医療ガバナンス学会 (2010年9月25日 06:00)
いまこそ医療法の改定を;帝京大学病院院内感染事例から考える。
健保連 大阪中央病院 顧問 平岡 諦
2010年9月25日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
はじめに平成18(2006)年に医療法に追加された「医療安全」に関する規定を示す。それは第6条の10である。(なお、第6条の9、11、12には、医療安全に関する国、地方自治体の役割などが述べられている。)
医療法第6条の10:「病院、診療所又は助産所の管理者は、厚生労働省令で定めるところにより、医療の安全を確保するための指針の策定、従事者に対する研修の実施その他の当該病院、診療所又は助産所における医療の安全を確保するための措置を講じなければならない。」
この規定が実施されたのは平成19年4月1日である。それに先立ち平成19年3月30日付きで厚労省医政局長名で各都道府県知事あてに通達が出された。 医療法の改定内容の要点とともに、管下にある医療機関などへの周知依頼である。今回の事例に関係する内容の概略をつぎに示す。
第2.医療の安全に関する事項:
2.医療施設における院内感染の防止について。
(1)病院などにおける院内感染対策について。
① 院内感染対策のための指針。院内感染対策に関する基本的考え方などを文書化したものであること。指針を従業者に周知徹底すること。
② 院内感染対策のための委員会。院内感染発生時および発生が疑われる際の患者への対応状況を含め、管理者へ報告すること。
③ 従業員に対する院内感染対策のための研修。
④ 当該病院などにおける感染症の発生状況の報告その他の院内感染対策の推進を目的とした改善のための方策。
(2)特定機能病院における院内感染対策について。引き続き専任の院内感染対策を行う者を配置すること。
つぎにMRIC Vol.215「医療安全の『基本的考え方』に対する二つの障害」の概要を述べる。
医療安全の基本的考え方は、「To Err is Human; Building a Safer Health System」という有名なIOMリポート(1999)で述べられたように、「個人の努力だけでなくシステムで補完しよう」ということである。しかし、平 成18年の医療法の改定はこの基本的考え方に逆行するものである。
すなわち、「病院の管理システムを利用して、医療の安全を従事者に強制」しているのであり、病院管理者を介した医療従事者への官僚統制と言わざるを得ない。なぜなら官僚は管理者に、管理者は従事者に、それぞれ「院内感染」の責任を負わせる構造になっているからである。
たとえ「院内感染」が起こったとしても、法律を改定したことで官僚は免責され、指針を策定・研修の実施その他の措置を講じておれば管理者は免責される。「院内感染」が起こって責められるのは「主治医や院内感染対策部門のスタッフ」という現場の医療従事者のみである。
つぎに帝京大学病院院内感染事例を見てみよう。これは「病院の管理システムを利用して、医療の安全を従事者に強制」している医療法の下で起こった「院内感染」である。報道からみた本事例と医療法との関連を述べる。
(1):官僚の免責:「同菌の院内感染では2008年秋から昨年1月にかけ福岡大病院(福岡)で23人が感染、4人が死亡した例が国内最初。その後も千 葉、愛知で同様の事例が発生したが、病院側の早期対応で拡大は防いでいる。これを受け厚生労働省も各医療機関に注意を呼び掛けていた。」(東奥日報)。こ れで厚生労働省は免責になる。
(2):病院管理者の免責:「帝京大は、今年4~5月に感染者が増加したため、調査委員会を設置して調べていたという。保健所へ届け出たのは、今月2日 だった。あまりにも遅すぎる。」(産経新聞)。不十分な対策であったことは非難されるが、調査委員会を設置していたことにより免責されるだろう。また、届 け出の遅れについては非難されるが、届け出義務が指定されていない感染症なのでこれも免責されるだろう。
(3):「主治医や院内感染対策部門のスタッフ」に対する圧力:「菌に感染し死亡した27人のうち9人は感染と死亡との因果関係が否定できておらず、捜査 1課は業務上過失致死容疑も視野に死亡した患者の担当医らからも任意で聴取する方針。」(2010/9/6毎日新聞)。残るのは現場の医療従事者個人に対 する取り調べである。
以上の流れは、「病院の管理システムを利用して、医療の安全を従事者に強制」している現行医療法の下で起こるべくして起こる事態である。「過重労働が院内感染を呼ぶ」という視点がこの医療法に含まれていないからである。
帝京大学付属病院院内感染事例はどのような現場で起こったのであろうか。やはり報道から拾ってみる。
