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Vol.41 医療倫理から見た「病​腎(修復腎)移植」問​題;日本移植学会の本​末転倒

医療ガバナンス学会 (2011年2月19日 06:00)


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健保連 大阪中央病院 顧問
平岡 諦
2011年2月19日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

はじめに:

「病腎移植」問題の経過について、難波紘二・広島大学名誉教授が最近のMRICにおいて詳細を述べている(「病腎移植と日本臨床腎移植学会:臨床研究演題却下事件を考える」(MRIC Vol.21, 22. 2011))。そのなかで、日本移植学会の幹部5人が「治療を受ける権利と生存権を侵害した」として、透析患者らから裁判を起こされていることを知った。この裁判は「医師による患者の人権侵害」が問われている裁判である。そこで医療倫理の視点から「病腎移植」問題を検討した。なお生命倫理の視点からは粟屋剛・岡山大学教授によりすでに検討されているので参考にされたい(「病腎移植の『医学的妥当性』と患者の自己決定:生命倫理の視点から」NPO法人・移植への理解を求める会のホームページより)。

(1):日本移植学会の本末転倒が「患者の人権侵害」へ:

結論を先に述べる。「病腎移植」問題に対する日本移植学会の対応は本末転倒である。日本移植学会は「学会が決めた倫理指針」、「学会が決めた医学的正当性」、すなわち「学会の意向」を「患者の人権」より優先させた。そして「学会の意向」が「患者の人権侵害」となってしまった。そこで患者から裁判を起こされたということである。つぎにその構図を述べる。

日本移植学会は「倫理指針」を定めている。ヘルシンキ宣言などにもとづき、目的はもちろんドナーを含めた「患者の人権」を守るためである。「倫理指針」はそのための手段である。手段イコール目的ではない。「倫理指針違反」がそのまま「患者の人権侵害」になるということではない。また「倫理指針遵守」が必ずしも「患者の人権擁護」になるということでもない。目的と手段を取り違えると本末転倒となる。手段は目的にあった手段でなければならない。

「病腎移植」問題の発端は「倫理指針」違反の問題であった。「病腎移植」そのものが「患者の人権侵害」ではない、「心臓移植」そのものが「患者の人権侵害」ではないように。事実、「病腎移植」で救われている患者がいるではないか。日本移植学会は「倫理指針違反」への対応において過ちを起こした。その過ちとは「倫理指針」という手段を目的にしてしまったことである。そして「患者の人権擁護」という目的を忘れて、「病腎移植」そのものを否定してしまった。救われる患者の、救われる道を閉ざしてしまったのだ。これは「患者の人権侵害」に当たる。患者から裁判を起こされるのは当然である。

被告である日本移植学会の重鎮たちは「病腎移植」そのものを否定しているので、裁判では「病腎移植」を行うことそのものが「患者の人権侵害」であることを証明する必要がある。「心臓移植」を行うことそのものが「患者の人権侵害」であることを証明するようなものだ。明らかに不可能である。なぜこのように不毛な裁判を日本移植学会は続けようとするのだろうか。日本移植学会の過ちを、日本移植学会ホームページなどから、もう少し詳しく見てみよう。

「2006年11月に表面化した『病腎移植』事件」に対して、ただちに日本移植学会は対応した。一つは倫理指針に「生体腎移植の提供に関する補遺」を付け加えたこと、もう一つは会員あての声明「倫理指針の遵守について」(2006年11月13日付け)を出したことである。

「生体腎移植の提供に関する補遺」にあげられた項目は以下のとおりである。(1):提供者の「自発的意思」の確認、(2):提供者の「本人確認」、(3):金銭授受などの利益供与が疑われる場合の対応、および、生体腎移植実施までの手順である。どこにも「病腎移植」そのものが「患者の人権侵害」であることは書かれていない。つぎに「倫理指針の遵守について」(2006年11月13日付け)であるが、これは「補遺」についての注意喚起の文章である。「日本移植学会はわが国における移植医療の適正な発展に責任を持つ。すべての会員は、医学的に適正であり、かつ本学会倫理指針を順守した臓器移植を行う義務を有する。」に始まっている。そして「今回の宇和島徳洲会病院に端を発した一連の件はきわめて遺憾であり、二度とあってはならないことである。日本移植学会としても今回の事態を防ぎ得なかったことの責任を痛感し、移植医療に関与するすべての医療従事者に本会倫理指針を遵守するよう強く要請する」で終わっている。

