医療ガバナンス学会 (2010年11月14日 06:00)
上記は以前から私が尋ねたかった問いであるが、誰に尋ねるべきか分からず放置してきた。イノベーションという概念を経済学に導入したシュンペーターは、 企業家の革新による動的な経済発展を考えていた。であるから、イノベーションには単なる創造ではなく、社会に持続的発展をもたらすアイデアの創成が求めら れる。その後に生まれたロジャースの普及理論には、消費者の視点から新商品やサービスの価値を掘り起こすイノベーターも登場する。最近ではヒッぺルが、消 費者の生んだ発想がイノベーションを導くメカニズムも明らかにしている。イノベーションとは「現場からの改革」に他ならず、医療者が企業家に相当するなら 患者とその家族も消費者として参加し共創的に実現すべきものであろう。
私の研究室では、イノベーションゲーム(IMG)とアナロジーゲーム(AG)という二つのゲームを開発しており、これらを用いて実業家たちが市場から評 価されるような新発想を得るプロセスの実現を進めている。IMGには企業家役と消費者役という2種類のプレイヤーが参加し、既存知識の組み合わせからアイ デアを創造し評価し合う。AGでは知識を表す単語群に画面上で現れ、プレイヤーは単語塊に概念名を付与しながら再配置を繰り返してゆく。
眼科の疾患を対象領域としたAGを眼科医師らに試行して頂いたところ、ある病気について「角膜の病気」など患部部位による概念化から「通常は慢性だが稀 に急性となる病気」という新たな概念化に発展し、急性のケースで現れる症状を経験から掘り起こすに至った(図参照)。このように医療者の経験の中には様々 な視点が潜在していて、掘り起こせば診断や治療、患者の生活品質の革新が果たせるのではないかと期待している。勿論、患者とその家族、未来に患者となる多 くの皆様の経験に多様な視点が埋まっていることにも。私が表記の問いを尋ねる場は、皆様の集うこの協議会しかなさそうである。
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オバマ大統領「ヒトゲノムと個別化医療」法案に見るゲノム医療の近未来
中村祐輔(国立がん研究センター研究所所長)
20世紀の医療は飛躍的な進歩を遂げ、多くの病気に対して多くの治療薬が開発された。しかし、同じ病名と診断されたすべての患者さんに、同じ種類の同じ 量の同じ薬剤を投与してすべての患者に有効で、誰にも副作用を示さないことなどは、現実の医療現場においてはありえない。診断がついた時点で、最も効果の 期待できる薬が投与され、その後、効果がない場合や不十分な場合、もしくは、副作用が出た場合には、薬の量を増減する、あるいは、薬の種類を変えるなどの 対応が行われている。医療機関において医師が患者さんに薬を処方する際に、「”とりあえず”この薬で様子を見ましょう」と言う事が多いのですが、今の医療 は、まさに可能性に期待をかけた “とりあえず”医療なのである。
統計によると、最初の治療で満足の得られる患者さんの割合は約50%であり、二人に一人の割合で効果が非常に低いか、全く効果が認めらない。治療効果の ない薬で治療を受けることは(1)別の薬に変更した後、その薬が有効で治癒したとしても患者さんが回復するまでの時間を長引かせる。(2)効かないで過ご す間に病気が進行する場合や他の合併症などを併発して、治療が困難になる危険性が増す。(3)意味のない薬剤によって副作用が起こる危険性がある。(4) 効かない治療薬・副作用に対する治療・加療期間の延長などによる医療費の増大を招く結果となる。
したがって、薬の治療効果や副作用の危険性が事前に予測できるならば、より効率的に、より安全に薬剤などを投与する医療を確立することが可能になる。わ れわれは遺伝的な要因に着目して、「必要な量の必要な種類の薬剤を必要な患者さんに(an appropriate dose of a right drug to a right patient)」という医療(個別化医療・オーダーメイド医療)の実現を目指している。米国ではバラク・オバマ大統領が上院議員時代の2006年に「ゲ ノムと個別化医療」法案を米国議会に提出しており、この研究分野の研究を推進しているが、日本の取り組みは大きく遅れている。
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がん個別化医療の確立に向けた橋渡し研究
