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Vol. 334 青森県ドクターヘリが直面した壁

医療ガバナンス学会 (2010年10月28日 06:00)


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~八甲田山がいのちを分ける

北海道大学大学院医学研究科
医療統計・医療システム学分野
助教 中村利仁

2010年10月28日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


時は天正18年(1590年)3月27日、小田原北条氏攻略の途上に駿河三枚橋城(沼津市)に立ち寄った関白豊臣秀吉の陣を、麾下わずか18騎を率いて ある武将が訪れました。津軽為信です。為信はこのとき、秀吉から津軽三郡・合浦一円の所領の安堵を受けたと言われています。

以前、為信は現在の岩手県と青森県の各々一部を領した南部氏に属していましたが、やがて独立し、秀吉を訪ねる以前の天正16年に津軽地方を統一していま す。小田原の陣直前の天正18年正月、南部氏は一族の八戸政栄を津軽地方に送って為信を攻めさせますが、軍勢は攻めきれずに撤退しています。緊張状態の冷 めやらぬ中での隠密行的な小田原参陣であったわけです。

津軽氏と南部氏の領地を分けたのは、現在の青森県を分断する八甲田山系です。この山塊があるために、互いに攻め寄せるには大軍の移動に適さず、また兵站 の確保が困難です。秀吉の裁定がなかったとしても、領地の境界となったことでしょう。そして秀吉が発した惣無事令の下、国境は固定されていきます。この地 域の歴史にとって、八甲田山系の存在に意味は極めて大きかったたと言うべきでしょう。

為信の小田原参陣から400年あまりが過ぎた今、再び、青森県では八甲田山の存在が脚光を浴びています。もちろん、今後は国境としてではありません。いのちの境目として脚光を浴びているのです。

拠点病院1~2カ月交代で調整/ドクターヘリ(デーリー東北 2010/10/20)

http://www.daily-tohoku.co.jp/news/2010/10/20/new10102008top.htm

青森県は人口137万人2201人(2010年8月1日推計人口)で、面積9644平方キロメートル。東西と南北にそれぞれおよそ150キロメートルの広さを誇ります。

面積では千葉県の2倍近くであるにも拘わらず、ドクターヘリはこれまで八戸市立市民病院救命救急センターに1機が配備されていただけです。ご存じの方も 多いかと思いますが、千葉県では日本医大千葉北総病院に続いて、君津中央病院で2機目のドクターヘリの運用が既に始まっています。また、青森県の約1.5 倍の広さの長野県では、佐久総合病院に配備されている1機目に続いて、2機目の導入が議論されています。

しかしながら、10月20日付のデーリー東北紙で報道されているように、青森県では2機目の導入どころか、たった1機のドクターヘリを八戸市立市民病院と青森県立中央病院に月番交代で配備するという方向で県庁が調整に入っているようです。

ドクターヘリシステムについての理解が県庁担当者と知事周辺に全く不足していると考えます。

重症外傷については、初期治療の早期開始と、その患者さんにとっての決定的治療(definitive treatment)の可能な施設への搬送が予後を大きく左右することが知られています。全てを概ね1時間以内で行うことが必要と考えられており、このド クトリンを指してGolden hourと称されています。

ドクターヘリの巡航速度はおよそ時速200キロメートルであり、通報から到着までの時間、さらに現場での診察と初期治療の時間を考えると、その守備半径はおよそ50キロとされています。

キャビンが与圧されていないヘリコプターはあまり高度を取ることが出来ません。従って、八甲田山のような高山地帯は迂回して現場に向かう必要がありま す。直線距離でなら青森市は青森県東部の大半を守備半径に納めることが出来そうに思えますが、実際には迂回の必要から完全に範囲外となります。これは現 在、八戸での運用がなされている現状で、津軽地方側で目立った実績が上げられる状態にないという事実からも容易に推測できます。

ドクターヘリの運用に当たっては、救急医療についての知識と経験を持ち、ヘリに搭乗して現場での初期診療を行う医師と看護師が一定数必要です。また設備 と複数診療科での充分なスタッフを揃えた、搬入先病院も必要です。地方ではそのような病院は決して多くはなく、特に北海道、東北、九州・沖縄の離島では動 かしがたい制約条件となっています。

幸いにして青森県では、八甲田山の東側にある八戸市立市民病院だけでなく、西側の青森市にある青森県立中央病院でもまた、ドクターヘリを運用するに足る 人材の確保が出来たようです。であれば、2機目の導入を検討するのが順当なところと考えます。しかし、青森県庁の担当者の頭の中には、2機目の導入という 発想はないようです。

ドクターヘリの技術的限界と、その基盤としているドクトリンを無視して交代運用を行った場合に、青森県でやがて確実に発生する事態は容易に想像できます。

たとえば、八戸にドクターヘリが配置している月に、津軽側で重症外傷症例が発生した場合、県立中央病院にヘリがあれば救命可能であったはずの患者さんが、ヘリや救急車の搬送では間に合わず、これまで通り亡くなってしまうというケースが年間数例は発生するでしょう。

確かにこれまでであればいずれにしろ助からなかったいのちとは言いながら、一度津軽地域でドクターヘリの運用が始まってしまえば、月が違えばヘリのおかげで救命される人が出ます。

今後実際に月が違えば助かるはずの人のいのちが助からなかったということになれば、これは県民一般として、2機目の導入を回避した知事の決断を批判する 声が出て当然でしょう。年間7000億円の青森県の予算規模で、2機目の2000万円余を惜しんで人命を諦めるという選択は、果たして青森県民に広く支持 されるのでしょうか。一定の政治的リスクがあると考えるべきでしょう。

(因みにドクターヘリの固定費用である年間2億1千万円は、国と都道府県が折半して負担することとなっています。さらに昨年より都道府県負担分は5割から 8割が特別交付税で補われます。青森県の場合はうらやましいことに8割が特別交付税として国庫から補われるため、県の支出は一機当たり2100万円となり ます。)

その場合、罪深いのは、知事に対して救えるはずの人命の確実に失われることと、それによる政治的リスクの両方をきちんと説明することを怠った県庁の担当者でしょう。

およそ政策決定に関与する立場の医療の専門家であれば、明確に予測しうるリスクを提示せず、政治家が誤った根拠と予測に基づいた決断を行うことは可能な 限り回避させるべきでしょう。その前段階として、リスクを無視したあのような記事が報道されるという事態は避けられて然るべきと考えます。当然なされるべ き情報提供が欠けています。政治家も人間であり、専門家によって深刻なミスディレクションが行われれば、当然、その後は専門家一般に対する信頼を失い、ま た当事者個人に対する不快な感情を禁じ得ないことでしょう。

青森県庁の担当者には、青森県2機目のドクターヘリ導入に向けて真摯な努力のなされることを期待したいと思います。

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