患者が死ぬ事だってあるだろう。一人くらい死なせたってなんだ。心臓外科医にとっては勲章だ。今回は『御免なさい』しちゃって、また一生懸命やればいいだろう」。警察は、話をしたこともなければ、同意したこともない「供述調書」という名の「警察製作文」を勝手に事前作成してその末尾に署名・押印(指印)させようとします。こんなものは、署名・押印がなければ単なる紙切れと同じですが、署名・押印した瞬間に裁判の”証拠の女王”に戴冠することになります。
「取調室の心理」
公務員である司法警察員(警察の捜査官:刑事)と検察官の業務は、人を法律上の犯罪者につくり上げることです。彼らは日常的に「職業的犯罪者」や「非合法の世界で生きる人」を相手にしていますから、ごく普通の市民である臨床現場の医師や若い看護師等の医療従事者の取調べで「供述調書」を作成することは「凄く楽だ」と嘯(うそぶ)いています。「警察の応接間」と彼らが呼ぶ狭い「取調室」のテーブル奥側に、一人でパイプ椅子に座らされ、唯一の出口であるドアの前に立ちふさがる北京五輪柔道100kg超級金メダリストの石井慧選手や元ボクシング世界チャンピオンのガッツ石松さんに似た複数の刑事に囲まれて、強い口調で10時間以上も叱責されて、毎日毎日、深夜になっても解放されない状況を想像してください。結局、医療従事者は納得いかない調書に署名・押印して帰宅するのです。ちなみに最高裁判所は、「1日20時間一睡もさせずに取り調べても、自白の強要にあたらない」と判示したことがあります。
新連載の目的「冤罪にならないために」
今回から6回にわたる連載では、私が開設しているブログ「『紫色の顔の友達を助けたい』東京女子医大、警察、検察、マスメディアの失当」において、カテゴリー「刑事事件資料」で「⑩冤罪にならないための―任意事情聴取注意点―」 (http://kazu-dai.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_bfc4.html)に書いたことをわかり易く説明しようと思います。正当な治療行為が行われたにもかかわらず、医療死亡事故が発生したことに関連して医師が「業務上過失致死罪」を犯した疑いをかけられた場合を想定し、警察・検察での「取り調べ」「事情聴取」「供述調書作成」に関する注意点を伝え、「冤罪」を回避することを目的としています。市民の手から財産や自由、場合によっては生命をも奪うこともある国家権力。その暴力装置といえる警察・検察は、犯罪者をつくり出すプロフェッションです。そんな現代の「リヴァイアサン」と闘争しなくてはならなくなった「一市民である医師」のための「戦略」を綴っていきたいと思っています。
002 医療事故冤罪-業務上過失致死罪における過失の有無
医療事故冤罪
「非加熱製剤エイズ帝京事件」「女子医大心臓手術事件」「福島大野病院事件」では、医師が業務上過失致死で逮捕・勾留・起訴されましたが、いずれも裁判では無罪となりました。その他「杏林大学割り箸事件」等でも医師は無罪です。このような冤罪を立件しようとした捜査機関は、患者さんが亡くなったという重大な結果を楯に、勧善懲悪よろしく、情緒的、感情的観点から「犯人捜し」や「犯人づくり」をします。そこには、科学的観点から叡智を集めて調査を行うといった姿勢はありません。2006年4月に愛媛県の現職警部のPCから流出した「被疑者取調べ要領」という警察学校の講義のための文書には「粘りと執念をもって『絶対に落とすという気迫』が必要」「取調べ室に入ったら自供させるまででるな」「否認被疑者は朝から晩まで調べ室に出して調べよ」といった指示があり、元検察幹部が書いた検察官向けの医事犯罪捜査実務専門書には「社会的な影響の大きい事件等、状況によっては、たとえ裏付け資料が不十分でも立件して捜査を遂げるべき事件もある」と堂々書かれています。「警察・検察は常に社会正義のために粛々と責務を遂行している」との幻想を持っているようでは、世間知らずです。
業務上過失致死とは
医師の業務上過失致死は、「医師が社会生活上の地位に基づいて反復・継続して行う診療行為で、生命に危険を生じ得る診療業務上、必要な注意を怠り、その結果、患者を死亡させること」といえます。この「業務上必要な注意」が最も大きな問題になります。交通事故であれば、「過失」「注意義務」の基準は、「一般的な運転手」です。これは、初心者も熟達したプロドライバーも、注意深い人も散漫な人が被疑者でも同じです。では、医師の「過失」の基準は、どうでしょうか。判例からみれば、医師の専門分野によって類型化されます。具体的には、事故当時の医療水準での「通常の血友病専門医」とか「大学病院で心臓手術の人工心肺を操作する業務を行っている心臓外科医」とか「県立病院で帝王切開手術を執刀する産婦人科医」といった基準が対象になります。ここで、重要なのは、「医療水準」は、ある時点での医学界における標準的な認識ないし措置などを指すもので、その時点で確立されたものであるということです。平たくいえば、「同じ時代の同じレベルの医師と同じことをした」正当な治療行為は過失ではありません。法秩序の命ずる基準から逸脱した行為でなければ犯罪にはならないのです。
