医療ガバナンス学会 (2024年9月24日 09:00)
この原稿は医療タイムスOneVoice OneAction(7月24日掲載)からの転載です。
福島県立医科大学医学部2年
放射線健康管理学講座
山村桃花
「医者になって、アメリカに行く!」――これは大学受験の結果が出て、浪人が決まった高校3年生の3月、親に言った言葉だ。幼いころから医療ドラマを見て育ったせか、物心がついたときから医師になることが夢だった。
高校生のころ、クラスメートに英語を話す友人がいたことがきっかけで英語に興味を持ち、受験勉強から逃げるように英語にのめり込んだ。夢中になるあまり医師という夢を見失いかけたが、アメリカで医師になれば英語と医学の両方をあきらめずにすむと、やや安直な結論を出したそのときの言葉がこれである。勢いで言った言葉が、医学生になった今、自分の中の柱となった。
アメリカで医師になるために立てた私の医学部生活の目標は、最強のCVを作ることだ。CVとは、ラテン語で「人生の行路」を意味するcurriculumvitaeを略したもので、これまでの学歴や職歴を詳細に記した文章のことである。
業績や受賞歴、獲得した奨学金や助成金、修得したカリキュラム、研究プロジェクト、論文などの出版物といった情報が含まれ、CVはアメリカで医師になるためのマッチング時に非常に重要な要素である。
●的確なアドバイスで夢が輪郭を
そんなことを受験勉強の合間に調べていた私は、大学に合格するとすぐに論文を書ける研究室探しを始めた。
そこで出会ったのが他でもない、坪倉正治教授が率いる放射線健康管理学講座、通称「つぼ研」である。研究室を訪れた初日、出会って間もない坪倉先生にアメリカで移植外科医になるという夢を語る機会をいただいた。
大学に入学したばかり、これからの生活に胸をときめかせている新入生に対する返事は次のようなものだった。
「なかなかの茨の道やと思うなぁ。かなりの覚悟がなきゃあかんで。普通ならやめとけって思うわ。でも、どうしてもそうしたいんやったら、まずは…」夢を語るとき、それに対する人々の反応はほぼ2つに分かれる。大きな夢だと褒められ応援されるか、鼻で笑われるかだ。
しかし、坪倉先生の口から出た言葉は現実的な可能性を見極めた、的確なアドバイスだった。はるか彼方でぼんやりときらめいていた夢が、やっとその輪郭をつかみ始めたと確信できたとき、この先生に付いていこうと決めた。
●既知でないことを明らかにする論文執筆
それから約1年、現在多くの人たちに指導を受けながら災害関連死や原子力防災など幅広いテーマで論文を執筆させていただいている。
人生の中で、既知の事実をインプットしていく作業こそが勉強であった私にとって、既知でないことを明らかにしていく論文執筆は、とても新鮮で難解でそれでいて楽しい。
今まで数本執筆する機会をいただいているが、その中でも特に印象的なのは今年6月にJournal of Radiological Protectionに受理された、日本の原子力防災に関するレターである。
研究室に入って約1年が経とうとしている4月ごろ、原子力規制委員会によって議論中の「屋内退避の難しさについてレターを書いてみないか」と機会をいただき書き始めた。
今までは先生方がIntroductionの流れを決めてくださっていたが、この論文で初めて、ゼロからIntroductionの構成を考えることになった。
重要なのは、どんなデータを使って何を明らかにしたいかを最初に考えることだ。今回の場合、用いたデータは能登地震による志賀原発周辺の被害状況のデータだ。このデータをもって、「地震による被害が原子力災害対策に与える影響」について明らかにしようとした。
しかし、ここで坪倉先生からストップがかかる。「いいか、用いるデータと明らかにしたいことが表裏の関係になったら、それ以上のことをいえなくなってしまう。もっと一般化するんや」
確かに、私は「能登地震で放射線防護のための施設が損傷したり、避難経路が通行止めになったりしたことによって、原子力防災ができなかった」ことを示すデータを用いて、「能登で原子力防災ができなかった」という表裏一体な主張をしていた。
データから分かることをより一般化し、マクロな視点で主張を考えるのはかなり難しかったが、最終的には複合災害時における日本の災害対策に着目することにした。
●バランスをとり行う複数の災害対策
複合災害発生時に最も難しいのは、バランスをとりながら複数の災害対策を行うことだ。今回は、「原発事故の大きさよりも地震被害が甚大だった場合」「あるいはその逆の場合」、そして「同程度の被害だった場合」という3つの状況に分け、それぞれのフェーズで必要な対策などを論じた。
どちらか一方の災害対策を過剰にすると、東日本大震災のときに問題となったように2次的健康影響を引き起こし、災害関連死を増やしてしまう状況になりかねない。
よってこれらのバランスをとりながら、同時に放射線防護対策の最適化を進めていくことが重要という結論に至った。ときには夜中の3時過ぎまで先生から指導をいただきながら、2、3週間ほどで書き上げた。
論文の初めの部分であるIntroductionを綿密に議論することで論理がはっきりした論文となり、すぐにジャーナルに受理していただけた。
●「書かなきゃいけない」から「書きたい」へ
論文を書いていく中で、1つ大きく変わったことがある。それは、「書かなきゃいけない」という気持ちから、「書きたい」と思えるようになったことだ。
論文のテーマ探しをしていると、世の中には、まだ多くの人に知られていない問題がたくさんあって、だからこそ書いて、広めていかなければいけないと気づいた。それはちょうど地面に1匹の蟻を見つけた時、その周りにいるたくさんの蟻の存在に気づく、そんな心を揺さぶられる感覚だった。
1本の論文で何かを大きく変ることはできないかもしれない。しかし今まで影だったところに光を当てられる、素敵なflashlightだと信じて、これからも書き続けたい。そして振り返ったときにその足跡の1つひとつが最高の自分を、最強のCVを形作っていることを願っている。