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Vol.24 社会と共有できる言葉をさがして―「当事者」からの、医療者への問い

医療ガバナンス学会 (2011年2月1日 06:00)


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社会と共有できる言葉をさがして―「当事者」からの、医療者への問い

大野更紗
2011年2月1日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


いま、日本社会では「なぜ」とあらゆる立場の人たちが思っている。医療者は、なぜ過労死するほどに尽しても訴えても、医療崩壊の危機が伝わらないのかと。患者は、なぜこれほど耐えても闘っても、絶望しか見えないのかと。

わたしは、2008年に自己免疫疾患系の難病を発症した。発病当時は24歳の大学院生、東南アジアの紛争地をフィールドに飛びまわる難民研究者の卵だった。難民を研究していたら自分が本物の医療難民になった、という不可思議な人生をあゆんでいる。
現在、ポプラ社のポプラビーチというwebサイト(http://www.poplarbeech.com/)、『困ってるひと』というタイトルで、日本の医療現場の崩壊っぷり、難病患者の壮絶大変っぷりを生存ぎりぎりの状況下、連載執筆している。

こんにちの日本の医療、障害、難病、介護等、命を支える社会保障行政の制度設計は、全体像をとらえるにはあまりに複雑である。自治体の窓口の職員や医療 従事者ですら、直接的に業務で関わる領域以外のことは把握していないのが実情ではないだろうか。当事者はその難解さを前に、目の前の問題への対処で精いっ ぱいで、口を閉ざすことを余儀なくされる。難解なお役所の制度に、好き好んで関心を持つ健常者がそれほど多いはずもない。

日本において社会保障制度を語り決定する担い手は、一部の専門家集団に限定されてきた。その構成員は大抵、アカデミズムや政治、経済、医学界のエリート たちである。ゆえに、現実の当事者のユーザビリティーと乖離した、まるで継ぎ接ぎを重ねた迷路のようなシステムが横たわっている。

日本の戦後の社会福祉行政の創成期は、GHQ占領下での「生活保護法」、「児童福祉法」、「身体障害者福祉法」、この「社会保障三法体制」にさかのぼ る。「身体障害者福祉法」制定の背景には、傷痍軍人に対する保護という意図が存在した。傷痍軍人の「職業更生」を主たる目的としたのだから、「障害」の概 念は当時、視覚、聴覚、言語機能、肢体、中枢神経機能障害(脳血管障害)に限定され、特に肢体障害に重きをおかれたことは当然であるとも言える。このコン セプトは、戦後66年が経過した現在もなお、制度の根幹に流れ続けている。

わたしは2009年に身体障害者手帳の受給を申請した。身体障害者手帳を申請する際、もっとも驚いたことは、等級決定の判定基準に身体の四肢がどの程度 機能しているか、しか問われないことであった。実際、分度器やメジャーで手足の曲がる角度などを測定された。全身の痛みや炎症、内部疾患、ステロイドや免 疫抑制剤投与の副作用等々で命からがら、七転八倒している状態は、どうやら「障害」ではないらしいのである。
「内部疾患」という枠も存在はしているが、申請できる範囲は心臓機能障害、腎臓機能障害、呼吸器機能障害、ぼうこう又は直腸の機能障害、小腸機能障害、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)による免疫機能障害、肝臓機能障害など、特定の臓器・疾患別に限定されている。

手帳を取得できない、ということは、障害者自立支援法の数多の欠陥と格闘する以前に、それにアクセスする権利すら持てないということである。難病患者は、「制度の谷間」に落ち込む、「福祉」から切り捨てられた存在なのだ。

また、法制度や行政は、「福祉」を受給する判断の基準に「固定された状態」を求める。病状が「固定された状態」などあり得るのか。人を計測し、線引きを する基準を、誰がどう決めるのか。その基準は患者にとり、QOLと生死を左右する問題であるにもかかわらず、根本的な議論は今までほとんどなされてこな かった。