日本移植学会としては会員に倫理指針を遵守させるのは当たり前である。そこで「補遺」および「倫理指針の遵守について」を出した。しかし会員に倫理指針を遵守させるには前提がある。その前提とは倫理指針の内容が「患者の人権を守る」という目的にあっていることである。先の難波紘二・広島大学名誉教授のことばを借りると「移植学会指導部の無謬性を前提として初めて成り立つものである」ということになる。この前提を見失うと、「医学的に適正である」と学会が判断したことや学会が決めた倫理指針、すなわち「学会の意向」が「患者の人権」より優先されることにもなるのだ。

その後の状況を、先の難波紘二・広島大学名誉教授はつぎのように記載している。「移植学会は、『第三者間移植は移植学会倫理委員会を通す』という規定に違反しており、『がんの腎臓の移植は禁忌中の禁忌』であるとし、関係病院に調査委員を派遣し調査に当たるとともに、厚労省に働きかけてこれを禁止した」。また厚労省が禁止するまでの詳しい経過をつぎのように記載している。「2007年3月30日の高原史郎阪大教授による『市立宇和島病院の25例の追跡調査結果がきわめて悪い』という、いわゆる『高原発言』を受けて、翌31日『医学的にも医療倫理的にも受け入れがたい』とする『四学会共同声明』が発表され、すぐさま厚労省はこれを受けて『病腎移植』禁止の方向に動き、1ヶ月間のパブリックコメント聴取を経て、7月12日『病腎移植原則禁止』の局長通達を都道府県及び政令指定都市の首長宛てに通達した」。

「医学的にも医療倫理的にも受け入れがたい」とは「学会の医学的判断にもとづいても、学会の倫理指針に違反していることによっても、病腎移植は受け入れがたい」ということである。どちらも「学会の意向」によって「病腎移植」を禁止したのだ。この時点で忘れていることは、「病腎移植」そのものが「患者の人権侵害」に当たらないことである。このようにして、日本移植学会は「学会の意向」を「患者の人権」より優先させることにより「患者の人権侵害」をひき起こしてしまい、そして、患者から裁判を起こされたのである。

(2):「日本移植学会の本末転倒」を正すべきは誰か;日本医師会長、日本医学会会長を裁判の証人に:

まず日本移植学会の位置づけである。日本移植学会は日本医学会の傘下にある。日本医学会は日本の医学界の代表である。日本医学会は日本医師会の中に置かれている。日本医師会は日本の医療界の代表である。日本医師会の設立目的は第一が「医道の高揚」、第二が「医学・医術の発達普及」である。日本医学会は第二の目的を果たすために日本医師会の中にある。日本医師会は、医学・医術の暴走(医学者・医師の暴走)をコントロールするために、「医道の高揚」を第一に掲げている。そして会員に「医の倫理綱領」、「医師の職業倫理指針」を配布しているのだ。

日本医師会と日本医学会が「車の両輪」となり、それぞれがそれぞれの目的のために「なすべきこと」をなし、「してはいけないこと」をしなければ、日本の医療は患者に信頼され、医師にとっても素晴らしいものとなるはずだ。しかし現実には、根深い医療不信があり、国民医療が破壊され、世界の先端医療から取り残されている。日本医師会、日本医学会が「なずべきこと」をせず、「してはいけないこと」をしているからだ(詳しくは「医療倫理から見た、日本医師会長と日本医学会会長の『ことばの裏』」(MRIC Vol.27、  2011.2.4)を参照)。

