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Vol.8 現場はなぜ、それでも新薬を使いたかったのか(下)

医療ガバナンス学会 (2011年1月13日 06:00)


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JR東京総合病院 血液・腫瘍内科 主任医長
小林一彦
2011年1月13日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


前回の記事にたくさんの反響をいただいた。

ごく一部ではあるが、個別化医療に対する拙速で過剰すぎる期待があるようだ。冷静な現状認識が必要と考え、一例を挙げることとする。

●●●  2010年 個別化医療の現在

乳癌は、発育に女性ホルモンが関与することから、古くよりホルモン感受性に応じた層別化治療が行われている。個別化医療への下地が出来ているがんと言える。

オンコタイプDXは、米国ゲノミックヘルス社が開発した遺伝子検査であり、切除した乳癌から癌の増殖に関わる21の遺伝子を調べ再発率を予測する。予測 された再発率を元に治療方針を決定することができるとされている。米国で急速に広まっている検査法であるが、日本ではまだ実施する施設が少なく、最多施設 でも100例程度に過ぎない。また、保険が効かず、検査費用は50万円程度である。

現状では、オンコタイプDXの結果に応じて革新的な個別化治療ができるかというと、それほどでもないようだ。オンコタイプDXはがん増殖に関わる遺伝子の発現を調べているため、従来の顕微鏡を用いた病理検査、特に核分裂像スコアによく相関するのだ。

ベテランの乳腺病理医になると、病理検査の時点でオンコタイプDXの結果を予測できるらしい。米国臨床腫瘍学会の理事は非公式に「未熟な病理医にとって は有用な検査」と述べている。もちろん、治療法決定に有用な場合もあるが、多くは抗癌剤を減量するべきかどうかの判断材料として使われているに過ぎない。

しかし、同様の検査手法は急ピッチで開発されており、今後のがん治療をリードすることは間違いない。今月開催されるサンアントニオ乳癌シンポジウムでは、他癌腫に先駆けて乳癌個別化医療の臨床指針が提示される見通しだ。

●●● がん免疫療法の歴史

A氏の膵臓癌治療に話を戻そう。
A氏は、抗癌剤以外にも何か選択肢がないのか思い悩み、肝転移に対してラジオ波(RFA)あるいは超音波(FUS)による焼灼や、重粒子線療法が出来ないものか、全国の病院を訪ねる日々が続いた。

A氏の膵臓癌は遠隔転移を来しており、全身にがん細胞が散らばった、いわば全身病である。全身病に対しては、特殊なケースを除き上記の局所療法は意味がない。局所的な病変は消失しても、それが生存期間の延長には結びつかないからだ。

抗癌剤と併用できる全身的な治療法を探したA氏は、免疫療法にたどり着いた。

古来よりごく稀にがん病変が自然に退縮するといった現象が観察されることがあり、免疫が関与していると想像されていた。
1956年になると、近交系マウスを用いた実験により、Foleyらがはじめてがん免疫の存在を証明する。免疫力は確かにがんを退治することができるのだ。

がん免疫の存在は証明されたが、その機序は全く解明されなかった。このため、何ら理論的な裏付けのない不適切な治療が横行するようになった。効果がない ばかりか、その治療とも呼べない治療で法外な治療費を請求するといった不心得者が現れるに至り、まっとうな医師の間では免疫療法への信頼が完全に失墜し た。長い冬の時代の始まりである。

基礎医学の分野からうっすらと春の兆しが見え始めたのは、1990年代に入ってからのことだ。分子生物学的手法を用いて、がん細胞拒絶に関する免疫機構 の一部が解明されたことが端緒となった。とりわけ大きかったのは、細胞表面上に存在する分子に”溝”があり、その”溝”に9つのアミノ酸からなるペプチド がはまっている、と分かったことである。

このペプチドはがん抗原として働くことが証明され、がんワクチン療法の基礎理論が整備された。この理論は、90年代半ばに米国 ローゼンバーグ博士らによって臨床応用され、皮膚癌の一種である悪性黒色腫に対して劇的な効果をあげた。

以後、がん免疫療法は、免疫補助賦活剤を用いたペプチドワクチン療法や、ペプチドを樹状細胞に組み込んだ細胞ワクチン療法など、方法論に違いがあっても急速に進展している。

11月19日には、米国のメディケア(高齢者向け国営医療保険)が、前立腺癌ワクチン プロベンジを保険償還できるよう検討を開始した。保険が適応されれば、プロベンジの売り上げは米国だけで年間17.5億ドルを超えるとされ、研究者のみな らず、企業にとっても今まさにしのぎを削る分野である。

●●● 朝日新聞報道で臨床研究参加を断念

抗癌剤とがんペプチドワクチンは併用可能であることが分かり、A氏はがんペプチドワクチン療法の臨床研究に参加することにした。幸運にも、ペプチドワクチン投与に必須とされる白血球の型が合致したのだ。
抗癌剤治療を担当する我々としても、免疫医療チームと連携することに異論は無かった。

「がんペプチドワクチン療法はまだ実験段階の治療であり、自分に効果があるかは分からない。抗癌剤についても、いつまで効果がもつか不明です。それで も、現時点でやれることはやりきった。いつの間にか、私にとってがん治療とは、がんを小さくするに止まらない、それ以上の意味を持つものになっていたので すね」、A氏の言である。
いつの間にか、治療成績の数字を問われることがなくなっており、深い心境の変化が推察された。

10月15日、朝日新聞の朝刊を読んだA氏は衝撃を受けることになった。「東大医科研でワクチン被験者出血、他の試験病院に伝えず」と見出しされた記事 は、非道な研究者が人権を無視して研究を進めているという、がんペプチドワクチン療法に対する悪意に満ちた内容であった。

我々はこの報道が事実と反する、わん曲されたものであることを解説したが、A氏は臨床研究への参加を取りやめることにした。
そして、二度と治療法探しの旅に出ることはなかった。

●●● 現場はなぜ、それでも新薬を使いたかったのか

進行癌の現実に直面したとき、人は生の意味を考えてしまうものだ。だから、がん治療には時に医学以上の意味が付される。その複雑な心境が新規治療の選択 へと投影されるとき、それは医学的合理性を超えたものになりがちで、医師はなるべくその状況と現実とを調整しようとする。ここで止揚できるかどうかが、が ん標準療法後治療の勘所だ。

米国や欧州そして近年では韓国でも、臨床試験の存在が、がん標準療法後治療が孕む本質的な危険性に対する安全弁の役割を担っている。しかし、日本では、まず臨床試験の絶対数が少なく、アクセスもまた困難なため、安全弁なしでの診療を強いられている。

この問題の解決にはまず、臨床試験/研究は純粋な科学研究であると同時に、別次元の役割をも担っておりどちらも重要だ、との理解が必要だ。

朝日新聞は、臨床試験をナチスが行った人体実験のイメージで捉えているらしい。これは50年前の考え方であり、現状は遥かに複雑化しているのである。

初出:インフォシーク内憂外患

http://opinion.infoseek.co.jp/

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