医療者としての反省と犯罪の狭間
患者さんが亡くなれば、「何とかして助けたかった」「残念だ」「悔しい」「可哀相だ」といった感情を持つのは自然なことです。しかし、感情は「過失」と関連がありません。結果に対してどう思うかは、「過失」自体とは関係しません。医療者としては「当時は分からなかったことが、事前にわかっていれば、助かる方法が他にあったのではないか?」と振り返ることも当たり前のことです。ところが、捜査官は、事故当時の「医療水準」など知りません。死亡という結果が分かった後、遡及的に注意義務違反をつくり出そうという観点から捜査を開始し犯罪者をつくりだとうとします。その際には、この「医療者としての反省」を利用しようとするのです。
「事実」と「評価」を混同せずに「事実だけを話す」
次回からは、任意事情聴取や供述調書が、どんなものでありその注意点は何かを具体的に言及していきます。いずれにしても、「何が起きたか」「事実は何か」については自分が明確に分かる範囲で供述すべきでが、それに対する「評価」を供述する必要はありません。むしろ「評価」はするべきではありません。「今にして思えばどうすればよかった」「一般的には、こうすればよかった」といった評価を先に話すと、そこから強引に、捜査機関による「過失のための作られた事実」が誘導されていくのです。
003 事情聴取-「取調べ」は通常の会話ではない
敵陣に一人で入る
日本では、捜査機関の取調べの際に弁護士の立会いが認められません。知り合いのアメリカ人にこの話をしたところ、仰天して「信じられない」「野蛮な国だ」という反応でした。アメリカでは、逮捕されて拘束下にある被疑者に対してですら、「あなたは弁護士の立会いを求める権利がある」と通告される「ミランダルール」が確立されていますが、日本にはこれに対応する規則はなく、嫌疑をかけられたら最後。警察署も検察庁も数十人から数百人の全て敵だけの城であり、そんな取調室には、一人で入らなくてはなりません。
確実な記憶だけを話す
取調べでは、確実な記憶だけを話します。絶対に、わざと嘘をついてはいけません。調べは何十回も続くので、「虚偽」は必ず矛盾が生じるでしょう。もちろん、「知っていること」や「確実な記憶がある事実」を隠す必要はありません。しかし、「事実」とは「古い出来事」です。元々、見聞きしていないこと、忘れてしまったこと、記憶にないことがたくさんあります。これに対しては、堂々と「覚えていません。知りません」と答えるべきです。しかし、これは実に難しいことです。
医学的知識に自信がない捜査官は、人海戦術で事件には全く関係ない「日常の飲酒量」「配偶者の元勤務先」といった些細なことから最近の医学論文まで、量的には徹底的に裏をとり、情報収集します。そして、大量の情報の断片を武器に「こっちは全部わかっているんだぞ」と強圧的な態度をとります。「基礎のない無際限の活動、活動的な無知ほどおそろしいものはない」(ゲーテ)。捜査官は、わかったつもりでいるかも知れません。しかし、「真実とは、複雑なもの。微妙なもの」です。捜査官が「文献にこう書いてある」「一緒に現場にいた別人がこういっているぞ」などと言おうとも「知らないものは知らない」。実際にも、捜査官の言い分に過ぎず、デタラメだったこともありました。
「取調べ」は通常の会話ではない
取調べでは、何十回も呼び出されて、同じことを何度も繰り返して聞かれます。通常の会話なら、繰り返し同じことを何回も聞かれると、「わかってもらうために何か別の新しいことを答えなくてはならない」と思ってしまいますが、その必要は全くありません。新たに呼び出されて、前回と同じことを聞かれても、記憶に忠実に同じことを何度でも答えればよく、新しい説明をする必要はないのです。取調べは通常の会話ではありません。捜査官は自分がわからないこと、自分が創作したストーリーにそぐわない供述を聞くと、怒鳴ってその「ストーリー」を押し付けようとします。相手が激しく怒鳴っているのは困っている証拠ですから、醒めた態度で黙って雷嵐が過ぎるのを待てばよいのです。しかし、私達市民はゴルゴ13のようにはなれません。経験したことのない居心地の悪さに耐え切れなくなったり、捜査官との良好な人間関係を築こうと思ったりして、つい相手に話を合わせてしまいたくなるものです。
捜査官と人間関係を築くな! アンビバレンツの幻想を断ち切れ!
