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Vol.25017 知られざる医学者列伝③  医師の道を断念したガリレオ・ガリレイ

医療ガバナンス学会 (2025年1月29日 09:00)


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内科医 谷本哲也

2025年1月29日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●科学革命の象徴ガリレオ・ガリレイ

ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei: 1564-1642)は、人類の宇宙観を根底から覆した科学革命の象徴となっている。それまでの地球中心説(天動説)に対し、ニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus: 1473-1543)は太陽中心説(地動説)を提唱した。ガリレオは、この革新的な考えをさらに発展させた。彼は自作の望遠鏡を用いて観測を行い、月のクレーターや木星の衛星を発見するなど、地動説を支持する数々の証拠を提示した。
しかし、両者の業績は当時の宗教的・政治的権威にとって脅威となり、特にガリレオは異端として裁かれ、終生軟禁を余儀なくされるという苦難を経験した。その地動説を巡る前日譚を架空の中世ヨーロッパを舞台に描いた青年漫画「チ。 ―地球の運動について―」(魚豊、小学館)は、数々の漫画賞を受賞しアニメ化もされ好評を博している。

TVアニメ「チ。 ―地球の運動について―」公式
https://anime-chi.jp

●ピサ大学時代:挫折と科学の出発点

このように天文学や物理学の父という尊称はガリレオの代名詞になっているが、そのキャリアの初期に医学を志したことはあまり知られていないようだ。1564年、イタリアのピサで生まれ、幼少期から知的な好奇心に満ちた子供だったに違いない。彼を育てた父親のヴィンチェンツォ・ガリレイも音楽家・理論家として歴史に名を残しており、ガリレオの科学的思考に少なからぬ影響を与えたと言われている。

それほど裕福ではないが貴族の家系であり、ガリレオは教育を重視する家庭環境に育った。1581年、17歳のときイタリアの名門ピサ大学の医師養成コースに入学する。1343年に創設されたピサ大学は、ヨーロッパにおける最も古い医学教育機関の一つとして知られ、中世からルネサンス期にかけて医学の発展に寄与した。当時のヨーロッパでは、解剖学や生理学の研究が進み始めており、ピサ大学は解剖学の演習や臨床医学の実践を先駆けて導入した大学の一つだった。特に16世紀には、近代解剖学の父と呼ばれるアンドレアス・ヴェサリウスの影響を受け、人体の詳細な研究が行われていた。

ガリレオが医師養成コースに入ったのは、彼自身の希望というよりも、家族の経済的安定を期待した父の意向が大きかった。しかし、彼の医学生時代は長く続かず、わずか4年後に中退することになる。なぜ彼は医学の道を諦め、科学の道へ進む決断をしたのだろうか。

●医師志望の背景:家族の期待と経済的現実

16世紀末のイタリアでは、医師は社会的地位が高く、安定した収入を得られる職業として尊敬されていた。ガリレオの父ヴィンチェンツォは音楽家として一定の評価を得ていたものの、経済的には苦しい状況にあった。古今東西でありがちな構図だが、手堅い職業について家族を支えるため、長男のガリレオには医師となり家計を助けて欲しいという期待があったと思われる。なお、弟のひとりミケランジェロ・ガリレイは割と自由にしていたのか、父の後を継いでリュート奏者・作曲家として活躍した。

ピサ大学は当時のイタリアにおける主要な学問機関の一つであり、医学は特に専門性が高い領域だった。学生はギリシャのヒポクラテスやローマのガレノスの古典医学を学び、解剖学や薬理学の基礎を修得することが求められた。しかし、学費や教材費は非常に高額で、裕福な家庭でなければ負担が難しいものだった。医学教育を巡るこの辺りの事情は、現代社会とあまり変わっていないのかもしれない。

ピサ大学での医学教育には、入学料、授業料、教材費などの費用が含まれる。当時の学費は年間20~50スカーディ(Scudi)と推定される。これは労働者の1年分の給料に相当し、現代の価値に換算すれば1年間で数百万円に相当するだろう。さらに、医学書や解剖学に必要な教材、道具の購入、都市部での生活費を考えると、その負担は非常に大きなものとなる。日本の私立大学医学部のようなイメージだ。

ガリレオの父はこの費用を何とか工面したが、家族全体にとって大きな経済的負担となっていたことは想像に難くない。加えて、ガリレオ自身が医学よりも数学や物理学に興味を持つようになったことも、医学分野での学業継続を困難にしていった。

●ピサ大学での生活と興味の変化

入学したばかりの1581年、ガリレオは、空気の流れで大きく揺れたり小さく揺れたりするピサ大聖堂のシャンデリアに気付く。自分の心臓の鼓動と比較したところ、揺れる幅に関係なく、シャンデリアが往復する時間は一定であるように計測された。振り子の時間測定に心拍数を利用するというアイデアは、医学講義の影響があったのかもしれない。家に戻ったガリレオは、同じ長さの2つの振り子を作り、一方を大きく振り、もう一方を小さく振ってみた。その結果、2つの振り子は同じ時間で動くことを見つけたとされる。この振り子の等時性は、ほぼ100年後のクリスティアーン・ホイヘンスの研究により正確な時計の製作に応用されることになる。

