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MRIC Vol.24243 知られざる医学者列伝① リンゴ病の原因ウイルス発見者〜イヴォンヌ・コサート〜

医療ガバナンス学会 (2024年12月27日 09:00)


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内科医

谷本哲也

2024年12月27日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


2024年12月現在、インフルエンザやコロナ、マイコプラズマに加え、伝染性紅斑という感染症も流行している。通称、リンゴ病と呼ばれ、かぜ症状に続いて両ほほの赤い発疹が出現するのが特徴的なウイルス感染症だ。この病気の解説記事を別途発表したので参考にして頂ければ幸いである。

東洋経済オンライン:警報レベルの大流行「リンゴ病」とはどんな病気か
子どもや妊婦、免疫力が低下している人は注意
https://toyokeizai.net/articles/-/847085

リンゴ病の原因は、ヒトパルボウイルスB19(human parvovirus B19)と名付けられている一本鎖DNAウイルスだ。ラテン語の”パルヴス(parvus)”は「小さい」という意味で、ウイルスの中でも最小クラスの直径20~26ナノメートル程度の「小さなウイルス」として命名された。古代ゲノム解析で1万年以上前のユーラシア大陸に起源を持つとされているが、このウイルスを発見したのはオーストラリアの女性科学者イヴォンヌ・コサートだ。

https://www.sydney.edu.au/medicine/museum/mwmuseum/index.php/Cossart,_Yvonne

●科学への道:イヴォンヌ・エドナ・コサート(Yvonne Edna Cossart )の初期の歩み
1934年、オーストラリアに生まれたコサートは、科学と医学が急速に進歩を遂げた第二次世界大戦後にウイルス学分野で輝かしいキャリアの土台を築いた。1957年、コサートはシドニー大学で理学士号を取得。当時、科学分野における女性の活躍機会が限られていた中で優秀な成績を収めたのだろう。医学による具体的な社会貢献を目指し同大学でさらに学び続け、1959年に医学士号を取得した。科学と医学の両分野で学んだことが、疾病に関する理論的かつ実践的な理解を深める基盤となった。

1959年、ロイヤル・プリンス・アルフレッド病院で研修医として働き始めたコサートはすぐに、当時利用可能な診断技術が感染症の原因を特定し治療するには不十分であることに気づいた。この問題を認識し1960年代においては、まだ黎明期で未開拓だったウイルス学という分野に特化する道を選ぶことになった。そのキャリアのスタートは臨床医兼科学者という形で始まった。勤務時間を研究所での研究と患者診療に分け、両者のバランスを上手く取っていたようだ。
コサートは細部への徹底したこだわりと斬新な問題解決能力で注目を集め、特にウイルスとそのヒト宿主との相互作用に強い関心を持ち、ウイルス感染を医療上の課題であると同時に科学的なパズルとして捉えた。

また、技術的な成果に加え、コサートは社会との協力関係の重要性を深く理解していた。象牙の塔に籠ることなく、積極的に地元や国際的な研究者との意見交換を求め、科学的な対話のネットワークを育てたことが彼女のキャリアの大きな特徴となった。これが後にヒトパルボウイルスB19という画期的な発見を成し遂げる上で重要な役割を果たしたことだろう。1970年代初頭までにウイルス学分野のリーダーとして確固たる地位を築き、ついに彼女は最も有名な科学的ブレークスルーを達成することになる。

●ヒトパルボウイルスB19の発見
コサートが医学史にその名を刻む画期的な貢献を果たすことになったのは、ヒトパルボウイルスB19の発見だった。コサートは1963年からロンドンに渡り長く研究を続けていたが、1975年、彼女がイギリスで働いていた時期でのこの発見は、当初、ルーティーンの血液検査中に偶然見つかったように思われていた。しかし、コサートの科学的直感、綿密な方法論、そして深い探求心が、この偶然の観察を20世紀における最も重要なウイルス学的発見の一つに昇華させた。

Lancet. 1975 Jan 11;1(7898):72-3. doi: 10.1016/s0140-6736(75)91074-0.
Parvovirus-like particles in human sera

コサートが発見を行った当時、ウイルス診断学は発展途上の分野であり、新しい病原体を特定するための技術は、現在と比較して非常に限られていた。しかし、彼女はこの制約を超え、説明のつかない結果を積極的に精査し、未知の病原体の発見につなげたのだ。イギリスの著名な研究所で行われた彼女の仕事には、電子顕微鏡や免疫学的アッセイを含む当時としては先進的な技術を用いた血液サンプルの分析が含まれていた。
彼女の研究テーマであったB型肝炎ウイルスに関する分析の中で、血液提供者や輸血を受けた患者の血液のうち「B19」と単純にラベル付けされたサンプルにおいて、通常とは異なる未知のウイルス粒子を発見した。この「B19」という名前はパネルBのテストプレートの19番目のウェル(孔)に由来している。多くの研究者がこのような発見をアーティファクト(検査過程で発生する偽の結果)や汚染物質として片付けてしまう中、コサートはその訓練された眼と尽きることのない好奇心により、さらなる調査を進めたのだった。