何十回も顔を合わせる捜査官との関係は、敵対的でありつつどこかで共同的な感覚にもなってきます。この幻想は簡単に断ち切れません。「市民・医師」は警察、検察が社会の秩序安寧を守る組織と信じています。しかし、その社会的に”正しい”捜査機関から無実の罪を問われ、逮捕・勾留までされると、その点についてだけは、”間違い”だと思わざるを得ない。そこで、組織としての警察、検察を否定できず、「わかってもらえる」という幻想のもとに、医学的説明、科学的弁明、釈明に心を尽すことになります。しかし、捜査官はそんな面倒な話は聞きたくない。被疑者の罪を確信しています。どれほど立派な医学的科学的、根拠のある説明、釈明も、この「罪の確信」を揺るがすことはできません。彼らにとって、被疑者はすでに有罪なのです。
004 事情聴取--医師の”良識”が狙われる
優等生と「道徳の時間」
「罪を憎んで人を憎まず」。捜査官には、被疑者を「本当は能力のあるよい人間(医師)なんだ」と評価する傾向があります。取り調べ中に怒鳴り上げるのは、「被疑者を憎んでいるのではなく、本当は良い人間でありながら誤りを犯しているのに認めないから」であり、警察や検察という道徳的権威の前で「被疑者は素直で従順な態度であれ」といった倫理的規範に訴えます。これは、学校で教師が生徒を叱責する論理と似ています。教師の問いかけに素直に従ってきた優等生の「良識」が権威に逆らうことを邪魔します。「古人は神の前に懺悔した。今人は社会の前に懺悔する。何びとも何かに懺悔せずには娑婆苦に堪えることができない(芥川龍之介『侏儒の言葉』)」。
「担当した患者が目の前で亡くなった。その責任をとるのは、人として常識だろう」などと言われればそんな心境になってしまい、誘導されて捜査官のストーリーに乗ってしまう。これが、常識的・一般的な問いかけから「捜査官製事実」を導く、医療者から簡単に「自白調書」を作成する手法です。しかし、思い出してください。現実に起きたことはそんなに単純ではないはず。微妙で複雑な事実を知っているのは、捜査官でなく「医療行為をした」あなた自身です。実体験について供述する取り調べで、一般的な問いかけには答える必要はありません。そんなときは、答えずに質問の前提を確認し、限定する。抽象的な問いは具体的に聞き直す。相手の質問をよく聞いて、聞き返す。そのとき、何を見て、何を聞いて、何をしたか、5W1Hを大切にして確実な事実だけを簡潔に話す。嘘は言わない。わからないなら「わからない」と答える。知らないことは「知らない」でよい。言えないことは言わなくてよい。黙っていてもよい。黙秘権・供述拒否権・自己負罪拒否は、憲法第38条で認められています。
医療者の論理と捜査官の心理
「ちゃんと話せば、医学的科学的論理を理解してもらえれば、わかってもらえる」との常識的な考え方が取り調べで通用すると思うのは大間違いです。相手は端からわかろうとはしていないので、仮に正確な知識を理路整然と話したとしても、屁理屈として取り扱われます。すでに、「有罪推定」を前提とする捜査官の職業的使命感や表面的な道徳的正義感が、事実の確定よりも先に駆け出しているからです。熱意や正義感を動機づけるものは基本的に主観的思い込みであって、客観的、合理的判断ではありません。「思い込み」には、客観的判断とのズレが必ず生じます。しかし、客観的判断で、感情の独走を抑制できるほど人は器用ではありません。「証明してやろうなどと意気込まずに、考えるままに率直に述べるのが常によいやり方である。なぜなら、私たちの持ち出す証明はことごとく、私たちの意見の変種に過ぎないのだから。そして、反対意見の持ち主は、そのどちらにも耳を傾けはしない。私がよく知っていることは、自分だけのために知っていることである。口に出した言葉が物ごとを促進することは稀で、大抵は、反論、停止、停滞を惹起する(ゲーテ『箴言と省察』)」。
フランチャイズの「医学」ではなく、ビジターの「捜査」のスタジアムで、「捜査官との医学理論合戦」に完勝することは意味がありません。同じことを繰り返し聞いてきたとしても、色々な方法で説明するのではなく、同じことを100回でも200回でも繰り返し言えばよいのです。
