医療ガバナンス学会 (2010年9月22日 06:00)
今こそ、科学研究費予算の増額が必要
ベイラー研究所フォートワースキャンパス・ディレクター
松本慎一
2010年9月22日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
【セカンドカーブ】
イノベーションが、誕生し、発展し、実現化される過程は一般にシグモイドカーブを描く。つまり、誕生してしばらくは、平坦でその進歩は緩やかであるが、ブ レークスルー的な研究成果により急速に立ち上がり、その結果実現化にいたると再び新しいスタンダードとして緩やかな進歩へと戻る。一つのプロジェクトが新 しいスタンダードとして結実すると、社会の繁栄を維持するためには、次の新しいイノベーションの誕生を必要とする。この次の新しいイノベーションをいかに 結実させるかが重要であり、これはセカンドカーブと呼ばれる。日本では、自動車産業や家電産業などがすでに結実し、セカンドカーブとしてライフサイエンス が重要課題とされている。科学技術立国である日本の将来は、このセカンドカーブを成功させることにかかっているといっても過言ではない。つまり、ライフサ イエンスの実現化および産業化は日本における生命線である。次世代のライフサイエンスとして特に注目されているのが、Replacement and Regenerative Medicine(置換再生医療)およびPersonalized Medicine(個別化医療)である。この二つのライフサイエンスの実現化は日本国家を挙げてサポートすべきである。
【ライフサイエンスの実現化】
ライフサイエンスには、2つの重要な特徴がある。それは、有害事象に対する対策の重要性と、成果を判断するのは研究者や開発者ではなく患者さんであるという点である。
重工業の発展の際に、公害対策が重要であったように、ライフサイエンスにおいては副作用や合併症といった有害事象に対する対策が重要である。ライフサイエ ンスは特に患者さんに直接関与しているために、有害事象は公害より速度が速く、時に深刻な問題を起こし、プロジェクトそのものの中断や閉鎖もまれではな い。このため、ライフサイエンスの実現化の際には、有害事象対策をプロジェクトと同時進行で徹底的に実施する必要がある。
また、ライフサイエンスの原点は「患者さんを治す」ことにある。ライフサイエンスの実現化において、患者さんが実際に「新しい医療を受けてよかった」と実 感できなければ、そのプロジェクトは失敗である。特に従来医学研究においては、血液データの改善、腫瘍の縮小、あるいは生命予後の延長などが重要視されて きた。これらは、客観的な指標として科学的に分析することに適している。ただし、実際のライフサイエンスの実現化となると、最終判断は患者さんの主観とな るため、これらの客観的な指標が必ずしも最終判断と合致しない。データがよくても、患者さんがよかったと思えなければ、医療として定着しない。
ライフサイエンスの課題や研究費を決定する際には以上の2点を最初から考慮しなくては、論文は出ても、患者さんに届く研究にならず、さらには、産業にもつながらない。
日本においても、ライフサイエンスの実現化に向けて「橋渡し研究」あるいは「トランスレーショナルリサーチ」という分野が創造された。「橋渡し」という と、重要な2つ課題(基礎および臨床)の間をつなぐ比較的簡単なイメージを思い浮かべるが、実際にはこの部分はセカンドカーブにおける発展の部分に相当 し、臨床治験を含む最も大掛かりで重要な過程である。つまり、この部分にこそ、全力で巨額の予算をつぎ込むべきなのである。
【再生医療の実現化プロジェクト】
