医療ガバナンス学会 (2011年1月12日 06:00)
膵臓癌は、日本人の癌罹患数において5番目に多い癌で、約50人に1人が罹患する。発病要因の解明は進んでおらず、喫煙との関連が報告されている程度で ある。進行が早く、また早期には自覚症状がないため、発見時には進行していることが多い。進行期とされるIII期、IVa期、IVb期の5年生存率はそれ ぞれ18.8%、9.9%、2.0%である。
A氏の膵臓癌はIVb期であり、手術不能との判断で抗癌剤治療が行われることになった。
●●● 抗癌剤治療における標準治療とは
膵臓癌に対する抗癌剤治療は、ゲムシタビンが”標準療法”とされている。A氏の場合も、ゲムシタビンで治療が開始されることになった。
ここで混乱するのが、この”標準療法”の意味合いである。”標準療法”とは、必ずしも現時点でのA氏にとっての最適な療法を意味しないからだ。
抗癌剤にもいろいろな種類、組み合わせがあり、どの治療法が妥当かを知るため世界中で多数の患者を対象に治療法の効果を比較する臨床試験が行われてい る。こうした複数の大規模臨床試験によって効果が高いと判断された治療法は、がん治療の専門家によって各がん治療のガイドライン(治療指針)に記載され、 “標準療法”と認識されるのである。
よって、”標準療法”とは、ハズレが少ないことは保証してくれるものの、決してその個人にとって最適かどうかは分からない。
膵臓癌に対するゲムシタビンの”標準治療”としての成績は、有効率(病変の径が30%以上縮小した場合を有効とみなす)が約25%であり、生存期間中央 値は約6ヶ月である。臨床上の感覚では、奏功率、生存期間とももう少し良さそうだが、上記のデータがいわゆるエビデンスとして知られている。この成績の低 さに愕然とされるかもしれないが、他の抗がん剤はさらに不良であるため、現時点ではゲムシタビンを第一選択とせざるを得ないのだ。
●●● がん難民発生
A氏には3回のゲムシタビン投与が行われ、初めての効果判定の日がやってきた。CTと腫瘍マーカーによる効果判定が行われ、腫瘍の増大が確認された。標 準療法は、A氏にとって無効だったのである。A氏が腹部の違和感を自覚してから8週間、膵臓癌の告知から僅か5週目のことでだった。
今後の治療として、S-1 という抗癌剤が提示された。比較試験ではゲムシタビンより劣るが、約30%の奏功率が期待できるからである。
A氏はこの理不尽ともいえる展開に納得できなかった。わずか5週間前に死亡宣告に等しい癌の告知を受け、萎えそうになる気力を奮い立たせながら初めての 抗癌剤治療に立ち向かったのだ。半生を捧げた仕事のことも気掛かりだったし、払い終えていない住宅ローンや、何よりまだ学生生活を終えていない子供たちの ことが心配だった。それなのに、標準治療が無効であり、更に、それより劣る治療を勧められる、とは。
A氏は強く憤り、やがて主治医にかすかな嫌悪感を覚え、通院に強いストレスを感じるようになった。
「がん難民」の誕生である。
●●● ゲノム個別予測と患者コミュニティが医療を変える
紆余曲折あり、A氏は我々の病院に戻った。戻れる病院があるだけ、まだ幸せといえるだろうか。一時は自死を選ぶか緩和ケアのみを行うか悩んだが、抗癌剤治療を継続すると決心したのである。
A氏と我々は、どの抗癌剤を選ぶべきか協議を重ねた。
抗癌剤とは、一言で言えば毒薬である。毒を薄めて使うことにより、癌細胞を殺し、正常細胞へのダメージを加減するのだ。いくら癌細胞を殺せるからといっ て、正常細胞への害が大きすぎては治療にならない。だから、抗癌剤の選択には常にリスクとベネフィットが意識される。昨今の医療訴訟乱発の世相では、医師 は、なんとしても治療関連死亡を避けたいと考えるから、リスクの方がより重視される傾向にある。(抗癌剤に携わる医師の仕事は、患者の副作用と自分の訴訟 という双方のリスク管理に尽きる、と皮肉られるが冗談では済まされない)
一方で、がん組織を調べることにより、抗癌剤が効く/効かないを調べることが可能になっている。A氏の例では、ゲムシタビンの効果をがん細胞におけるデ オキシチジンキナーゼという酵素の多寡により推測することができる。また、生まれつきチミジンデアミナーゼという酵素を持っていなければ、副作用が重篤化 しやすいことが知られている。同様に、S-1もDPD遺伝子の有無によって奏功率に差がでるとされている。
