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Vol.23102 日本論は意味がないという主張に対する再反論

医療ガバナンス学会 (2023年6月14日 06:00)


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*この記事は、2023年6月6日に公開された講談社現代ビジネスの記事を転載したものです。

ほりメンタルクリニック
堀 有伸

2023年6月14日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

「日本人は本当は集団主義ではない。だから日本人は集団主義だと決めつけてそれを批判する日本論には意味がない」という主張を見かけることがある。
私は、「日本論」として展開されてきた議論には重要な価値があると考え、それらに依拠して主張を展開している人間である。したがって、今回の小文は、そのような批判に対して再反論を行うことである。

そもそも既存の日本論が「日本人は集団主義だからよくない」と議論してきたと考えるのは、不正確な読解である。例えば、講談社現代新書のなかに収められている中根千枝の『タテ社会の人間関係』の中では、次のように書かれている。

「とにかく、痛感することは、「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」

中根が日本社会に下したこの診断は重要で、現在に生きる日本人も厳粛に向かい合うべき価値がある。中根が主張していることを言いかえるのなら、個人主義の空気が強い場では個人主義的にふるまい、集団主義の空気が強い場では集団主義的に振る舞い、そこに一貫した明晰なルールを設定できないことこそが、日本人の最大の弱みということになる。

そのように空気に合わせて行動することが合理的な場面もあるだろう。しかし場の空気に疑問を持ち、何らかの理論枠を参照して判断を行うべき場面でも、少なくない日本人がそれを行うことを頑なに拒否しているように見える場面がある。それには複数の要因が複雑に関係しているが、その中の一つに、「自分が空気に一致した状態」から強すぎるナルシシズムの満足を感じてしまうという、深層心理学的な問題がある。そのナルシシズムのことを明確に意識し、今の時代に相応しいその心理傾向への対応を考えていくべきであるというのが、私が主張してきた内容である。

ナルシシズムの心理とかかわる現象として「見られることへの羞恥」が強いことを指摘できる。見られること、主題にされること、語られることは、ナルシシスティックな傾向が強い人が、全力で回避したいと望む状況である。そしてそこへの直面を強いられた場合には、著しい混乱や恐怖を感じるし、そのような直面を迫られる状況への嫌悪は強く、その対象への強い攻撃性が刺激されることが稀ではない。しかし、今の困難な行き詰まりを経験している日本社会は、この心理的な課題にも取り組むべきである。

日本人のこの心理的特性を、精神科医の私から見てもうなるような精緻さで記述したのが、丸山眞男につながる政治学者の藤田省三である。非常に有益な指摘を藤田は行ったが、予想通り藤田の言説が愛されレスペクトされる空気は極めて乏しい。少し長くなるのだが、今回の議論と関係する藤田の記述を紹介する。

「昨年亡くなった西ドイツのカール・レービットは戦争中日本にいて軟禁状態におかれていた。彼は戦後間もなくこう書いています。日本人の精神的特徴は自己批判を知らないということである。あるのは自己愛、つまりナルシシズムだけである、と。その指摘はいまいよいよ実証されてきたと思います。その点をさらに突込んでいうと、個人としての自己愛であればエゴイズムになり、したがって自覚がありますが、日本社会の特徴は、自分の自己愛を自分が所属する集団への献身という形で表す。だから本人の自覚されたレベルでは、自分は自己犠牲を払って献身していると思っている。その献身の対象が国家であれば国家主義が生まれ、会社であれば会社人間が生まれて、それがものすごいエネルギーを発揮する。しかしこれはほんとうはナルシシズムであって、自己批判の正反対のものなのです。錯覚された自己愛、ナルシシズムの集団的変形態であって、所属集団なしに自己愛を人の前に出すほどの倫理的度胸はない。本当に奇妙な状態です。よく外国の批評家が、日本人は集団主義だというけれども、それは一応はあたっている。ただし、日本人の集団主義は、相互関係体としての集団、つまり社会を愛するというのではなくて、自分が所属している集団を極度に愛し、過剰に愛することによって自己愛を満足させているのですから、そこに根本的な自己欺瞞がある。(中略)自覚、自己批判がないわけですから、これを崩すのは容易なことではない」
(飯田泰三・宮村治雄編『藤田省三小論集 戦後精神の経験Ⅱ』より引用)

話が抽象的になってしまったので、具体的な例にひきつけて考えてみたい。このような日本人の心理と関連する現象として「心中」がある。自殺は痛ましい行為であるが、それに際して、自分の家族などの身近な人に一緒に死ぬことを強いるのが心中である。日本以外の社会では、このような行為は単なる自殺であると判断されることが少なくない。しかし、「死すら共にする」深い情緒的なつながりに、ごくわずかであっても、共感する心理を日本人は持ちやすい。ここで働いているのは、一種のナルシシズムである。
しかし心中という行為が成り立つためには、「独立した個人の尊重」「普遍的な人間一般という概念」「基本的人権」「私的制裁の禁止」といった近代社会の前提を無視することが必要であり、このことを許容する心性が日本社会で強いことを問題視するのは、現代の状況において適切である。

大手芸能プロダクションのジャニーズ事務所の経営者が、長年にわたって自分の会社にかかわる若者を性的に搾取していたことへの批判が強くなっている。これと関連した問題は多くあるが、その事実を知らなかったとは思えないマスコミ各社が、その事実の隠蔽と否認に長期間共謀していたことも、強く批判されるべきだろう。一方で藤田の考察を参照するならば、報道関連の当事者たちは、そのことをあまり強く問題と感じていな可能性があると推測する。自社とジャニーズ事務所との結びつきを良好に保つことこそが最優先課題なのである。そのためには、性的搾取された若者の人権がないがしろにされたり、マスコミュニケーションの社会的使命などという抽象的な理念を軽んじたりすることを、真剣に問題にするべきではない。場合によっては、「芸能界などという華やかな世界に憧れた若者たちの軽率さ」の方を批判して攻撃するような考えを持っているかもしれない。

