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Vol.43 社会と共有できる言葉を探して:「医療者」からの、当事者への返答

医療ガバナンス学会 (2011年2月20日 06:00)


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獨協医科大学神経内科 小鷹昌明
2011年2月21日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


2月1日付けで配信された大野更紗さんの書かれたMRICの記事『Vol. 24 社会と共有できる言葉をさがして:「当事者」からの、医療者への問い』を、大変興味深く読ませていただいた。

冒頭の『医療者は、なぜ過労死するほどに尽しても訴えても、医療崩壊の危機が伝わらないのかと。患者は、なぜこれほど耐えても闘っても、絶望しか見えないのかと。』を読んだ時点で、私は医療者として、その「問い」に「応える」義務があるのではないかと直感した。
現場においてさまざまな矛盾と葛藤を感じつつも、何とか日々の診療をこなしているひとりの大学病院勤務医師が、日常業務から思う私的な意見を述べてみた い(ですので、当たり前ですが、すべての医師の代表意見というわけではけっしてありません。「オレの意見はキミとは全然違うよ」とおっしゃられる方も、も ちろんたくさんおられると思います)。

大野さんの語る『今日の我が国の医療や福祉に対する社会保障行政の制度設計は、全体像を捉えるにはあまりに複雑である。自治体の窓口の職員や医療従事者 ですら、直接的に業務で関わる領域以外のことは把握していないのが実情ではないだろうか。』というご指摘は、もっともである。
「医療制度というものは、極めて”慣性の利いたシステム”で構築されている」ということが根本にある。つまり、少しの外力では、その物体の運動状態は変わらないという性質である。

それは、やはりそうなのではないか。総理大臣や厚生労働大臣や厚生局長や知事や医師会長が交代した程度で、医療の仕組みに不具合が生じてはならない。命 に関わることが、がんじがらめになっているという意見もあるが、むしろ命に関わることだからこそ、少しのことでは揺らがない構造になっているのである。 言ってみればアソビの利いた、極めて惰性的な、向こう100年の風雪に耐えられるようなシステムなのである。

「医療を改革する」ということは、現場ではどうしようもできないことを、現場でどうにかできるようにしていくことである。それには、できるところから可能な限りのリソースを注ぎ込み、微調整を繰り返し、最終的にその牙城を崩していくしかないのではないか。

身体障害者の受給のための判断基準は、確かに『身体の四肢が、どの程度機能しているか』ということでしか判断されないし、『分度器やメジャーで手足の曲 がる角度などを測定して決める』ものである(もちろん、申請用紙には「総合所見」の記載欄が設けてあり、医師が自由に『全身の痛みや炎症、内部疾患、ステ ロイドや免疫抑制剤投与の副作用で命からがら七転八倒している状態』を書き込むこともできるにはできるのだが)。

見方を変えるならば、「等級を決めるような序列化には、そのような可視化できる評価をもってしか公平性を担保できない」ということなのではないだろう か。自分で歩けなくなったから3級、立ち上がれなくなったから2級、片腕を失ったから1級という判断は、誰の目においても理解の及ぶところである。自覚的 な症状である”痛み”や”しびれ”といった症状を用いて平等に等級付けをすることは、なかなか難しい。

機会における公平な評価という視点で考えるならば、たとえが悪かったら申し訳ないが、医師の資格にしても、スポーツの入団にしても、まず一定の判断は透明化されたペーパーテストや運動能力テストで行う。
そうした資格試験において、脳卒中の治療選択を誤ったり、100 m走に20秒もかかったりしたことを理由に”不可”の烙印を押されたのなら、私は一応納得できるであろう。その原因は結局の所、自分の不勉強や才能のなさ に帰するしかないからである。つまり、知識や技能の優劣を基準に等級化されたと理解できるからである。
しかし、「ものの考え方に”素直さ”が欠けている」とか、「表現力の”伸びやかさ”が甘い」とか、「邪念を持っていそうな”態度”が見え隠れする」と か、「走る”気合い”が足りない」というようなものであったのならば、到底容認はできない。見も知らぬ他人に委ねるしかない評価なのだから、判りやすい機 能で判断しなければ納得できないという人もいるのではないか。

『福祉を受給する判断の基準に”固定された状態”を求める。』ということも、公平な判断には必要なことのような気がする。
その日の気分や調子など、条件によって変動する才覚は、実力の公平性の観点から考えればあまり好ましくない。たまたまの好条件で”良”の判定を受けた人 が、その後の社会で能力を発揮できるかどうかは不明である。だから、平等性を維持するためには、固定された能力のアウトプットの多寡で等級を評価するしか ないのではないだろうか。
私のこの意見に対して、障害を抱える人たちは「好きで障害を負ったわけではない、努力で解決できる問題ではない」と言いたいであろう。それは本当によく わかる(誤解のないように)。私の言いたいのは、そういうことではなくて、「システムとして機能させるためのお役所的な考えの合意」がどのような考察に基 づいて決定されていくのか、そういうことを想像してみたかっただけである。

