医療ガバナンス学会 (2010年12月31日 06:00)
東京大学医科学研究所 先端医療社会コミュニケーションシステム
上 昌広
※今回の記事は村上龍氏が主宰する Japan Mail MediaJMMで配信した文面を加筆修正しました。
2010年12月31日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
11月19日、米国のメディケア(高齢者向け国営保険)諮問委員会が、デンドレオン社の前立腺癌ワクチン プロベンジを保険償還するように推奨しました。この推奨を参考に、来年メディケアは最終判断を下しますが、多くの関係者はそのまま承認されると考えています。
メディケアへの償還が実現すれば、プロベンジは米国だけで年間17.5億ドルを売り上げると予想されています。特許切れまでに世界での売り上げは数兆円 に達します。デンドレオン社に莫大な収入、および米国に莫大な税収をもたらすでしょう。このニュースは、日本のマスメディアは取り上げませんでしたが、ロ イター、ブルームバーグ、ウォールストリートジャーナルなどを通じ世界に報道され、米国ががんワクチンなどを含も医療分野を成長戦略の柱と認識しているこ とが明らかとなりました。
【米国の出口戦略】
米国はがんワクチン開発をリードしようと様々な手を打ってきました。例えば、昨年9月、がんワクチンの治療効果判定のガイドライン素案を発表していま す。治療効果判定のデファクトスタンダードを制することを念頭においているでしょう。その効果は、フィギュアスケートやスキージャンプなどのスポーツで、 ルール変更が成績を大きく左右することと同じです。今後、米国に拠点を置く製薬企業が、がんワクチン開発では有利になります。
また、今回のメディケアの判断は、米国への投資の集中を更に加速させるでしょう。現在、全世界で多くのがんワクチンが開発中であり、グラクソ・スミスク ラインやメルクなどは最終段階の第3相治験まで進んでいます。今回のメディケアの判断により、医学的な有効性を示せば、米国政府が保険償還することが明ら かになったのですから、製薬メーカーは米国での申請を優先せざるを得ません。この結果、米国を舞台に開発競争が繰り広げられ、米国の患者が最初に新薬の恩 恵に預かると同時に、医薬品開発のノウハウが米国に蓄積します。米国は、「官」がマーケットを整備し、競争を促進する「出口戦略」が巧みです。
【出口戦略のなさがワクチン・ラグを生んだ】
この動きは我が国とは対照的です。例えば、予防接種。残念ながら、自腹を切ってまで、子どもに予防接種を打つ親はそれほど多くありません。また、多くの 親は十分に予防接種の重要性を認識していません。このため、多くの先進国では、医療上重要なワクチン接種が法律で義務づけられ、公費負担になっています。
しかしながら、厚労省は法定接種を増やさず、そのかわり、国内ワクチンメーカーに補助金を出してきました。これでは製薬企業のインセンティブは上がりま せん。なぜなら、十分な市場が見込めず儲からないからです。売れないワクチンを開発したがる企業はありません。その結果がワクチン・ラグです。未だにポリ オウイルス対策に、二次感染の危険性がある生ワクチンを使っている先進国は日本しかありません。
【医薬品開発で公共事業型アプローチは有効か?】
がんワクチン研究も同じです。実は、我が国のがんワクチン研究は世界トップレベルです。例えば、大阪大学 杉山治夫教授らの白血病に対するWT1ワクチ ン、久留米大学の伊東恭悟教授らのペプチドワクチンカクテルは高く評価されています。いずれも、ベンチャー企業と協力して研究を進めています。ところが、 彼らの研究は「治験」ではなく「臨床研究」のため、薬事承認の目途は立っていません。
日本には世界的な技術があるのに、実用化されないのです。このような批判をうけて、2003年7月、厚労省は薬事法を改正し、医師主導治験を認めまし た。この結果、お医者さんの臨床研究でも、ある基準を満たせば、承認申請に利用できるようになりました。厚労省は、この政策を推進するため、日本医師会や 大学に巨額の研究費をつけ、医師主導治験の「基盤整備」につとめました。当時、多くの患者・医療関係者がドラッグラグ解消への期待を抱いたのですが、どう やら失望で終わりそうです。
薬事法改正から7年が経過しましたが、医師主導治験により薬事承認された未承認薬はなく、幾つかの薬剤の適応拡大が実現しているだけです。医師主導治験 のために使われた「税金」を考えれば、その有効性は低く、「特定の研究者が談合した公共事業に過ぎなかった」と揶揄されても仕方ありません。
【日本の製薬企業の自律を求む】
そもそも、新薬を開発して利益を得るのは製薬企業です。彼らが自己責任で開発するのが本筋。医師に補助金を出すのは弥縫策に過ぎません。問題の解決に は、新薬の開発インセンティブを高めること、つまり新薬の薬価を上げることです。その代わりに、特許が切れ、古くなった薬剤の薬価を下げればいいでしょ う。
