医療ガバナンス学会 (2025年1月15日 09:00)
サッカー通りみなみデンタルオフィス
院長 橋村威慶
2025年1月15日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
「不毛地帯」(山崎豊子著)に元大本営参謀の主人公壹岐正がシベリアに抑留されラーゲリーでの強制労働中にウラン鉱石を採掘するシーンがある。
壹岐たち捕虜は数人の班となり、1日7トンの鉱石をトロッコに運ぶ労強制労働をさせられていた。文中では、壹岐はこの強制労働を続けているうち身体がだんだんだるくなり、発熱し、顔は黒ずんでいき、歯茎から出血し、痛みもなく抜け落ちたと書かれている。
壹岐の歯が脱落したという下りは歯科医とし興味を惹くところであり、何故脱落したか歯科医目線で考察してみよう。
まずは外傷によるものがある。歯は硬度はあるが、衝撃や外的な圧力に弱い。外傷を受けた歯は容易に亜脱臼する。亜脱臼をそのままにしておくと噛み合わせが変わり、歯の負担が増し完全脱臼(歯の脱落)になる。壹岐たち捕虜は過酷な生活の中、転倒したり落石があったりと、歯の外傷を受ける可能性は十分ありえる環境だったことは想像に難くない。
歯根破折も考えられる。歯根が破折すると、歯の周囲組織の歯槽骨が吸収され歯の脱落の原因となる。歯根破折の主な原因は食いしばりだ。歯が一日に接触する時間平均20分弱であり、それを超えると歯根破折や顎関節症、頭痛などが起こる可能性が高まっていく。壹岐たちは毎日7トンの鉱石を持ち運んだ。ただでさえ重い鉱石を劣悪な環境下で運ぶのだから当然歯をくいしばっていたであろう。また睡眠時に歯ぎしりや食いしばりをしていると加速度的に歯のダメージは大きくなっていく。壹岐は就寝時に歯ぎしりや食いしばりもしていたかもしれない。
次に壊血病。壹岐たち捕虜の食事は黒糖が入ったパン450グラムと具がほとんど無いようなスープだった。壹岐は新鮮な野菜、果物を摂取できなかった。その中で、ビタミン、特にビタミンCが不足していたのではないだろうか?壊血病の口腔内における症状は歯周ポケットからの出血、歯の脱落などがある。本文には息が力むと痛み魔なく犬歯が抜け、その歯根は痩せ細っていたとある。これは壊血病により歯根膜繊維が破壊され萎縮したものではないかと思われる。同じラーゲリーの者も同様の症状があり、壹岐自身も壊血病を疑い軍医に受診している。
最後に歯周病が考えられる。壹岐たち捕虜の舞台となる昭和10~30年代では歯周病は歯槽のう漏と呼ばれ、治療法も確立していない時代であり、一般的な生活をしている人さえ適切な治療を受けることができずにいた。捕虜生活をしていた壹岐はなおさらである。歯周病は多くの場合ゆっくりと進行し、歯を支える歯槽骨を破壊する。壹岐の歯の脱落の症状は歯周病の重度のステージだ。壹岐は11年に及ぶ捕虜生活を送っており、歯が抜け始めたのは8年目あたりからだ。進行の遅い歯周病でも8年あれば十分重度となる期間である。
以上、筆者が推測するに主人公壹岐は上記の原因が複合的に重なり歯の脱落に繋がっていったのだろう。加えてラーゲリーでの生活は過酷であり緊張の連続だっただろう。緊張が続くと交感神経の働きが活発になり、唾液の分泌を抑制する時間が増加し、口腔内乾燥をもたらす。最近の研究では、口腔内乾燥によりカンジタ菌が歯周病菌や虫歯菌とコロニーを作り、加速度的に口腔内を悪化させることがわかっている。壹岐の場合は口腔内の乾燥も原因の1つだったのではないか。
また作者はウラン鉱石を運搬中に歯が抜けたという描写をしているが、ウラン鉱石が原因だとは書いていない。作者もきっとウラン鉱石が歯の脱落の原因かどうかわからなかったのだろう。しかし読者の受け取り方によってはウランによるものだと思うかもしれない。
実際は自然鉱石から受ける被曝量は0.1〜数マイクロシーベルトであり、ウラン鉱石は5.8マイクロシーベルトだ。日常生活する上での自然被曝量は年間平均2.4シーベルトであり、壹岐たちがたとえその10倍の放射線量を持つウラン鉱石を運んだとしても放射線による被曝によって歯が脱落したとは考えにくい。
最後にこの小説はフィクションだが、シベリア抑留の描写は実際にあったものと考えてもおかしくない。温故知新、決してこのようなことは繰り返してはならない。