最新記事一覧

Vol.25007 私は(まだ)何もしていないのだ ~現場からの医療改革推進協議会シンポジウム学生体験記~

医療ガバナンス学会 (2025年1月14日 09:00)


■ 関連タグ

東京大学教養学部前期課程理科三類 1年
清水敬太

2025年1月14日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

深夜の都内を走る山手線に揺られながら、私に残っていたのはふたつの相反する感情だった。ひとつは高揚感。もうひとつは自分への反省であった。

昨年の11月16日、17日にわたって、「第19回現場からの医療改革推進協議会シンポジウム」に学生スタッフとして参加する機会を頂いた。4月に東京大学に入学し、授業にもそろそろ飽き飽きしてきた時期である。教養課程の授業は必ずしも面白いものではない(そもそも、皆一律で学ばねばならない内容を、大人数授業で面白く展開するというのは至難の業だろう)。
思えば大学に入る前の私は、大学に入るまでにしか目が向いていなかった。大学に入った後のことを自分なりに考えていたつもりだったけれど、どこかで、大学に入れば自動的に何かが切り替わると思い込んでいた。しかし大学で半年あまりを過ごし、どうやらそれは本当に単なる思い込みでしかなかったということに気づいてしまっていた。しかし実際に行動して何かを変えようとすることはしていなかった。もしかしたら、薄々気づいていた、「大学は広い世界ではあるけれど、思ったよりも狭い」ということを確信するのが怖かったのかもしれない。

高校の先輩であり、東京大学の先輩でもある坪倉正治先生に、医療ガバナンス研究所の理事長である上昌広先生を紹介して頂いたのはそんなときだった。「現場からの医療改革推進協議会のシンポジウム」に学生スタッフとしてお誘いいただき、知り合いがほとんどいない緊張を胸にしながら、シンポジウム会場である建築会館ホールに足を踏み入れた。上先生としっかりと顔を合わせて話をするのはその日が初めてだった。

強烈だった。なにしろ第一声が「灘から東大理三なのか。そういうやつが一番バカになるからな」である。上先生から発される言葉は私がこれまで薄々気づいていたのかもしれないけれど目を背けてきたことを、いちいち正確に突いてきた。しかし、その一見厳しい言葉は私にとって福音だった。
理科三類に進学してある意味で浮足立っていた私に対して、私がまだ何も成し遂げていないのだ、大学入学はゴールではなくあくまでひとつのスタートにすぎないのだ、ということを的確に指摘してくれる大人は多くない。上先生の言葉に、そのことを痛切に感じさせられたのである。

その後のシンポジウムを手伝い、ありがたいことに登壇された皆さんのお話を聞かせていただいたのだが、思い返せば上で書いた上先生の言葉が補助線となり、また伏線ともなっていた気がする。シンポジウムで話されていた方々は皆、自分で何かを考え自分で行動する、ということを繰り返してこられた方々であった。

シンポジウムの中で印象的だったお話をひとつあげるのであれば、たとえば相馬市の立谷秀清市長である。東日本大震災の際の災害対応について、徹底的にご自身のナマの経験をお話しになっていた。実際に何が起こって、何が問題となり、どのようにその解消に努められたのか、などの(変な言い方になるが)お話は、いわゆる「べき論」を離れた話にしか持ち得ない凄みを伴っていた。

また「大往生」と題された最後のセッションでは、医師の皆さん以外にも、僧侶である霜村真康和尚や、実際にお母様の死を経験された小林秀美さんなど、様々な方がお話しになっていた。そこでは徹底的に個の経験が扱われていた。
ミーハーな私は、つい「エビデンス」とか「統計」とかの言葉にクラっと来てしまう。確かにある種の判断基準の上ではnの大きさは重要かもしれない。しかし落ち着いて考えてみれば、「平均的な」問題、「平均的な」人などいうものは存在せず、個々人にとって問題になるのはすべてその人にとって個人的な問題であって、そういった問題はつねにn=1の領域で、「現場から」立ち現れるのである。その当たり前のことを思い出させられた。

私がシンポジウムで感じたことを2つ言葉にまとめると、次のようになる。

ひとつ。単なる「論」は多くの場合、空虚である。論を論ずるために論じ、論ばかりが現実から遊離していくような論はどうしても軽く聞こえる。そのような「論」ではなく、論と行動とが尽きせず結びついているような論にこそ価値があるのだと学んだ。

ふたつ。あるいは、後ろ向きの「リアリズム」もまた空虚である。日本は人口が急速に減るだろう、医療に問題は山積しているだろう、それをネガティブに捉えるだけでは単に賢しらなだけだ。シンポジウムで話されていたことはそうではなかった。参加者の方々は、それぞれの問題意識をもとにしながら、何かを少しずつ良くするために動いていらっしゃった。それは一種の「夢」とか「理想」「ユートピアニズム」と形容しても構わないのかもしれない。とにかく前を向いていた。

シンポジウムではたくさんの興味深い話を学んだ。たくさんの興味深い方々と直接お話をさせていただくこともできた。そのことに高揚感を覚えた。
しかしシンポジウムが終わり、山手線で一人になったとき、そんな自分が恥ずかしくなった。
私はまだ、何もしていないのだ。そのことを忘れちゃいけない。すでに何かをしてきた人たちは、何かをしてきたから素晴らしいのだ。しかし私はまだ何もしていない。何かをしてきた人たちと話をしたということだけで、自分が偉くなったと勘違いしてはならない。このままいけば、上先生が言うところの「灘から東大理三の典型的なバカ」まっしぐらだ。

そして、上で「論」の空虚さを、賢しらさを自らに戒めておきながら、この稿がまさにその空虚で賢しらな「論」となりかねないような危うさを孕んでいることをまた、恥じたい、反省したいとも思う。ここで私がやっていることは、「論」だけ語っているのではないか? 現実から遊離してしまってはいないか? 私はまだ何もしていないのに自分が偉くなったと勘違いしていたら、それはある意味で「後ろ向きの「リアリズム」」の変奏に過ぎないのではないか?

私はまだ何もしていない、そのことをきちんと見つめたい。同時に、それを悲観的にとらえず、行動することの足がかりとしたい。この決意表明にて、「第19回現場からの医療改革推進協議会シンポジウム」の体験記の筆をおくことといたします。

 

MRIC Global

お知らせ

 配信をご希望の方はこちらのフォームに必要事項を記入して登録してください。

 MRICでは配信するメールマガジンへの医療に関わる記事の投稿を歓迎しております。
 投稿をご検討の方は「お問い合わせ」よりご連絡をお願いします。

関連タグ

月別アーカイブ

▲ページトップへ