最終的最重要事項「調書」づくり
「供述した事実」や「話をした事実」は重要ではありますが、録音、録画、記録はされません。「話」は最終的には残りません。残るのは「書証」です。裁判上の証拠は、「実際に何を供述したか」ではなく、「調書に何が書かれているか」です。安易な署名と押印が人生を変えてしまわないように、いよいよ次回から「調書」づくりについて述べます。
005 供述調書作成-「自分の調書」を書かせる
刑事事件の天王山は「供述調書作成段階」
「供述調書」と呼ばれるものは、犯罪行為を疑われているあなた自らが書いた「供述書」とはまったく違うものです。「頑強に否認する被疑者に対し、『もしかすると白ではないか』との疑念をもって取り調べてはならない」(増井清彦著『犯罪捜査101問』)と職業教育された捜査官が作成するものです。刑事訴訟法上「被告人の供述を録取した書面(=供述調書)で被告人の署名もしくは押印のあるものは、……証拠とすることができる」ので、「『供述調書作成段階』はすでに『裁判開始段階』」という意識が必要です。伝聞証拠(公判廷での直接供述以外の書面・証言)を排除する原則に反し、「証拠書類依存」「供述調書重視」が刑事裁判の現実だからです。
「供述録取」とは「捜査官の作文書き」
「録取」と漢字で書かれると「被疑者の供述を録音したものに準ずるような記録」を想像しますが、そんな甘いものではありません。人を犯罪者につくり上げることを業としている「捜査官製の理路整然風の作文」は、プロの仕事であり、いかにも被疑者が実際に語ったかのように書かれてしまう。実際に任意事情聴取したときとは微妙に文言を変え、捜査官に都合がよいように思い描いたストーリーに方向転換し、結果的に内容がまったく違う文章につくりあげるのです。
「『告白語り』形式」から唐突な「『問答』形式」への変換に注意
「被疑者が過去の出来事を告白し語っている」ふうの文章が漫然としてくると、突然、話のキャッチボールが実際になされたかのような「問答形式」の記載が開始されることがあり、厄介です。
「……胎盤剥離を続けると出血が激しくなったのです。(このとき当職は、供述者に手術で使用されたクーパーを示した)
(問)『噴水のように湧き出る出血がさらに激しくなったとき、使用していたこのクーパー(はさみ)での剥離を中止して、子宮を摘出すれば、出血は完全になくなると考えませんでしたか』
(答)『その時は、止血に懸命で一切頭に浮かびませんでした』
(問)『今、振り返ってみるとどうですか』
(答)『剥離を中止して、子宮摘出すれば出血が止まったと思います』(問答終了)」
実際には、このような会話は一切なかったのに、「録取」したことにして調書に記述するのが、捜査官のやり方なのです。
「訂正」が最大の山
「調書」が書き上がると捜査官はこれを読み聞かせようとしますが、絶対に拒否してください。当然の権利としてその書面を自ら手にとって閲覧し、じっくりと最初から最後まで一字一句噛み締めながら最低3回以上読んでください。何十回でもかまいません。10ページ程度の調書中、まったくのデタラメから、ちょっとニュアンスが違う程度、「てにをは」まで含めると、訂正したい部分が30以上もありました。端から端まですべて訂正を求めてください。捜査官が「面倒だ」「30ヵ所もか!」と文句をいっても、何時間かかっても、プリンタのインクがなくなっても、全部やり通す。正気堂々、艱難辛苦、臥薪嘗胆、とにかくここでド根性でがんばるのです。捜査官は些細なところばかり訂正して、肝心なところには聞く耳を持ちません。そして、強制は違法捜査です。「訂正してくれないなら、今日はもうやめます。署名しません。帰ります」というと、「じゃ勝手にしろ。貴様の権利ばかり主張するなら、こっちも考えがある。帰れ」と激怒したので帰りました。中途半端な訂正はむしろ最悪です。
「リヴァイアサン」に対峙する”唯一の武器”は署名押印しないこと
調書は一事件被疑者一人につき10通作成されることもあります。しかし、冤罪を回避するためには署名押印調書は0通でもよいのです。「真偽と虚偽は、言葉の属性であって、ものごとの属性ではない。そして言葉がないところには、真実も虚偽もない」(ホッブス『リヴァイアサン』)