野田哲生(癌研究会研究所所長)
現在、化学療法はヒトがん治療法の1つとして確立している。しかし、がんの化学療法剤の多くは、他のヒト疾患の治療薬に比べて奏功率が低く、加えて、副 作用が強いという特徴があり、それが化学療法によるがん治療の普及を困難にしている。また、近年、次々と開発される化学療法剤の殆どは、分子標的薬であ り、これらの薬剤の投与に当たっては、その患者さんのがんが、実際にその標的分子を発現していることが確認されているにも関わらず、その奏功率が50%を 超えるような新薬はごく限られているのが現状である。また、その一方、新たな分子標的薬の出現により、各種のがん患者さんに対して有効を示す薬剤は着々と 増えており、その選択の幅が広がりつつあることも事実である。従って、あらかじめ化学療法剤を投与する前に、その患者の奏功率や副作用の出現率を予測する ことが可能となれば、結果的に、より効果が期待でき、より副作用の出現頻度が低い化学療法剤を、患者さんに投与するという、がんの個別化医療の確立が可能 となる。
こうした化学療法剤の有効性の差異は、がんの多様性に起因するものである。即ち、その薬剤が有効ながんと無効ながんでは、同じ臓器に発生し、同じ組織型 で同じ標的分子を発現している、同じステージのがんであっても、そのがんがその増殖と生存を依存している分子機構が異なっていることを示している。即ち、 効果や副作用の予測システムを確立するためには、こうした「がんの多様性」を理解することが必要であり、実際には、その化学療法剤を投与された患者さん由 来のがんサンプルの大規模な収集と解析による橋渡し研究の推進が必須となる。しかし、現在の日本には、こうした研究を支援するシステムが存在していない。 本講演では、日本におけるがんの個別化医療推進に向けて、国レベルでのこうした橋渡し研究推進システムの構築について考えてみたい。
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パーソナルゲノム時代の私たち
宮野 悟(東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター教授)
一人のゲノムを決めるとは、つまり「私」の細胞の染色体にあるDNAを構成している30億文字からなるATCGの文字列をコンピュータで読めるようにす ることです。これをゲノム情報とよんでいます。国際ヒトゲノム計画は、14年の歳月をかけ、2003年にこの30億文字からなるゲノム情報の電子化を完了 しました。「ヒトゲノムが解読された」と世界中で報道されましたが、ヒトゲノムという暗号が解読されたわけではありません。この直後、米国NIHはヒトゲ ノム決定後のロードマップを発表しています。そこには、”Biology is changing fast into a science of information management” というメッセージが出されており、ITによる医療・ヘルスケア開発のパラダイムシフトが起こることが示唆されていました。現在、このパラダイムシフトは急 速に進行しています。2007年、個人個人の違いをDNAのレベルで解明する国際ハプマップ計画が完了し、ヒトの病気や薬剤応答に関わる遺伝子を効率よく 見つけるための基盤ができました。そこでは3つの人種の全ゲノムにわたるDNAの違いが明らかにされました。2008年、中・英・米は、世界各地の 1000人以上の全ゲノムを解析して、医学的応用価値のある人類ゲノム地図を作成する「国際1000人ゲノム計画」を開始し、2010年に終了します。ま た、2008年から、主要ながんのゲノム異常カタログを作成する「国際がんゲノムコンソーシアム」が開始され、25,000の癌サンプルと正常細胞、あわ せて5万人分の全ゲノム情報が解析されています。そして、2008年、「ゲノムと個別化医療法案」を提出したオバマ上院議員が米国大統領に就任しました。 2009年、米国ヒトゲノム計画を完遂したコリンズ博士が米国NIH所長に就任し、ゲノム情報を基盤とした米国の医療・ヘルスケア戦略が、だれの目にも明 らかになりました。さらに英国では2015年までに10,000人のパーソナルゲノムをコホート情報と一緒に集める計画が進んでいます。