日本医学会の傘下にある日本移植学会が、学会ぐるみで「患者の人権」を侵害しているのである。それをコントロールするのは日本医師会の役目である。日本医師会は「医の倫理綱領」の冒頭でつぎのように述べている。「医学および医療は、病める人の治療はもとより、人びとの健康の維持もしくは増進を図るもので、医師は責任の重大性を認識し、人類愛を基にすべての人に奉仕するものである。」素晴らしいことではないか。しかし、日本移植学会は「学会による医学的判断」、「学会が定めた倫理指針」によって、「病腎移植」によって救われる患者を切り捨てているのだ。日本医師会の定めた「医の倫理綱領」に違反していることになる。日本医師会として「医道の高揚」を図る義務がある。それが設立目的の第一であり、「なすべきこと」である。日本医師会長は、日本医学会会長をつうじて、日本移植学会会長に「患者の人権侵害」という「医療倫理違反」を是正させなければならないはずだ、それが日本医師会の設立目的の第一であるから。原告団は、日本医師会長、日本医学会会長に公開質問状を出すなり、裁判の証人として呼ぶなりして、両会長の考えを聞けばよい。

「病腎移植」問題は、当初の移植医による「倫理指針違反」の問題から、日本移植学会という医師集団が犯している「患者の人権侵害」の問題になったのである。日本医師会がこのまま放置し、第一の設立目的を裏切るのであれば日本医師会の存立自体が問われることになる、設立目的を裏切る八百長相撲によって、公益法人の取り消しや存立自体が話題に上っている日本相撲協会と同じように。日本医学会もこれを放置するなら、「病腎移植」という先端医療で世界に後れを取ることになり、「医学・医術の発達普及」の責が果たせないのであり、また、救える患者を救わずに、医療不信を増悪させることになるのだ。

(3):構造的な問題としての「日本移植学会の本末転倒」:

日本移植学会は「倫理指針違反」への対応において、「倫理指針」という手段を目的にするという「誤謬」を起こしてしまった。そして「患者の人権擁護」という目的を忘れて、「倫理指針改定」によって「病腎移植」そのものを否定してしまった。それが「それによって救われる患者の救われる道を閉ざす」という「患者の人権侵害」に当たるのだ。「移植学会指導部の無謬性」の前提が崩れたことになる。「それによって救われる患者の救われる道を閉ざす」ことが無いようにと、心臓移植の「発達普及」に長年、尽力してきたのが日本移植学会ではないのか。そのような日本移植学会がなぜこのような「誤謬」に陥ったのか。そこに日本の医療界全体の構造的な問題があるからだ。

それを一言でいうなら「日本医師会が、ヘルシンキ宣言は受け入れているものの、マドリッド宣言の受け入れを頑なに拒んでいるからだ」ということになる。マドリッド宣言の受け入れを日本医師会は情報操作をしてまで阻止していること、そして日本医師会に情報操作をさせているのが日本の医学界であること、これが構造的な問題だ(日本医師会の情報操作の詳細については「日本医師会の情報操作、戦犯免責と「患者の人権」、そして日本医学会・日本医師会・日本学術会議の関係」(MRIC Vol. 355, 356; 2010) を参照)。日本医師会、日本医学会はなぜこのような態度を取るのだろうか。以下に概略を述べる。

ヘルシンキ宣言の成立過程については、中村利仁・北海道大学大学院医学研究科医療統計・医療システム学分野・助教の「ナチスドイツとヘルシンキ宣言」(MRIC Vol.378, 2010.12.14)に詳しく記載されているので参考にされたい。そのなかで、ナチスドイツの数々の非倫理的行為について「深刻だったのは、ナチスが全く合法に政権を獲得して、法制度を整えながら非倫理的行為に手を染めたがため、律義な普通の人々がそれに協力したことです」と記載されている。これを言い直すと、「法(すなわち国家権力)の無謬性」を前提に、(人体実験に加わった多くの医師を含めて)ひとびとは「国の意向(すなわち非倫理的行為)」に協力したということである。ナチス政権が非倫理的行為に手を染め、法制度を整えながら普通の人々を従わせた構造と、日本移植学会が「移植学会指導部の無謬性」を前提に、「非倫理的な改定」を行った「倫理指針」を会員に守らせようとしている構造とは、同じである。