『患者は、永遠に治療やケアによる”正常化”を受ける対象に過ぎず、周辺化された存在である』と述べているが、確かに医療は、「”正常以下”に貶められた 患者の状態を、なるべく”正常”に近づけようとするための行為」である。言い換えるなら、「どんなに頑張ったとしても”正常以上”の状態は提供できない」 ということである。
また、これもたとえが悪かったら申し訳ないが、普通の産業で取引される行為は、金と引き換えに「家庭で食べるものと少し違った美味しいものをいただこ う」とか、「もっと便利なもの、高級なものを所有しよう」というような、”普通”とされているものよりは、”普通以上”の一段高い状態を金で買うというも のである。
医療はそういうものとは違う。どんなにすばらしい医療が提供されたとしても、”正常以上”の状態にはけっして、してあげられない。最高の結果が得られて も”正常”止まりであり、通常は多少の障害や生活の制限が残ったりして、”正常以下”にまでしか戻すことができない。そんな”正常以下”で行っている医療 と、いくらでも資源を投入できて”正常以上”を目指せる産業界のようなものとでは、決定的に違う。
『患者は、単に「正常化」される受動的な存在』ではけっしてないが、「患者は正常化を目指す存在である」ということに矛盾はないのではないか。

大野さんは、『身体の問題は医学の領域のものとされ、それを扱う際には社会学、人類学、経済学などの他領域の学問も医学的アプローチのみを採用してき た。障害、患者は「個人の悲劇」であり、彼らは無力な存在であるという意味づけは、それが言説化されることによって社会の中で結果的に現実化するのであ る。まずは意味を、言葉を、わたしたちは自分の手元に取り戻さなくてはならない。』という説明で、医学的な立場以外にも、広く言語化していくことの必要性 を説いている。

先日、私は「厚生労働科学研究費補助金 難病性疾患克服事業 重症難病患者の地域医療体制の構築に関する研究班」の会議に出席した。
テーマは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)に代表される神経難病患者を、地域でどうケアしていくかという内容であった。医療・介護・福祉など多岐にわたる議論なので、演者は医師であったり、看護師であったり、保健師であったりした。行政に携わる人たちも多数出席していた。
「難病患者を少数の医師やスタッフに過度に依存することはリスクを伴う」ので、「医療連携の構築によってサポート体制の充実を推進しなければならない」と いう命題に対して、「どうしたらいいか」を、実にさまざまな視点から提案されていた。「ケアの実践には個人的創意が必要だが、そのようなものがなくてもシ ステムとして持続させなければならない」という”結論”があって、そこには「個人的な慈悲や愛情の行為を、その都度実践していくだけでは、合意的に、しか も永続的に支援の運用はできない」という”前提”があった。
確かに、障害者の支援には”結論ありき”という考えも必要だが、その一方で、「あるべき社会についての正しい情報が人を希望に向かわせるわけではけっしてない」ということも認識させられた。医療の世界には、知らない方が幸せなのではないかということもたくさんある。
本会議で私は、国家レベルで推奨されている障害者の支援体制が、いかに脆弱であるかを知ることになった。「患者や障害者は無力な存在である」という前提を掲げて議論を重ねることで、それが「いかに困難な道のりであるか」という合意を結果的に現実化してしまっていた。

以下の『敢えてすべての先生方に問いかけたい。医療問題に関心を持ってもらえない、と感じるのなら、他領域・他者に関心を向けなければならないのではな いだろうか。患者に理解されていない、と感じるのなら、患者と社会の現実に目を向けなくてはならないのだろうか。自己への無関心は、自己の他者への無関心 の鏡でもある。』という意見は、誠に辛辣である。
確かに医療者の中には、病院を労働の場としか捉えていないものもいる。患者の診療には自分の判断が欠かせないと思っていること自体は悪くないが、協働の 場であるという意識が欠けている。医療という仕事は、あまりにも細分化されてしまったために、トータルでひとりの患者をサポートするという意識が薄れてき ている。
医師は専門職であり、専門家であればある程、その専門家は他の専門家と協同的に作業をしないと上手く立ち回れない。だから、優れた専門家は、自分にでき ないことができる人を多く巻き込むことによってパフォーマンスを上げられる。本当に優秀な専門家は「何ができるかを知っている人」よりも、「何ができない かを明確に認識できる人」で、そのためにはどのような余人をもって代用可能かを考えられる人である。他領域の人たちや患者、社会の現実に関心を向けなけれ ば、専門家は十分に機能しないという事実が確かにある。
ただ、本当に忙しい医師は、自分が診療できる範囲を超えた多数の外来患者を診ているし、自分が管理できる範囲を超えた入院患者を診療しているし、自分が 執刀できる範囲の以上の数の手術を行っている。診療することが医師の仕事であり、それ以外のたとえば、患者の転院先を探したり、福祉サポートの斡旋をした りすることは、他の協働できる専門職が必要なのである。そういう人たちの少ない現場では、診療専門家の医師が上手く機能しないのは当たり前なのである。