1000億円かかったヒトゲノムも、現時点では100万円ぐらいでビジネスにのせている会社もあります。この背景にはシークエンサー(DNAを読み電子 化する装置)の画期的な技術開発があり、現在、シリコンシークエンサーなどが急速に実用化され、IBMとロッシュも共同で開発をはじめました。同時に、遺 伝子検査ビジネスの23andmeなど、ゲノム情報の新たなサービスモデルも広がっています。5年以内には確実に10 万円でパーソナルゲノムを決めることができ、10年以内に1万円を切る時代にはいります。個別化医療に向かう激動の時代に入ります。
米国の戦略に象徴される個別化医療を実施するためには、スーパーコンピュータやクラウドコンピューティングなどの計算資源とサービスを社会インフラとし て整備すること、そして医療・ヘルスケアにおけるIT人材の育成と確保が最大の鍵です。米国はほとんど全てのものを仕込みました。
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ゲノム・情報戦争
上 昌広(東京大学医科学研究所特任教授)
8月13日、日経新聞が一面トップで、マイクロソフトが日本の病院向け情報システム事業に参入することを報道した。すでに、立川病院に試験システムを導入し、今後3年間に30以上の病院に導入を目指すようだ。
ITの雄として君臨したマイクロソフトも、最近ではグーグルやアップルの後塵を拝している。生き残りをかけて、医療分野に集中投資するようだ。これは、 米国では周知の事実のようで、7月28日のNEWSWEEK日本語版にも「マイクロソフトが挑む医療大革命」という記事が掲載された。この中で、同社が開 発した、患者情報を統合するソフトウェア「アマルガ」、および患者記録を保管するオンラインシステム「ヘルスボールト」が紹介されている。ライオンズ記者 は、「医療は基本的に情報管理ビジネス」で、必要な初期投資が大きいため、参入できる企業は一部の大企業に限定されると考えられているようだ。私も賛成 だ。
日経やNEWSWEEKは、医療の効率化のためにITが必要という論調だが、別の側面もある。それは、ゲノム情報に基づく個別化医療だ。
NatureやNEJMにゲノム研究が紹介されない週はない。7月22日にはNEJMの巻頭言で、コリンズNIH長官とハンバーグFDA長官が「個別化 医療への道」という論文を寄稿した。両者を任用したのはオバマ大統領で、彼は大統領選挙を控えた2006年に「ゲノムと個別化医療法案」を提出している。 オバマは、個別化医療を成長戦略の中核と認識している。
ゲノム研究の成果は着実に「商用化」されつつある。ネット上で遺伝子診断を提供する「23 and ME」という会社をご存じだろうか。同社によれば、糖尿病や癌などへの罹りやすさから、先祖に関する遺伝情報を、400ドル程度で調べることができる。既 に多くの日本人も利用しているようで、様々なブログで感想が紹介されている。実は、この会社の「親会社」はグーグルだ。シリーズAで調達された900万ド ルのうち、390万ドルはグーグルが提供した。遺伝情報をグーグルが押さえることで、どのようなビジネスが可能になるかは、容易に想像がつくだろう。
ゲノム情報に基づく個別化医療の中核は、シークエンス技術と情報処理だ。各領域で熾烈な競争が起きている。例えば、シークエンサー開発では、イルミナな どのベンチャーを追いかけて、サムスン、IBMなどが参入した。また、ゲノム解析は北京ゲノムインスティテュートが、英国サンガーセンターや我が国の理研 を抜き去った。情報処理はIBMのスパコンがヘゲモニーを握りつつある。そして、電子カルテはマイクロソフト、患者への情報提供はアップルやグーグルが攻 勢をかけている。
我が国の総合科学技術会議も、漸く、ことの重要さに気づいたようだが、その戦略は心許ない。ゲノムコホート研究が、来年度の科学・技術の重要施策に選ば れたが、おそらく、京都大学が推進している長浜市のコホート研究が念頭にあるのだろう。このプロジェクトが科学的に重要であることは言うまでもない。しか しながら、グーグルが「ネット・コホート」を構築している横で、「精密な箱庭」を作っても意味がない。
現在、グーグルを初めとしたIT革命の勝者が、医療情報のプラットフォームを狙って競争している。このプラットフォームは、ゲノムだけではなく、やがてエピゲノム、プロテオミクスなどの新規技術も網羅するだろう。長期的な国家戦略を議論しなければならない。