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Vol.22136 日本の教員養成がかかえる専門性開発の課題

医療ガバナンス学会 (2022年7月11日 06:00)


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安久津太一

2022年7月11日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

日本の教育の素晴らしさを教育や保育の研究者、音楽教育の実践者、さらに保護者としても十分理解している一人ではあるが、一方で、日本の教育がかかえる、緊急的な課題と向き合うことは必須と思い、筆をとっている。本稿では、特に世界の潮流の中での日本の教員養成がかかえる専門性開発に着目して論じたい。最初に、以下2つ可視化可能な我が国の教員養成が対峙している決定的な問題を挙げる。

・全国的に教員志望者が2000年以降激減している。教科や自治体によっては、すでに定員割れを起こし、危険水域といえる数値になっている。過重労働の問題とあわせて、教師が専門性を発揮する魅力ある職業として選ばれなくなっている。

・世界の多くの国々で、すでに教員養成の中心は大学院の修士課程や博士課程だが、日本は現状学部4年間と現場での研修等に依存しているケースが多い。大学院が教員養成の蚊帳の外で、研究の量や質ともあわせて、専門性開発を担いきれていない。

日本の教員養成は、上記に限らず様々な点で、世界の流れと逆行し、制度も含めて過去の産物にしまっている衒いがある。一つ一つの問題は根が深く複雑なこともあり、ここでは議論を避けるが、上記の課題を打破する一つの方策が、教員養成における専門性の開発であると筆者は考える。本稿では、自身の海外での学びの経験から、特に海の向こうの大学院における教員養成の現場の様相を示したい。
早速、場面を変えて、ニューヨークにあるコロンビア大学Teachers Collegeとシンガポール国立教育大学の最高水準の教員養成の現場の様子を紹介する。いずれも世界トップクラスの教員養成課程、大学院修士課程の講義場面である。おそらく比較国際教育学の教科書では述べられないであろう、実際の大学院で日常的に行われている教員養成、教室の様相をお伝えしたい。

なお、以下2つの事例の前提となるが、アメリカとシンガポール双方では、教員養成は修士課程以上が中心的役割を担う。学び続ける教師のキャリアパスに確固として、大学院が位置付けられており、すでに世界各国では標準になりつつある。少なくとも上記2カ国の大学院は、閑古鳥がなく日本の教育学系の大学院とは、教室の空気も活気も大きく異なる。そもそも受講人数が圧倒的に多く、受講生の職位も、教員未経験者や新任教師から、経験豊富な管理職まで、年齢層や立場も幅が広いことが特徴である。教育のアプローチも、従来型の教授法とされる、いわゆる先生が学生を前に講義をする、一方通行の講義の場面はほぼ無いことも特色である。また教授自身が実践者として授業に参画しており、いわば大学院の授業が、最先端の教育活動の供覧の場になっていることも特筆できる。

事例1 コロンビア大学大学院における「発達」の講義

ある平日の夕方、筆者はコロンビア大学教育学部Teachers Collegeの大学院の講義に参加した時のことである。乳幼児の音楽教育の第一人者である教授の授業で、その日は地域の親子をお招きして音楽遊びや活動を共にする回であった。教室に足を踏み入れて驚いたのが、まず教授がいないことである。地域の親子7組が、部屋に敷かれたカーペットの上で、ゆったりと遊んでおり、床に並べられたカラフルな楽器の音を探求したり、絵本を見たり、お人形で遊んだりしていた。大学院生20名ほどは、その周囲に座り、特に介入はせず、雑談をしたりメモを取ったりして、授業開始から20分ほど時間が経過した。そこで、ある4歳児が、教室の奥にしまってあったグランドピアノのところに行き、自らカバーを外し、勝手に音を出し始めた。横にいた保護者がすぐ止めようとしたところへ、教授がゆっくりした足取りで、笑顔で入ってきた。優しく、言葉ではなく、手のジェスチャーで合図をして、4歳児を止めようとした保護者を安心させて座らせると、自らが幼児の横にさりげなく立ち、ピアノを一緒に奏ではじめた。部屋が音楽にふと包まれ、幼児の高音の「いたずら」が見事に音楽になり、さらに他の用事も誘われるように音楽に参加していた。
言葉の指示や行動の管理に依存しない、音楽的な教授法のアプローチに感銘を受けた。後で論文を読んで知ったが、土台には、教授が専門とする、社会心理学の、フロー理論に根ざした音楽教育の実践や評価の手法が隠されていることを知った。フロー観察は、筆者の博士論文のテーマにもなり、音楽教育で権威ある国際雑誌にも論文が掲載された。乳幼児の潜在的な興味関心や学ぶ喜びを認め、引き出す手法である。具体的には、幼児児童のいたずらを、いたずらではなく創造的な参加と見て取り、即大人がアクションを変容させる省察的な関わりは、「静かにしなさい」と押さえつける方法とは対照をなす。
教授は、現在私も時折指導を仰ぐことがあるが、研究の意義として、「研究をすることで、どにかく子どもと深く向き合うようになった。」と述べている。同氏の授業の後半は、全く準備もない状態で、大学院生も子どもや保護者と一緒に関わり合って、身体表現を楽しんだり、音楽の学びの共同体が短時間で見事に形成されていた。教授が自ら音楽教育を実践して、関わり合いを育む姿にも感動した。観察法を知識として教えるのではなく、保護者とも大学院生とも視点を共有し、子どもたちから学ぶ姿勢を身をもって伝授する姿は、筆者にとって今でも最高のお手本となっている。