(1):「同病院はベッド数1154床で、都内でも有数の大規模病院。しかし、都によると院内感染防止対策の専門スタッフは医師1人、看護師1人のみで、 同規模の病院に比べて少なかったという。」(毎日新聞)。病院規模から考えて、院内感染の監視のみでも相当に多い仕事量と思われる。
(2):「捜査関係者によると、感染制御部の医師やスタッフは、2月に感染が増えていることを把握して以降、▽感染患者の一般病棟からの隔離▽感染患者に 対応する医師や看護師を限定する▽手洗いの励行--などの対策を進めたと説明しているという。」(毎日新聞)。院内感染のアウトブレイクの対応に、スタッ フは相当な過重労働を強いられたものと思われる。
(3):「報告書では「耐性菌への対応策を明確にしていなかった危機管理態勢の不備と各部署の連携のなさが、感染の拡大を招いた」と結論づけていま す。」(NHKニュース)。外部委員会の報告書が述べている「危機管理体制の不備」の最大の要件は「マンパワーの不足」であろう。少ないスタッフへの過重 労働の押しつけ、その結果が「医療安全の破綻」としての感染拡大という構図が考えられるのである。
もうひとつ気になる報道があった。それは、
(4):「8月に国と都が合同で立ち入り検査した際にもMRABには触れなかった。」(産経新聞)。この合同立ち入り検査はどのような経緯でなされたのか は判らない。特定機能病院に関わることであろうか。記事では病院側が立ち入り検査官に話さなかったことを問題視しているが、相当に広がっている院内感染を 察知できなかった立ち入り検査こそが問題ではなかろうか。「官僚の免責」を許す医療法が立ち入り検査をずさんなものにしているのであろう。
「院内感染」は決して無くなるものではない。医療従事者への過重労働患者が犠牲となる医療不信が増大する業務上過失致死容疑での捜査という悪循環が 繰り返される現行医療法の下で犠牲になるのは現場の医療従事者である。マンパワー不足による過重労働、そして待っているのが業務上過失致死容疑による捜査 である。
この悪循環を断ち切るためには医療法第6条につぎの項目を加えることである。そうすれば現場の医療従事者は過重労働であることを管理者に上申するだけでよいのだ。
医療法第6条への追加項目:「管理者は、医療の安全を確保するため、従事者の過重労働を予防する措置を講じなければならない。」
以下の文章は、MRIC Vol.215「医療安全の『基本的考え方』に対する二つの障害」に述べた一部である。「医療ミス」を「院内感染」に置き換えて読んでいただきたい。
MRIC Vol.215より:
医療安全に関する(平成18年の)この医療法改定は、そもそもが「低」医療費政策による医療従事者の「過重労働により医療ミスが増加した」ためである。 そして一方的な医療法改定により医療従事者に「医療ミスに対する責任」のプレッシャーを押しつけているのである。医療現場では「患者を害さない」ために 「個人の努力だけでなく、システムで補完」しようと努力しているのであるが、それまでの過重労働に加えて、さらなる過重労働となっているのである。医療従 事者の犠牲を強いる医療法第6条の追加条項が、医療安全の新しい考え方を「日本の文化」とするための障害となっているのである。
医療安全に関するこの医療法改定には、「過重労働がミスを呼ぶ」という視点が無い。また「個々の病院の努力まかせ」でありそれを「システム(たとえば法律)で補完しよう」という視点が欠けている。これらを改善するためには、医療法第6条につぎの項目を加えることである。
医療法第6条への追加項目:「管理者は、医療の安全を確保するため、従事者の過重労働を予防する措置を講じなければならない。」
医療ミスが起こった場合、もし従事者の過重労働が認められれば管理者の責任が問われることになる。必然的に管理者は従事者の過重労働に気を配ることにな り両者の一体感が出てくるであろう。また管理者の団体として一体となり厚労省とかけあえるようになる。その結果は医療従事者の過労死の予防ともなり、「立 ち去り」を予防し医療崩壊の阻止ともなるのである。
帝京大学病院のホームページに公表された外部委員報告書には、つぎのように記載されている。「感染制御部のマンパワー(情報収集能力、対策実践能力)に も限界があったのではないか。結果的に、病棟における標準予防策、接触感染予防策の遵守が不十分のまま推移し、感染が拡大したと思われる」。まさに、「過 重労働が院内感染を呼ぶ」結果となったのである。上述の医療法第6条への追加項目が無ければ、同じ事態が繰り返されるだけである。従事者に対する管理者の 責任を追加することで、病院が全体として医療安全に立ち向かうことになり、「個人の努力だけでなくシステムで補完」して医療安全を守ることになるのであ る。
(2010.9.11.脱稿)