ナチス政権下、「非倫理的行為」を行った関係者が「人道に反する罪」として罰せられたのがニュルンベルク裁判であり、このような非倫理的行為、とくに「本人の自発的同意の無い人体実験」に「倫理的歯止め」をかけるために考え出されたのがニュルンベルク倫理綱領である。これを直接に引き継いだのがヘルシンキ宣言(1964) であるが、世界医師会(設立は1947年)はまずニュルンベルク倫理綱領に盛られた考え方を、医師全体としての「新しい」あるべき姿、すなわち「新しい」医療倫理観とするべく努力したのである。その最初の成果がジュネーブ宣言である。世界医師会はその後にも多くの宣言を発表している。ジュネーブ宣言(1948)につづいて、WMA医の国際倫理綱領(1949)、ヘルシンキ宣言(1964)、リスボン宣言(「患者の権利宣言」)(1981)、WMA Declaration on Physician Independence and Professional Freedom(1986)などを発表し、「患者の人権が第一;To put the patient first」に最優先されるべきとする「新しい」医療倫理観を形作っていったのだ。そして「患者の人権を最優先する」という目的実現のために、各国医師会が取るべき手段を示したのが「professional autonomy and self-regulationに関するマドリッド宣言」(1987)である。「患者の人権を、国その他の意向よりも何よりも優先させる」と宣言(profess) することが「professional autonomy;医師集団としての自律」の意味である。患者の人権を最優先させなかった医師、すなわち倫理違反を犯した医師を処罰するのが「self-regulation;集団内自浄システム」の意味である。「professional autonomy and self-regulation」によって「医師集団として患者の人権」を擁護しようということだ(詳しくはMRIC Vol.268. 2010、「プロフェッショナル・オートノミー:日本医師会の情報操作と医療界のガラパゴス化(その2/5)」を参照のこと)。そしてこの「新しい」医療倫理観を多くの国の医師会が受け入れているのである。

一方、日本ではどうだろうか。「日本軍が満州でやった石井部隊の人体実験」は、ニュルンベルク裁判でドイツ人医師が裁かれた「人道に反する罪」と同じである。戦後、関係者は戦犯免責により裁判にかけられることもなく社会にもどった。「戦争に科学者が協力したのは法にもとづいて協力したまでである」という考えにより、直接的に関係した多くの優秀な医学者を、そしてまた彼らを送りだした当時の医学界の重鎮たちを、日本の医学界は「倫理的な非難」から庇ったのである。「法」という国の意向があれば「人体実験」でも行うのがあたり前という考え方である。これでは「患者の人権」が守られなかったという反省に立って、「新しい」医療倫理観を示したのが世界医師会であり、その実現手段を示したのがマドリッド宣言である。「日本軍が満州でやった石井部隊の人体実験」の関係者を庇うために、日本の医学界は「人道に反する罪」を反省しなかったのだ。そのために日本の医学界は、日本医師会に情報操作をさせてまで、「新しい」医療倫理観、そしてマドリッド宣言の受け入れを阻止しているのである。日本医師会は日本の医学界を正すべき立場にありながら、日本の医学界に「情報操作」という手を貸しているのだ。

「法」という国の意向があれば「人体実験」でも行うのがあたり前という考え方が、日本医師会の基本的な医療倫理観となって現在に至っている。もちろん日本の医学界の考え方も変わっていない。患者の人権意識の高まりとともに、さすがに国や、製薬会社などの意向があっても「本人の自発的同意の無い人体実験」は出来なくなった。そこでヘルシンキ宣言は受け入れたのである。しかし、基本的な考え方は変わっていない。その証拠が今回の「病腎移植」に見られる日本移植学会の対応である。学会が決めた「倫理指針」があれば「病腎移植」禁止という患者の人権侵害でも行うのが当たり前という考え方に陥ることになるのだ。日本移植学会の本末転倒は構造的なのである。

(4):構造的だから繰り返される、医師による患者の人権問題;「和田心臓移植事件」:

医療倫理の視点から、「和田心臓移植事件」を見ると次のようになる。
1968(昭和43)年8月8日、和田壽郎・札幌医科大学教授(当時)により世界で30例目、日本で最初の心臓移植という先端医療が行われた。「二つの死から、一つの生を」がキャッチフレーズであったが、レシピエントの死後、「二つの死」に対していろいろな疑惑がだされた。1969(昭和44)年12月、大阪の漢方医らが、和田教授を殺人罪・業務上過失致死罪で告発した。告発をきっかけに札幌地検が捜査を開始した。多くの疑惑があがったが、1970年8月、札幌地検は告発を不起訴処分とした。これで法的には無罪となった。