残念ながらこれらの検査は保険適応されていないため、実施することが難しく、全ては行えなかった。保険がカバーしないなら自費で行いたいとの申し出が あったが、治療で保険を使用すれば”混合診療”ということになり、下手をすると治療に要した費用も全額自己負担になってしまう。また、国内で商業的に行わ れていない検査は海外に発注することになり、大変な負担である。
こうした個別高精度のリスク/ベネフィット予測の他にも、全く別の位相から治療に治療に影響を及ぼす因子がある。それは、がん患者会だ。
2007年のがん対策基本法策定以後、患者会は臨床現場へ強い影響力を持つプレイヤーへと成長した。現在、患者会が行政やメディアに及ぼす影響力は絶大で、故に主治医にとり無視できない心理的な圧力となっている。
2010年には、副作用の経験を患者経験者(がんサバイバー)が新人患者にアドバイスするピア・サポートが広がり、製薬企業の支援により患者会が全日体制で対応する副作用相談ダイヤルの動きなども始まり注目を集めている。
ゲノム解析による効果/副作用の個別予測と、患者同士の連帯に止まらない、病院間を跨ぐ新たながん治療コミュニティの出現は、がん治療を大きく変えようとしている。
●●● 未承認薬とドラッグ・ラグ
我々は、ゲムシタビンとS-1を併用し、さらにエルロチニブを併用する治療法に絞って検討を続けた。エルロチニブ使用の可否が問題となった。
エルロチニブは、癌細胞の上皮成長因子を阻害するチロシンキナーゼ阻害剤であり分子標的薬と呼ばれる。保険診療上、肺癌のみに使用が認められている。
2009~10年にかけ膵臓癌に対するエルロチニブの良好な治療成績が、米国癌学会など主要な学会で次々と報告されており、A氏にとって有望な治療選択 肢であることは間違いない。また、製造企業は昨年9月に膵臓癌に対する適応拡大を申請しており、来年度の承認が期待されている。
このような状況で、保険診療上使用できないからといって、A氏に対しエルロチニブの存在を隠すことは倫理的に問題があるし、制度上の理由(つまるところ 財政上の理由)で使用しないよう説得することは保険者や行政側の役割だ。医師はあくまで患者の要望をかなえる側に立ちたいものだし、また、昨今の緊迫した 医師/患者関係においてそれ以外の立場は取りようもない。
このようにして、”ドラッグ・ラグ”問題が浮上した。一般に、ドラッグ・ラグとは、海外で使用されている薬剤が、主として当局の怠慢により国内での使用 が認められない状態、と理解されているが、そうとばかりは限らない。隣の患者で使用されている薬が自分には使用できない、という状況の方が一般化してお り、医師はグレーゾーンで診療を余儀なくされている。この秘匿されがちなグレーゾーンでの活動の有無が、がん治療格差を生んでいる可能性がある。
●●● 個別化医療は希望たり得るか
臨床医は、膵癌のような難治癌に対し、難治癌だからこそ、本人の納得がゆく治療を提供したいと考えている。その際には、がん以外に様々な制度上の問題と戦わなければならない。
また、進行癌の治療には、何らかの希望が必要だが、未承認薬がまだ未使用だからというだけの理由で希望として捉えられていた時期があった。反対に、様々な リスクを冒して未承認薬を使用した挙げ句効果はなく副作用だけが残った実例が続出したことから、未承認薬は偽りの希望に過ぎず、結果として医療の質を下げ るとの指摘もある。
この批判は一面の真実を言い表しているが、この数年で状況は急速に変化しつつある。未承認薬に代わりゲノム医学による個別化医療と、がんペプチドワクチンの臨床応用に大きな期待が寄せられるようになったからだ。はたして個別化医療はこの期待に応えられるのだろうか。
次稿では、分子標的薬の登場により、当初予期しなかった”個別化医療”への道筋が現れ、時を同じくして、インチキ医療の横行という不幸な歴史を背負った免疫療法が、がんペプチドワクチン療法という信頼のおける医療技術へと革新してゆく背景を解説する。
初出:インフォシーク内憂外患
http://opinion.infoseek.co.jp/