綿密な実験を重ねた結果、コサートはこの粒子がパルボウイルスであることを確認した。パルボウイルスは、小型でエンベロープを持たないDNAウイルスであり、それまで人間に感染することは知られておらず、主に動物における研究対象だった。彼女の研究により、この新たに特定されたパルボウイルスが人間の赤血球系前駆細胞に感染することが1981年に鎌状赤血球症患者の症例報告から明らかになり、その病原性が証明された。さらに、このウイルスが子どもに多く見られる軽度の発疹性疾患である伝染性紅斑の原因であることも1983年に判明した。それまで原因不明とされていたこの疾患が、特定の病原体に起因するものであることがついに解明されたのだった。

なお、最初の報告から5年後に、別途日本の研究者がこのウイルスを発見し中谷ウイルスと名付けていた。しかし、その後コサートのウイルスと同一であることが1984年に判明し、コサートが発見の栄誉を得て1985年ウイルス命名国際委員会にてヒトパルボウイルスB19の正式名称が登録された。

●オーストラリアへの帰国:教育と広範な社会貢献へ
1977年、コサートはウイルス学の先駆者としての国際的な名声を携えて故郷オーストラリアに帰国した。彼女はシドニー大学の細菌学部門に講師として加わり、キャリアの新たな章を切り開くことになった。それまでの研究所での実験や臨床ウイルス学に重点を置いた活動に加え、この時期から彼女は教育、指導、学術的リーダーシップにますます注力するようになる。

コサートがシドニー大学に着任した時期、感染症研究の分野は成長と変化の真っただ中にあった。コサートの教育方針は、親しみやすさと指導力に特徴があったという。彼女は学生との密接な関係を築くことを重視し、既存の規範に疑問を抱き、医療の喫緊の課題に対して革新的な解決策を模索することを奨励した。彼女が構築したカリキュラムは、理論的知識と実践的応用を統合したもので、教え子の多くはウイルス学や感染症学の分野で重要な貢献を果たし、彼女の教えを受け継いでいった。

その教育と研究における卓越した貢献により、1986年に感染症免疫学の教授職として任命された。在任中、彼女は新興感染症、ワクチン開発、および慢性疾患におけるウイルスの役割に焦点を当てた新しい研究プログラムを導入した。さらに大学の枠を超え、公衆衛生教育の熱心な推進者としても活躍した。彼女は政府の保健機関や専門団体と密接に協力し、医療従事者や一般市民を対象とした教育資料の作成に携わった。これらの活動は、特にワクチン接種への不安を軽減し、肝炎やヒトパピローマウイルス(HPV)などの予防可能なウイルス感染症への認識を高める上で大きな影響を与えることになる。

特筆すべきHPV研究を通した社会貢献は、子宮頸がんに強く関係する高リスクHPV株を標的とするワクチンの開発を支援し、その後、オーストラリアおよび他国でのワクチン接種プログラムの導入を後押ししたことだ。このプログラムがHPV関連疾患の発生率を大幅に減少させる成果を上げていることは周知の通りだ。HPVに関する彼女の研究はワクチン接種プログラムの実施を支える重要なエビデンスを提供し、このウイルスが子宮頸がんやその他のがんに果たす役割を明らかにした。オーストラリアは子宮頸がん予防となるHPVワクチンに対する取り組みが最も進んでいる国の一つになったのは彼女貢献が大きく、これが後に世界的ながん予防戦略のモデルとなっている。

また、コサートはB型肝炎ウイルスに関する貢献もしており、これらのウイルスの感染経路や慢性肝疾患における役割に焦点を当てる調査を推進した。彼女の発見は、これらのウイルスを検出するための診断テストの開発に貢献し、早期介入により良好な臨床成績をもたらした。この分野における彼女の貢献は、肝炎感染症の制御を目指した公衆衛生イニシアチブの基盤をも築くことになった。

●晩年と遺産
1998年、コサートは科学と教育への貢献が認められ、オーストラリア最高の民間人栄誉の一つであるオーストラリア勲章のオフィサーに選ばれた。この栄誉は、彼女の画期的な研究だけでなく、指導者、教育者、公衆衛生の推進者としての役割を称えるものだった。彼女の業績は国際的にも高く評価され、著名な会議での講演依頼や一流の研究機関との共同研究に結びついた。彼女はウイルス学の先駆者として広く認識され、その洞察はウイルス感染の理解と制御を大きく変革するものだった。

彼女は2000年代初頭に正式な学術的職務を退いたが、2014年に80歳で亡くなるまで科学界の重鎮として活躍した。引退後も若い研究者の指導、公衆衛生プロジェクトへの参加、感染症研究への一層の投資を訴え続けた。

イヴォンヌ・コサートが発見したヒトパルボウイルスB19は、今日でもウイルス病因論、免疫応答、ワクチン開発における研究の重要な対象であり続けている。コサートの遺産は、科学的進歩に限らず、彼女が指導した数え切れない学生や同僚の中にも受け継がれており、その好奇心、献身、そして知識の追求が、人間の健康を増進する力を持つことを示す証となったと言えるだろう。

https://litfl.com/yvonne-cossart/

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