医療ガバナンス学会 (2023年6月19日 06:00)
鳴門教育大学嘱託講師
Office MAIKO代表
黒田麻衣子
2023年6月19日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
心臓に疾患が見つかる数年前の話である。筆者は原因不明の高熱に十数日も苦しんだ。高熱が続いたので、近所のX病院を受診した。X医師は診察をして「扁桃腺も腫れてないし、ただの風邪だろう」と解熱剤を処方してくれたが、それを飲んでも回復しなかった。外注してくれていた血液検査の結果を聞きに行った日にも「血液検査の結果も大したことはない」と、高熱の私は誰もいない待合室で30分以上も放置された。どうしても熱が下がらなくて、食べ物も喉を通らなくなったので、日曜日に福祉センターの休日診療を訪れた。Y医師は、インフルエンザの検査をしてくれて、ていねいに話を聞いてくれて、血液検査もしてくれて、循環器に疾患があるかもしれないとレントゲンも撮ってくれた。
ここに来て、そういえばX医師はインフルエンザの検査もしてくれなかったし、レントゲンなんか撮ってくれなかったなと思った。Y医師は私の血液検査のCRPの数値が10を超えていることを問題視してくれて、「明日、X病院に行ってこの血液検査の結果を見せて、大きい病院に紹介状を書いてもらってね」と言ってくれた。果たして翌日、再度X病院を訪れた。X医師は「自分のところでやった血液検査ではCRPは高くなかった」と言い放った。X病院で検査を受けたのは1週間も前の話で、今ある検査結果が最新のものなのに、X医師は聞き入れてくれなかった。
そして私をクレーマー扱いしつつ、「どうしてもと言うなら紹介状は書くよ」と一応の紹介状は書いてくれた。きっとX医師の同級生か友人なのだろう。大きな公立病院の副院長先生だというZ医師が担当となった。X医師から何らかの言づてがあったのだろう。Z医師はハナから「大げさ患者」といった扱いで、ろくに話も聞かず、私の顔を見るなり「あんた、リンゴ病よ。顔も赤いし足も浮腫んでるし」と言い放ち、血液検査に行って来いと診察室を追い出した。血液検査の結果、リンゴ病はネガティブ。だが、ネガティブであったという検査結果は「リンゴ病だったのですか?」と私が聞くまで教えてもらえず、再び診察室に入った私にZ医師は「じゃあ、これ薬出しておくから。」とだけ言って、カルテをカチャカチャさせるだけだった。
結局、Z医師の処方してくれた薬を服用して、数日後にやっと私は高熱から解放されたが、私がもっとも感謝しているのはY医師である。X医師のみならず、Z医師も私にとっては「医師失格」のヤブ医者だ。X医師とY医師は高齢で、いわゆる「経験豊富」な医師だのだろう。しかし、患者の私の「つらさ」に寄り添ってはくれず、自らの思い込みだけで患者をあしらった。自分の見立て違いを患者側から質問されるまで明かさなかった。「リンゴ病だろう」との見立てが間違っていたことが問題なのではない。「違ってたね」と一言言ってくれれば良かったのだ。仮説から検査で検証をして、診断をするのは当たり前なのだから、「見立てが違ってたわ」って言ってくれれば良かったのだ。言わないのは「隠した」と見なされても仕方がない。私の身体のことなのに、私に説明しれくれないZ医師は、絶対に信用できないし、信頼できない。たとえZ医師の処方した薬で高熱が下がったとしても、「あの高熱の原因は何だったのか」と今も腑に落ちないままなのは、Z医師のずさんな診断のせいだと思っている。最新の検査結果を認めないX医師は論外だ。だから、私は、二度とX医師・Z医師の顔を見たくないし、世のため人のためにも早く引退してほしいと願っている。
一方で、Y医師のことは、今もとても感謝しているし、信頼している。もし、専門家から見たときに、Y医師の対応に落ち度があったとしても、私は悪感情は抱かない。なぜならば、彼だけが私に対して親身になってくれたからだ。私の辛さに寄り添い、なんとかしてあげたいという態度で接してくださった。「インフルエンザかと思ったんですが、違っていました」「だから、血液検査をさせてくださいね。あと、レントゲンも撮っていいですか?」「レントゲン撮りました。心臓とか肺に、何か疾患があるかもしれないと思ったんです。