平成23年度優先度判定対象施策リストに「再生医療の実用化プロジェクト」が以下のようにある。新成長戦略(平成22年6月18日閣議決定)の工程表 II健康大国戦略の中にある、「再生医療に関する前臨床-臨床研究事業の一元的な公募審査」や、「再生医療の公的研究開発事業のファンディング及び進捗管 理の一元的実施」などによる、「再生医療の実現化ハイウェイ構想」を厚生労働省とともに実現化し、また基礎研究成果の早期産業化を目指す経済産業省と連携 することにより、世界でも比類無き高齢化社会を迎えている我が国において、脊髄損傷、心筋梗塞、糖尿病等の難病・生活習慣病に対し、これまでの医療を根本 的に変革する可能性のある再生医療について実現化することを目指す。このプロジェクトでの予算が40億円である。厚生労働省も呼応するように「先端的基盤 開発研究(再生医療実用化研究及び医療機器開発推進研究)」を掲げ、およそ30億円の研究費が計上されている。
このプロジェクトには2つの問題点がある。一つ目は、実現化で最も重要で不可欠な臨床治験のシステムが、先端医療に対応できていない点である。まずは早急 に先端医療に対する臨床治験システムを作らなくてはならない。特に、有害事象の予測、情報収集システムの構築、有害事象の対策と補償は、臨床治験で最重要 課題である。二つ目は、臨床治験を行うにしては、予算が少なすぎることである。ライフサイエンスの実現化でもっとも予算を必要とするのは有害事象対策が必 要な臨床治験である。さらに、先端医療のための臨床治験を構築するためには、ライフサイエンスに精通した人材の新しい雇用が必要であり、この雇用のために もさらなる予算が不可欠である。逆に、ライフサイエンスの実現化を目指すためには、先端医療の臨床治験システムという新しい職場が創造できるとも考えられ る。
日本で、本当に再生医療を実用化するのならば、関係各省庁と研究者が力をあわせて、先端医療のための臨床治験システムを構築し、きちんと運営するために十分な予算をつけることが不可欠である。
【目的にあった財源選択】
ライフサイエンスの成果として、新しい治療により病気が治ること、医療費が削減できること、新しい産業が生まれることの3種類の成果が期待できる。ライフ サイエンスへの研究費を成果のための投資と考えると、新しい治療により病気が治ることは文部科学省と厚生労働省が、医療費が削減できることは厚生労働省 が、新しい産業が生まれることは経済産業省が研究費を担当するのに相応しいと考えられる。理想的なライフサイエンス研究は、これらの3つの成果が期待でき るために、いくつかの省庁が共同出資することで研究を加速できる。
私が現在研究している、糖尿病のためのベータ細胞補充療法(膵島移植)は、興味深い財源があてられている。基本的には、NIDDK(米国における糖尿病お よび腎臓病に関する研究を担当する機関)およびNIAID(米国におけるアレルギーおよび感染症炎症性疾患に対する研究を担当する機関)が研究費を提供し ている。それ以外に、新しい治療により1型糖尿病が治ることを期待して、患者団体である小児糖尿病研究基金も研究費を投資している。ベータ細胞補充療法に 対してこの患者団体は2009年度におよそ$40million(およそ34億円)提供している。また、糖尿病性腎症により腎臓移植を受けた患者さんに、 膵島移植を行うことで移植腎臓が保護され人工透析の再導入を防ぐことができる。このため人工透析にかかる費用が節減できるため、腎移植後の膵島移植を公的 保険機関であるメディケアがカバーしている。さらに、ブタの細胞を利用した、バイオ人工膵島の開発には、産業化が見込めるためにベンチャー企業が参画して いる。
わが国においても、1型糖尿病に関する患者団体である日本IDDMネットワークが1型糖尿病に対する研究費用の出資を開始している。寄付文化がないわが国 において、患者の意思により成り立っているこのような活動は極めて重要であり、国の積極的なサポートにより、大切に育てていく必要がある。
受益者が研究費を出資することは、受益者が望む研究が促進され、研究者も受益者の意図が実現できる研究を促進するため、有効な手立てと考えられる。今後の日本にとって柔軟性のある研究費の財源は重要になるであろう。
【結語】
ライフサイエンス分野できちんと成果を出すことは、日本にとって死活問題である。まずは、先端医療のための臨床治験のシステムを構築し、それに相応しい予 算をきちんとつけることが必要である。イノベーションによる経済活性が緊急の課題である今こそが、さまざまな財源の可能性を考えてでも、科学研究費を増額 しなければならない。