一方でこのような状況を、「日本人の深層心理」に規定された変更不可能なものだとする悲観論の立場に私は立たない。努力して取り組み続ければ何とか変えることも可能だろうと考えているので、このような発言を続けている。実際に、近代的な人権の理念を自分の心に内在化し、見事な実践を示した日本人も数多く存在する。

日本人が近代文明と出会って長い期間が経つのに、それを本当の意味で自分のものとすることを妨げている要因は何なのだろうか。私は、政治の要因が大きいと考えている。直前に発表した文章で、私は岸田首相をはじめとしたG7広島サミットに関する一連の仕事を肯定的に捉えた。
https://gendai.media/articles/-/110720
しかし気になる点もあった。全体に被爆者としての日本人を強調することでイニシアティブを発揮したのにもかかわらず、核兵器禁止条約に参加せず、それを推進しているICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のようなそれを推進してきた団体を冷遇していることである。このように「オモテとウラ」を使い分けることで約束事に縛られずに、複雑な手練手管を用いて自在に状況下で影響力を発揮できることに、過剰なナルシシズムの満足を覚えているのではないか。その反面として、つねに状況に左右されて一貫性が持てず、常に態度がブレてしまうことがもたらすデメリットを、軽視し過ぎているのではないだろうか。そのような疑問を感じる。

抽象的な原理を著しく脱価値化し、直接的かつ情緒的な接触を過剰に美化する心性が「教育勅語」で示されている価値観であることを指摘したのも、藤田省三の業績である(興味のある方は、https://gendai.media/articles/-/51185を参照してほしい)。
そしてこの原理にしたがって日本社会を運用できるようにしたいと考えているのが、政権与党である自民党である。しかし、教育勅語の考えのみを強調することが、日本社会の伝統を尊重した行動であるとは思えない。これは明治期に高まっていた自由民権運動を抑えるために人為的に作られたものであるし、それのみが強調されたのは、第二次世界大戦の直前から敗戦までである。教育勅語を準備した明治の元勲たち自身が、それだけでは国家の運営のためには不十分であることを自覚して、エリート層には天皇機関説のような西欧の政治理論についての教育を行っていたのだ。私は、そのように日本の政権与党には近代的な政治理論を重んじた運営を行ってほしいと望んでいる。

安倍首相の問題が生じた後に明らかにされたのは、自民党が統一教会のような団体への批判力を失い、あまりにも甘い処遇を続けてきたという事実だった。共産主義的なものへの反発(これは西欧的な考え方への反発につながりうる)こそが正義で、積極的に選挙に協力してくれるような内輪のつながりに甘い。ICANへの冷遇と好対照である。身内びいきと理論嫌いを原則とする運営を、政権担当者が継続していることについては、批判的にならざるをえない。このことが国民全体の精神性に与える影響も、小さくない。

悪影響は、政治や宗教の分野だけに及んでいるのではない。産業や学問の分野もそうである。当然予測されるように、「基礎的な、いつ具体的な成果がわからない普遍的なことがらの追求」の価値は貶められ、そこに十分な投資は行われない。「内輪の結びつき」への利益の分配が優先され、その内側より強力に外部を統制できるような方向性の施策が優先される。ICANがそうされたように、抽象的な理念を尊重して能力開発と実績を蓄積してきた人々の成果は、ただ乗りしたり安価で利用したりことが目指されるようになる。その人々の社会的影響力が高まらないように抑える対策も実行される。そのようなやり方で日本社会の能力を有する人を搾取する傾向が知られるようになり、有意な人材はそのような社会にコミットすることを避ける流れが強まってしまっている。
マイナンバーカードの導入が大きな混乱を招いている。マイナンバーカードのようなITと関連した技術はプログラミング言語のような抽象度の高い表現に支えられている。そのIT化に乗り遅れたことが日本の産業が弱体化した要因の一つであるが、そこには「抽象的なものには価値がなく、具体的な人間関係こそが重要」という教育の徹底と組織運営の方法が好ましくない影響を与えていたことが考えられる。

日本社会は特殊な国を自認することを止めて、近代的な原理原則に「建前」としてではなく本格的にコミットすることを選択するべきである。そうすることで日本社会の伝統が失われるわけではない。

最後にもう一つ強調したいのは、このようなナルシシズム批判は、政権与党だけではなく一部マスコミや野党にも当てはまるということだ。直近の状況では、岸田首相の息子が公邸で忘年会を開いた様子がスキャンダラスに取り上げられている。もちろんそのような行動は自制してほしいと私も考えるが、そこまで重要なことであるとは思えない。G7での言動と、核兵器禁止条約に参加しない矛盾との方が遥かに深刻な問題であり、ここにこそ批判や注目を集めるべきだ。しかし、話題になるのは宴会の話ばかりだ。抽象的な議論の価値を貶め、「わかりやすい、偉い人へのうっぷん晴らし」にばかり加担することは、日本的ナルシシズムの克服とは反対の、それを悪化させ拡大再生産する行為である。そのような低レベルの中傷に一部マスコミや野党が終始することで、日本社会で「批判」という行為の正当な評価を貶めてしまい、統一教会のように「批判的な政治勢力への敵意」を煽る主張に説得力を与えてしまう。その意味で、自らのナルシシズムの問題を顧みないマスコミや野党の政権批判は、この問題の克服につながるものではなく、それを悪化させ温存する共犯関係にある行為であり、批判されるべきである。

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