めっちゃ丁寧に診てみたけど、循環器系に疾患があるようには見えませんでした」と、なぜその検査をしたのか、どういう仮説・どういう見立てで検査をして、その結果、どうだったのかをきちんと説明してくれた。だから、もしもY医師が「結局、病気としては何らかのウィルスに感染したんじゃないかと思います。何のウィルスかはわからないけれど、抗生物質で様子見ましょう」って仰ったなら、それで納得したと思う。もしもあの時に、大きな病気の見落としがあったとしても、私は「設備の整っていない福祉センターの休日診療で、彼はできる限りのことをしてくれた。病気が見つからなかったのは、彼のせいではない。」と考えただろう。Y医師は、若くて経験不足だったのかもしれないけれど、私にとっては間違いなく「信頼できる、良い医師」だった。
自分を診てくれる医師が「腕のいい名医」であってくれれば、たしかに嬉しい。だが、どんなに腕が良いと言われている医師であっても、患者の顔を見てくれない、患者の辛さに寄り添ってくれない医師を、信頼はできないと思う。技術が未熟で経験不足であっても、患者の顔を見て、辛さに寄り添ってくれて、自分のために一生懸命になってくれているということが伝わってくれば、信頼できる良いお医者様だと感じるのではないだろうか。
最後に、私の心臓血管外科の主治医の話を紹介しておく。有り難いことに、私の心臓手術は「腕の良い名医」が執刀してくれた。私の主治医である徳島赤十字病院のM医師は、私がもっとも信頼する医師の一人である。M医師は、たぶん私の手術では第一助手を務めてくださったのではないかと思う。執刀医は別の先生だった。その先生がはじめて術前の病棟回診に来られた時のことだ。執刀医たち手術チームが部屋を出たあと、すぐにM医師は私の部屋に帰って来られて仰った。「心電図のシールにかぶれたのかな? 皮膚が赤くなってるね。塗り薬、出しておきましょうね」と。心臓手術を前に、少し赤らんでいた程度の皮膚の異常に、彼は心を配ってくれた。診察は執刀医がしたので、ベッド脇から覗き込んでいただけだったのに、私の小さな異常に気づいて、そして対処してくれたのだ。
その後も、夕方などに時間を見つけては病室に顔を出してくれて、「心配事があったら言ってね」と声をかけてくださった。だから私は、心臓手術の前日に彼に言った。「ぜったい大丈夫だと信じています。でも、人工心肺も回すんだから、100%ではないと思う。もし、万が一、手術がうまく行かなかったら、そのときは私の身体を病理解剖して、手術がうまく行かなかった原因を突き止めて、医学の発展に活かしてください」と。M医師は驚いて「え!大丈夫ですよ!」と仰った。「わかっています。大丈夫だと思っています。先生が大丈夫と言ってくださることばを私は100%信頼しています。だからこそ、その「絶対大丈夫」が「絶対」じゃなくなったとしたら、そこには予測できない何らかの原因があったんだろうと思うんです。だから、それはちゃんと解明して、次の医学に活かしてほしい」——心臓手術の前日に、冷静にそう言えるほど、私はM医師を信頼していた。M医師が、常に「患者を見ていた」「患者の方を向いていた」から言えた言葉だった。万が一、手術がうまく行かずに私が命を落としたとしても、それは絶対にこの人たちのせいではない。ただ、医学上の予測不能な事態が起こっただけの、不幸なアクシデントでしかないはずだと、そこまで信じられたのは、主治医がM医師であったからだ。
今はすぐに裁判を起こされる時代、何かあったらすぐに訴えられる時代と言われて久しい。医療現場がそれを過度に恐れている様子を感じることもある。でも、患者から訴えられることを恐れている病院ほど、医療者の目は患者を向いていないとも感じる。医師と目が合わない。説明のことばは、患者のためではなく自分たちの危機回避のため。だから、ことばに体温が感じられない。
患者のことを見て、患者と向き合って医療を提供してくれている病院は、(患者に見えないところでは裁判沙汰を恐れているかもしれないけれど)一つ一つの声かけに、裁判を恐れての危機回避ではない、思いやりや温かみを感じる。
医療者も人間なら、患者も人間である。人と人との信頼関係は、やはり、相手の目を見て、相手の気持ちに寄り添ってこそ築けるものである。医師は多忙だ。いちいち患者の心に寄り添ってなんか居られないという方もいらっしゃるだろう。私は、多忙であっても患者に寄り添ってくれるM医師のような医師にかかりたいと願う。