006 弁護士を直ぐに雇い、供述調書に署名するな
現実直視と弁護士依頼
私は、参考人や被疑者になった多くの医師と関わってきました。人生最大のピンチに対峙せず「任意取調べを完全拒否した」医師、現実逃避して「山に籠った」医師がいました。困ったことに、彼らは弁護士を雇うことが「社会正義に反する行為」と勘違いしていました。リヴァイアサンが、炎を噴射する最初の攻撃は「弁護士との分断」です。「やましいことがあるから雇うんだろ」「所詮、お前から金をとるためにやって来る人間」等と言われます。逮捕歴10回の先輩房長が言いました。「佐藤さん。弁護士の言うこと90%本当、警察検察の言うこと90%嘘。これ本当。」国家権力の行使から、時には世論の風向きと対立してでもあなた個人を守れるのは、憲法に一つだけ書かれた民間の職業―弁護士しかいません。権力にあらがう人々の弁護活動に情熱を注ぐ法律家諸兄の警句は一致しています。「調書に署名するな」。
基本①:「調書に署名するな」
捜査官があなたの言う通りに全ての訂正に応じた場合のみ、例外的に調書に署名しましょう。それ以外の署名は絶対ダメ。捜査官がプリントアウトした”作文”を「自分の調書」に書き直させることは、並大抵ではありません。訂正要求に対して別の作文を書いて「これでもいいだろ」と折衷案を提案してきます。しかし、右顧左眄することなく一切拒否する図太さが必要です。調書作成の世界では「正⇔反⇒合」の弁証法は誤りです。アウフヘーベンすることなく「正⇔反⇒反」のみが正しいやり方です。権力におもねるのは楽ですが、ここで弁護士の言葉を思い出して奮い立つ。勿論、署名は義務ではありません。「署名しないこと」は被疑者が有する「唯一の武器」。訂正箇所は100以上あっても全て要求すること。いっぺんに直そうとするとモレやヌケが出てきてしまうので、ひとつずつ根気よく直すきめ細かさと忍耐力が必要です。相手が応じないなら即「署名しない」。仮に逮捕されるとブラフで揺すぶり「調書がなきゃ裁判終わるまで釈放されない」「調書がないと裁判官はお前を信用しない」と脅しますが、そんなことはない。供述調書の代わりに、弁護人があなたの言い分を書き取って「陳述書」を作成することができます。調書は0通でもよいのです。
基本②:「評価はするな、話すな」
実は、「調書に署名しない」というアドバイスを弁護士さんから耳にタコができるくらい散々伝授されたにもかかわらず、逮捕された後に、「事実」について不本意な調書に署名をしてしまった日がありました。それほど、国家権力には爆発的破壊力が備わっているのです。午前2時前、留置所の房に戻り悔しくて、一睡も出来ませんでした。その反省を現在ここに綴っています。「事実」に関する調書が終わると、「評価」に関する事情聴取に入ります。「何が悪かったのか」「どうすればよかったのか」と過失の存在が前提であるような話をしようとします。この質問には、答えることすらしてはいけません。良い悪いの価値判断はいりません。「どうであったか」の「過去の事実確定」で供述は終了。評価や結論は捜査官なりにやるべきもので、協力する必要はありません。私は最後の砦を守りました。
基本③:苦しかったら弁護士さんを悪者に
「評価に関することは、弁護士から堅く堅く『話してはならない』と言われています。」弁護士への盲目的服従宣言しての部分完全黙秘をします。最初にこの態度を明確に宣言すると、捜査官は以後何も聞いてきませんでした。「弁護士を悪者にしてください。これが我々の役割ですよ。そのために弁護士を雇ったと思ってください。苦しいとき、黙秘するときは是非利用してください。」不本意な調書に署名して落胆した私が、その後の取調べで楽になったのはこんな言葉でした。
おわりに
連載で首尾一貫して伝えてきたことです。「知らないことは知らない、言えないことは言わない。相手を分からせなくてよい、繰り返し同じ答えでよい。取り調べで評価の話はしない、供述調書には署名しない。」「とにかく供述調書には署名しない。」