このような歴史的エピソードもあったものの、ガリレオが触れた医学カリキュラムは、古代のガレノスやヒポクラテスの古典的な文献の研究、解剖学や生理学の基礎といった黴臭いものだった。大学の伝統的な教育方針は、暗記や古代の権威に従うことを重視しており、既存の常識に疑問を投げかけることを好むガリレオにとって、この環境は窮屈だったに違いない。彼の手紙や後の著作から、医学の学びに満足していなかったことが伺える。長年にわたる学習と厳しい規範に縛られる医師の職業は、残念ながら彼の情熱を呼び起こさなかったのだ。

●大学中退への道

医学教育中心の生活で、ガリレオは意図的に大好きな数学から遠ざけられていた。医師は数学者よりも高収入を得られる職業だったからだ。当時の医師の収入は、一般労働者の10倍にも及んでいたようだ。しかしピサ大学で医学の基礎を学びながらも、次第にその講義内容に興味を失い始める。彼が本当に情熱を感じたのは数学や物理学の世界だった。

そのような中、数学教授オスティリオ・リッチとの出会いは、彼の人生において決定的な転機をもたらした。リッチはガリレオに、エウクレイデスやアルキメデスの古典数学を紹介し、科学的思考の楽しさを教えた。特にガリレオが魅了されたのは、自然界の法則を数学的に説明するというアプローチだった。彼は、医学で求められる実践的な技術よりも、物理現象を理論的に解明することに没頭するようになる。このような学問への興味の変化が、彼の進路変更を決定づけることになった。彼は父親を説得し、医学ではなく数学や自然哲学を学ぶことを認めさせたのだった。

医学教育を受けるための高額な学費も関係していたと言われるが、この決断は簡単なものではなかったはずだ。カトリック教会の影響力が強く、個人の自由より共同体の利益が優先されたルネサンス期のイタリアでは、親の期待を裏切ることは個人的にも社会的にも大きなリスクを伴っていた。さらには、高収入の医師を嘱望していた父親を大いに失望させたことだろう。
しかし、数学と自然哲学を追求するというガリレオの大胆な選択は、彼を知的な独立への道へと導いたのだった。彼が医学を放棄したからといって、この分野を完全に無視したわけではない。後に、短期間の医学教育で得た解剖学や生理学の知識は、彼の力学研究や発明に影響を与えたはずだ。実際、水静力学的天秤や温度計のプロトタイプ開発など、医学に関連する機器の考案も行っている。

ガリレオが大学を中退し、科学の道へ進む決断をしたことは、後の彼の業績にどのように影響しただろう。その答えは、医学教育の体験そのものにある。医学教育では、患者の症状や病態を詳細に観察し、原因を突き止める能力が重視される。このスキルは、後にガリレオが天体観測や物理実験を行う際に大いに役立ったことだろう。彼の鋭い観察力と記録の正確さは、この医学教育の基礎に支えられていた可能性がある。

さらに、医学では理論だけでなく、実験や実践を通じて知識を得ることが重要となる。この姿勢は、ガリレオが科学において「観察と実験を重視する方法論」を確立するきっかけとなったはずだ。また、医学は人体を扱う学問だが、そこからさらに広がり、自然界の全体的な調和にガリレオは目を向けた。この広範な視点が、彼の科学的発見を支える基盤となったと言える。

●進路変更とその後の活躍

1585年、ガリレオは大学中退後、家庭教師として数学を教える仕事を始める。この新しいキャリアは、彼に自由な時間と収入を与え、自分の研究に集中する機会をもたらした。後にピサ大学で物理学の教授となり、自由落下の法則や天文学の観測における革新的な発見を次々と行った逸話の数々はご存知の方も多いだろう。

もしガリレオが医学分野で学業を続け、医師としての道を歩んでいたならば、今日の科学史は全く異なるものになっていたかもしれない。しかし、大学中退は回り道になったとしても、若い時代の経験と教育は決して無駄にはならない。彼の観察力、分析力、そして実験的思考を育む重要な基盤となったはずだ。

ガリレオ・ガリレイの77年の人生の中で、医学を学んだピサ大学での4年間は中退に終わる短い期間に過ぎず、一般的な意味で成果を上げたとは言えないが、その後の科学的業績に深い影響を与えた。経済的困難や家族の期待という制約の中で、彼は自分の本当にやりたいことを見つけ、情熱を追求する道を選んだのだ。
これらの経験は、後に彼が批判し拒絶することになるスコラ学的方法への洞察を提供した。「論争屋(The Wrangler)」というあだ名を付けられるほど教授たちと口論する傾向があった知的な不満が、時代遅れのパラダイムに挑戦するという彼の決意を燃え立たせ、それが天文学、物理学、工学の分野での彼の画期的な業績への道を開いたのだ。
この時期の経験がなければ、彼の革新的な科学的発見は実現しなかったかもしれない。医学生時代は、ガリレオという偉大な科学者を形作った隠れた原点であり、科学史における重要な一コマだったと言えるだろう。

振り返れば、ガリレオが医学を離れたことは、人生の軌跡が必ずしも直線的ではないという普遍的な真実を物語っている。社会的な期待から外れることであっても、個人的な知的情熱に従うことの重要性を思い出させてくれる。彼が外科医のメスを握ることはなかったものの、その精密さと洞察力は、世界の宇宙観を再構築し、学問の枠を超えた人類への遺産を残したのだった。

Galileo and the Application of Mathematics to Physics
https://www.nature.com/articles/021040a0

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