1973年3月、「心臓移植事件調査特別委員会」を設けて調査を行っていた日弁連は、和田心臓移植にドナー、レシピエントの人権上、重大な疑義があるとして警告文をだした。その内容を以下に示す。
「和田壽郎教授宛警告」:
1.心臓移植における受給者の適応は、当該心臓移植に関係のない内科医を含む複数の医師の対診の下に決定すること。
2.提供者の死の判決は、当該心臓移植手術に関係のない麻酔科医を含む複数の医師の対診の下にこれを行うこと。
3.関係資料の散逸を防ぎ、爾後の検索に支障なからしめ、いやしくも、隠匿または湮滅を疑しめるような行動をしないこと。
以上を警告します。
「同学長宛要望」:
診断に当たる医師と当該手術に当たる医師との間には、師弟関係、親姻戚関係の無いことが望ましい。

この日弁連の警告文の意味を読み取るには、この当時に有効であった昭和26 (1951)年制定の日本医師会「醫師の倫理」との関連を見る必要がある。「醫師の倫理」には次のように記載されており、括弧で警告文の内容と対比させた。
昭和26年日本医師会定「医師の倫理」
第2 医師の心得
第2章 医師相互間の義務
第2節 必要なる対診は、努めてこれを行うべきである。(警告1,2)
第3節 対診には、不誠実と競争心があってはならない。(学長宛の警告)
第13節 患者について、他医からの聞合せがあった場合には、詳細且つ  迅速に、必要な記録を提供すべきである。(警告3)

日本医師会は戦後すぐに制定した医療倫理に、「対診」というpeer review(同僚評価)の重要性を盛り込んでいたのである。日弁連の警告文は和田心臓移植が日本医師会のこの倫理規定に反することを和田教授に警告するとともに、自身の定めた倫理規定の違反者に対処しない日本医師会に対する非難の文章となっているのである。倫理違反を指摘されても対処しない日本医師会、疑惑解明を困難にした「密閉性」(医局員以外を排除する形で心臓移植は行われた)の改革に乗り出そうとしない医学界、大きな医療不信を残したのは当然である。

なぜ、日本医師会は倫理違反者に対して処置を下さないのだろうか。日本医師会はその理由を「医師の職業倫理指針」(改定版)の序文でつぎのように述べている。「倫理は社会的ルールといえるが、基本的には個人的、内省的、非強制的なものであり、各個人が自覚を持ってルールを認識しそれを遵守することが最も大切であることは言うまでもなく、この倫理指針がそのお役に立てば幸甚である」。医療倫理の遵守は「個人の努力まかせ」という考えなのだ。「医師集団として、患者の人権を最優先して守ろう」とする世界医師会の医療倫理観に比べて、日本医師会のそれがいかに「古い」かということが良く判るであろう。
「患者の人権を最優先する」こともなく、また「医療倫理の遵守は個人まかせ」で倫理違反者を放置する、このような日本医師会の「古い」医療倫理観が、医師による患者の人権問題を繰り返させる構造的な問題なのである。

おわりに:

「和田心臓移植事件」は個人レベルの患者の人権問題であった。「病腎移植」問題は学会レベルの患者の人権問題である。残るは、「医療界ぐるみ」の患者の人権問題であるが、それが「日本軍が満州でやった石井部隊の人体実験」である。日本医師会、日本の医学界は歴史から学ばすに、また、その歴史を繰り返そうとしているのであろうか。日本医師会、日本の医学界は「全員加入制の医師会」を検討しているようである。「患者の人権を最優先して守ろう」とする医療倫理観を受け入れずに「全員加入制の医師会」を作ると、「医療界ぐるみ」で「患者の人権」よりも何かの「意向」を優先させる可能性が出てくる。戦時下に制定された「国民医療法」による強制加入の「戦時医師会」のように。

日本の医療界が「患者の人権を最優先する」という「新しい」医療倫理観を受け入れなければ、「和田心臓移植事件」や「病腎(修復腎)移植」問題のような、個人や学会ぐるみの「医師による患者の人権問題」が繰り返されるということであり、「全員加入制の医師会」になれば「日本の医療界ぐるみ」の「医師による患者の人権問題」を繰り返す可能性が出てくるということである。

(2011.2.6. MRIC投稿)

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