あまり知られていませんが、我が国では新薬の値段は低く、古い薬やジェネリックの値段が高くなっています。このため、新薬を何十年も開発できていない 「新薬メーカー」が生き残っています。多くは国内メーカーで、業界団体は天下りを受け入れてきました。また、政権与党に献金を続けてきました。この「利 権」にメスを入れない限り、ドラッグラグは改善しないでしょう。日本の製薬企業は、減税や薬事法改正などの「医薬品開発の国際化」は主張しますが、「薬価 制度」の国際化については頬被りです。国民が納得できる説明が必要です。
【オンコセラピー・サイエンス社】
このような状況で、我が国でがんワクチンの治験を進めているのはオンコセラピー・サイエンス社(オンコ社)だけです。
オンコ社は、2001年4月、東大医科研の中村祐輔教授の知財をベースに立ち上がった大学発ベンチャーです。現在の社長 角田卓也氏は、がんの臨床、が ん免疫の研究に従事した医師・研究者であり、かつて中村祐輔教授の共同研究者でした。一念発起し、ビジネス界に転身しました。オンコ社は、小泉政権下で推 進された産学協同の成功例で、2003年12月に上場した際には、東京大学に莫大な特許収入をもたらし、東大史上最高額記録を持ちます。
現在、オンコ社は4つのがんワクチンの治験を遂行しています。このうち、膵癌に対するがんワクチンの治験(OTS102)の中間解析が、11月13日に 発表されました。効果安全性評価委員会は治験継続を勧告し、有効中止とはならなかったといいます。膵癌は日本で5番目に多い癌で、予後は極めて不良です。 有効な治療法がなく、多くの患者・医師ががんワクチンの開発成功を待ち望んでいます。OTS102は前評判が高かっただけに落胆の声も聞かれます。しかし ながら、有効中止とは、治験の中間解析で試験薬の有効性が明らかになった場合、患者の利益を優先して、途中で治験をストップすることです。通常より、有効 性評価のハードルは高く設定されます。膨大な費用を要する治験を延長する以上、相当な勝算が見込めるのでしょう。最終解析が楽しみです。
オンコ社の技術は世界でも高く評価されています。例えば、11月19日、同社がシンガポールで胃がんワクチンの「治験」を開始することが発表されまし た。同国の政府が助成するようで、19日の日経新聞夕刊が一面で報じました。シンガポール政府の世界戦略が窺えます。また、オンコ社は来夏にフランスで肉 腫に対する抗体薬の治験を開始する準備を進めています。これにも、フランスの公的資金が提供されています。
【国内で一致団結しても国際競争には勝てない】
このように世界のがんワクチン開発競争は、集合離散を繰り返す、まさに「戦争」です。国産などの概念はありません。
ところが、我が国の認識は甘いようです。その象徴が、11月16日の国立がん研究センターで開催されたシンポジウムです。国立がん研究センターは我が国 のがん研究の総本山で、出席者の多くが審議会などの政府委員会のメンバーです。しかしながら、出席者の発言は「がんワクチンはプレリミナリーな段階」 「オールジャパン体制の構築」「国家戦略としてインフラ整備、事務局組織」などに終始しました。このような発言は、内容がなく、国際的な視野が完全に欠落 しています。
がんワクチンは、いまが勝負の佳境です。「プレリミナリーな段階」といって、様子見を決め込んでいるようでは国際競争から落伍するだけです。将来、外国 が開発したがんワクチンを輸入するようになるでしょう。ちなみに、我が国の医薬品は、9500億円(2009年)の輸入超過です。
また、「御用学者」が一致団結して「オールジャパン体制」を目指しても、世界には何の影響力もありません。「インフラ整備、事務局組織」もお上頼みでは上手くいきません。
【志こそ、医療改革の原動力】
グローバル競争で必要なのは、世界と伍して戦える個人や集団です。サッカーや野球のグローバル化の過程で、中田英寿や野茂英雄が果たした役割を思い出し てください。プロ野球連盟やJリーグが一致団結して、海外進出を目指したわけではありません。志のある選手が悪戦苦闘の末、突破口を開き、後輩たちが続い たのです。
今の医療界では、さしずめ、山中伸弥氏や中村祐輔氏が、このようなパイオニアに該当します。国民視点に立った場合、彼らの「有効活用」を考えると同時 に、第二の山中・中村の育成を目指すべきです。彼らは若いときから国内外を「放浪」し実力を蓄えました。東大・京大や国立がん研究センターなどのビッグボ スに仕え、その庇護のもとに順調に出世の階段を上っていったわけではありません。
話をがんワクチンに戻しましょう。国内だけで通用するがんワクチンなどあり得ません。世界に通用するがんワクチンを開発したいなら、地道に研究を続け、 国際的な医学誌に成果を発表し続けること、そして着実に治験を進めるしかありません。自分たちで汗をかきながら、地道にやるしかないのです。「オールジャ パン」ではなく、世界的ネットワークでの「自律・分散・協調」が必要です。