さらに、述べられている『医療の現場で、多くの医療者は既存の制度の枠組みにただ患者をあてはめようとする。たとえそれが患者のQOLを結果的に低下さ せるとわかっていても、現状の制度を是認するしかないという態度を取る。「福祉」の不備の問い直しは、「それは行政の仕事」、「それは範疇外」とおっしゃ る。』の言葉を前に、私たちはうな垂れるしかない。
どれほどきれい事を並べようと、医師には「医療者と患者とは対等ではない」という意識がある。しかし、これはどんな世界にも共通する”提供する側”と “享受する側”の宿命と言ってもいいのではないか。医療者と患者の隙間を埋めるべく、さまざまな努力がなされていることが、そもそものボタンの掛け違いな のではないだろうか。
患者を「患者様」と呼んだり、インフォームド・コンセントを充実させようとして、それを「”説明と同意”ではなく、”説明と納得”にしましょう」と提案 したり、している。患者はお客様ではないし、患者への説明は、どのようなスペクタキュラーな用語を用いようと、医療の提供側から考えれば”説明と理解して いただく”という構造にしかならない。
受診の機会が平等と両立せず、先端医療が安全と対立し、効率的医療が安心と齟齬し、良質医療が安価と矛盾する限りにおいて、医療問題は常に大問題を抱えざるを得ない。
医療は医師の仕事だが、医療制度となると99%政治の仕事である。そして、医療は完全に医療制度のもとでしか実践できない。慣性の利いたシステムである が故に、いきなり大きな変化を起こすことはできない。だから、できるだけ賛同の得られることを、小さなことであったとしても、その不具合を少しずつ修正し ていくしかない。身体障害者申請用紙の改訂などは、その筆頭に挙がるものかもしれない。

大野さんの最後の言葉に、私は救われた気がした。
『わたしも、先生方の苦痛を、過酷を出来る限り伝えていきたい。わたしたちは、断絶され、線引きされる。その誰かが意図して引いた線を、それによって作られた構造を越えていかなければ。死や病を免れる人間はいない。すべての人が「潜在的当事者」であり、語り手である。』
すべての人が、かつて幼児であり、成人して、やがて老人になる。そうしたら、かなり高い確率で病人か障害者になる。幼児を養い、老人を敬い、病人や障害者を救済するということは、人間を経時的に配慮するという行為に他ならない。そのようなことは皆、わかっている。
現場の医療者たちの願うことは、常に創意の開かれた働きやすい労働環境で仕事をすることである。それには、医療者たちが、技術修練の意欲を見出し、新し い治療方法を考案し、試行錯誤を繰り返し、対話を重ねることでやりがいを見出し、連帯することのできる、そういう生成的な環境を作り出すことに尽きる。人 間は批判され、査定され、制約されることでそのパフォーマンスを向上するものではなく、支持され、勇気付けられ、愉しく振る舞えることでその士気を高める ものである。
今の医療現場は、残念ながらそうはなっていない。「いかに速く、安く、多くの患者の診療を行うためにはどうしたらいいか」というシステムの構築に躍起になっている。そのためにマニュアル化や効率化が叫ばれている。
医師は患者のためだけに働くわけではない、自分のために、家族のために、社会のために働くということでいいのではないかと思う。ただ大切なことは、個人 的な能力の高さよりも、集団のパフォーマンスを上げる能力の高さの方で、より有益性を導けるシステムを作ることである。言い換えるならば、パイの拡大より もパイの公平な分配の方で優先順位の高い世の中に変えていくということである。
医師や看護師、介護士の増員によるマンパワーの確保やベッドの増床も、もちろん必要であるが、根本的に求められることは、「人間一人ひとりの能力の開花 や向上を、皆が相互に喜び支援し合える世界」であり、「医療者と患者との福利が、同時に、同じものとして追求、提供される世界」である。

今回の私の論説は何が言いたいのかよく解らなかったかもしれない。無理のある言い回しやこじつけ、自家撞着に陥っていたかもしれない。
ただ解って欲しいことは、いろいろな医療関係者と対話を重ねて言えることだが、「日本の医療制度を破壊してやろうというような悪意をもって医療に携わっ ている人間はいない」ということである。ダッチロールする厚生労働省だって、紆余曲折、杓子定規に患者を翻弄させる行政だって、医療崩壊を雄弁に語る医療 経済学者だって悪意はない。もちろん、私もこうやって勝手なことを言っているが、邪推はない。ただ、向いている方向が微妙に違うだけである。医療と福祉の つなぎ目がやや甘いだけである。
人の手で壊したものは、何とか人の手で修復するしかない。「先生、どうしたらいいでしょうか?」という人たちを、どうにかしたい。「何とかならないで しょうか?」という人を、何とかしたい。それを「どうにもならないですよ」とか、「何ともならないですよ」としか言えないのが医療の本質だとしたら、これ から何をどうしたらいいのだろうか。
大野さんへ、情報発信でつらいことは黙殺されることである。今はまだ何もできないけれど、しっかりと受け止めている医療者がいることも忘れないで欲しい。

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