症状の一時的寛解と悪化を繰り返すケースも多い難病患者は、出来る限りの寛解あるいは維持へ向けようとする「正常化」=医療行為と、一時的であっても寛解期があれば忽ち福祉のネットから排除しようとする制度のプレッシャーのはざまで、ただ絶望し立ちつくすしか術がない。

医師をはじめ、医療専門職に従事する方々にとって、「患者」とはなんであろうか。「障害」とはなんであろうか。

「患者」、「障害」の意味づけ、そしてその政治は、これまでつねに外部=非当事者によってなされてきた。医学的なアプローチをとれば「障害」は文字通 り、正常な人間が正常な社会活動を行えない状態、を意味する。医学は常に、「正常」な状態を前提とする。だとすれば、わたしは、永遠に治療やケアによる 「正常化」を受動する対象に過ぎず、周辺化された意義のない存在ということになってしまう。あるいはマスメディア、特にテレビのスクリーンが好むような、 美しい悲劇的なマイノリティであろうか。

日本社会において、身体の問題は、専ら医学の領域のものとされ、それを扱う際には社会学、人類学、経済学などの他領域の学問も医学的アプローチのみを採 用してきた。障害、患者は「個人の悲劇」であり、彼らは無力な存在であるという意味づけは、それが言説化されることによって社会の中で結果的に現実化する のである。

まずは意味を、言葉を、わたしたちは自分の手元に取り戻さなくてはならない。患者は、たんに「正常化」される受動的な存在、ではない。人類が一定の確率 で担わなければならない苦痛や痛みをともなう変化を、積極的に受け入れ、能動的に社会の中で必死に生きている。たとえ、それがいかに困難であろうとも。

医療の現場がいかに過酷な状況か、身をもって充分すぎるほどわかったうえで、あえてすべての先生がたに問いかけたい。医療問題に関心を持ってもらえな い、と感じるのなら、他領域・他者に関心を向けなければならないのではないだろうか。患者に理解されていない、と感じるのなら、患者と社会の現実に目を向 けなくてはならないのだろうか。自己への「無関心」は、自己の他者への「無関心」の鏡でもある。
社会保障制度の問い直しが急務である今、当事者として、「福祉」の枠組みの概念の根幹を社会が共有することなしに、医療問題の政治的解決は得られないと実感している。

医療の現場で、多くの医療者は既存の制度の枠組みにただ患者をあてはめようとする。たとえそれが患者のQOLを結果的に低下させるとわかっていても、現 状の制度を是認するしかない、という態度を取る場合が多い。「福祉」へ踏み込もうとする医療者は少数派である。「福祉」の不備の問い直しは、「それは行政 の仕事」「それは範疇外」とおっしゃる方もいるかもしれない。
しかし、ときに患者の伴走者たる「医学」が、患者に身体的苦痛以上の悩みの種を与える状況の一端を担ってしまっていることを、せめて知っていただきた い。その態度こそが、患者を追い込み、生きる気力も「自立」も奪っていることを。「福祉」は、依存ではない。すべてのひとが自己決定し、能動的に生きるた めの、ひととしてあたりまえに生きるための社会の土台である。わたしは、当事者として、そう語ろうと思う。

わたしも、先生がたの苦痛を、過酷を出来る限り伝えていきたい。わたしたちは、断絶され、線引きされる。その誰かが意図してひいた線を、それによってつ くられた構造をこえていかなければ。死や病を免れる人間は、いない。すべてのひとが「潜在的当事者」である。語り手である。

社会と、すべてのひとと共有できる言葉をさがしている。たとえそれが、たかが1人の難病女子の、うわごとだとしても。

大野更紗(おおの・さらさ)プロフィール

1984年福島県生まれ。作家。上智大学外国語学部フランス語学科卒。上智大学大学院グローバルスタディーズ研究科地域研究専攻博士前期課程休学中。●ポ プラビーチhttp://www.poplarbeech.com/(ポプラ社)にてwebエッセイ『困ってるひと』連載中。
●blog: http://wsary.blogspot.com/ ●twitter:@wsary

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