事例2:シンガポール国立教育大学大学院における「評価」の講義

次に、シンガポール国立教育大での教育評価の講義場面である。夕方17時30分頃、大学院生はバブルティやコーヒーを飲みながら、円卓のような大きなテーブルにめいめいに座って教科書を読んだり雑談していた。年齢も幅広い。教授もなんと机の上に座り、前にいる院生と談笑していた。雑談の延長のように、いつの間にか講義が始まっていた。今週読んできた教科書の章の中から、グループ毎に2つ、質問を考えて、教室の前後左右、壁全体に設置されたホワイトボードにどんどん書いていく課題であった。ちなみに、海外の大学、大学院の教科書は非常に分厚く、最新の研究論文が引用され、列挙されており、国際論文に準じた内容を毎週大量に読んだり、要約や批判的な考察をする課題が与えられる。
筆者と同じテーブルには現職の園長と経験豊富な保育者がいた。そこへ授業開始時間から20分ほど遅れて、2年めの保育者でもある大学院生が来た。座るとすぐ、手にしていた袋から、なんと驚くべく、屋台の焼きそばを取り出し、食べながら、遅れたお詫びも特に無く、すぐ熱い議論に参加し始めた。見事だったのは、30分ほどの間に、若手の立場と、中堅、管理職の立場で、該当の教科書の内容に実践場面で遭遇する問題をつないで、教科書の文献と現場の理解のズレも指摘しつつ質問を考案していたことである。その後は各質問に隣の班が意見を述べていく講義内容となり、最終的に教授が結論をまとめない、大変ユニークな進め方であった。教授は常に全ての大学院生の意見を受け入れ、やさしくうなずき、他の意見と繋いだり論文を若干紹介しつつファシリテートするだけで、特に知識を教えたり、教授のやり方や慣例を押し付けるような場面は一切なかった。多世代間、他職種の学びが特色となっていた。

さて、場面を日本に戻す。日本の教員養成は、どのようにその質を高め、専門性の開発を取り入れていくべきだろうか。答えをここで出すことは到底できないが、筆者は大学院における研究の質の向上や国際化と同時に、大学院が幼児教育も含めて、教員のキャリアパスの中に、中心的に位置付けられるべきと考える。そして研究者も実践者となり、教員の指導法の指導や助言をするにとどまらず、共に実践をつくりあげることも必要だろう。臨床的な視点や、トランスレーショナルな研究は、日本に限らず、教育学分野において、圧倒的に不足している。授業研究の文化が残っている日本の強みになり得るのではないか。
日本発、本気の教師の専門性育成が、今こそ求められている。それには常に子どもたちと向き合って、教員も教員志願者も研究者も、子どもたちと共に学ぶことであると考える。待ったを許さないが、研究と実践、両刀使いの、アカデミック教員の育成、そして、現場発、ボトムアップの質の高い教育改革のアクションが全国津々浦々にこだますことを期待する。筆者も研究者として研究室に篭らず、できる限り現場で子どもたちと音楽し、試行錯誤する日々を送っている。音楽の関わり合いを通した、小さな教育改革の草の根運動を、今後も続けていく所存である。

 

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