医療ガバナンス学会 (2025年2月7日 09:00)
谷本哲也
2025年2月7日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
イギリスのロンドンに拠点を置く『ランセット』 (The Lancet)をご存知だろうか。世界中に多くの読者を持つ老舗総合医学誌で、2023年には200周年の特集が組まれた。
https://www.thelancet.com
https://www.thelancet.com/lancet-200
1823年、イギリスの外科医トーマス・ウェイクリー(Thomas Wakley: 1795-1862)が28歳の若さで創刊して以来、ランセットは世界で最も古く、かつ影響力のある医学誌の一つとして、臨床医学、グローバル・ヘルス、そして公共政策の分野において、大きな役割を果たしてきた。その特徴は、玄人好みの革新的な医学研究を発表する場にとどまらず、健康に影響を及ぼす社会的および政治的課題にも焦点を当てていることだ。
ランセットの名前は、外科用の小型メス(lancet)と、ゴシック建築の光を取り入れる尖頭窓(lancet window: 上部が鋭い形になった細長い窓を指し、形状がランスという槍に似ている)にちなみ、医療の発展と知識の普及に鋭く切り込み、医療界の暗部に光を当てる強い意志を含意している。19世紀前半、医学はまだ未発達で、職業として医師の地位も十分でなく、科学的根拠に基づいた医療が普及していなかった。ランセットは、こうした状況に果敢に挑戦し、科学的医療を推進するためのプラットフォームとして機能することを意図し立ち上げられた。
既に創刊当初から、ランセットは単なる医学誌に収まらず、医療における社会問題にも切り込んできた。病院運営の不正や貧困層への医療提供体制の不平等を批判し、医療改革を訴える声を取り上げたのも好例だ。特に19世紀の公衆衛生運動では、都市の衛生状態の改善や予防医学の重要性を広める役割を果たした。20世紀以降も時代とともに進化し、医学論文の発表だけでなく、論説を通じ社会的・倫理的問題にも焦点を当て、たとえば、第二次世界大戦後の医療政策やエイズ問題なども積極的に論じた。しかし、20世紀後半にはその医学誌としてのステータスは没落するようになり、アメリカなどの医学誌の後塵を拝するようになっていた。
ところが21世紀に入り2020年代のランセットは、ライバル誌とも言えるアメリカ、ボストンのニューイングランド医学誌(the New England Journal of Medicine , NEJM)、アメリカ医師会誌(the Journal of the American Medical Association, JAMA)、イギリス医師会誌(The BMJ)といった国際的医学誌を凌駕する地位を有する。その背景にあるのは、それぞれのライバル誌の目的や特徴とは明確な違いを出し、ランセットならではの差別化がこの30年間で進められた、その出版戦略にある。
●ランセットの学術出版戦略と革新性
ランセットは単なる医学研究の発表媒体にとどまらず、公衆衛生や社会課題への政策提言や影響力を持つ「グローバルヘルスの発信基地」としての役割を担っている。その編集方針と出版戦略は、臨床医学、公共政策、国際保健を結びつけ、他のジャーナルと一線を画すものだ。その結果、臨床医、研究者だけでなく、政策立案者や国際機関担当者も主要な読者層となっている。
特に、欧米中心主義にとどまらず、アジア・アフリカ・ラテンアメリカや低中所得国などの課題にも焦点を当てているのも特徴だ。私たちのグループも、これまで研究不正や紅麹事件など各種の日本の課題をランセットに掲載する機会をたびたび得てきたが、これは他の専門誌では得難い特有の編集方針に負っている。
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/?term=tetsuya+tanimoto+lancet&sort=date
たとえば、NEJMは最先端の臨床医学に焦点を当て、新薬開発や臨床研究などを多く取り上げ製薬業界との距離が非常に近い。JAMAは開業医の立場に近く、製薬業界とは独立して利益相反の問題を取り上げるなど、医療経済や倫理に関する研究も推進している。しかし、どちらもアメリカ中心主義の色彩が強い媒体で、他国への関心は薄い。BMJは実践的な診療ガイドラインやエビデンスに基づいた医療(EBM)を重視し、通常の医学研究や実用的な記事とは一味違うユーモアや独創性を重視したクリスマス特集研究も名物だが、やはりイギリスの家庭医や研修医などが主要な読者層だ。
このような強豪ライバル誌がひしめく中、ランセットは、学術出版として複数の独自の戦略を採用している。質の高い臨床試験やメタアナリシスといった教科書を書き換えるような研究の掲載をするだけでなく、世界的に注目されるコロナ・パンデミックや気候変動、各国の医療制度、健康格差といった重要課題を戦略的に特集することで、公衆衛生や公共政策の提言を通じ広範な社会的影響を持つ。また、そのブランド力を活かし、腫瘍学や血液学、デジタル・ヘルスなど多様な専門分野に特化した姉妹誌を数多く発行している。
これにより、特定の分野での専門性を深めつつ、ジャーナル・ブランド全体の価値を相乗効果でさらに高めることに成功した。23の専門誌とともに、ランセットはエルゼビア社やその親会社レレックス・グループにとって収益性の高い収入源となっている。
2024年現在、年間3,660万以上のウェブページ訪問者数と1億810万件以上のダウンロード数を誇り、ランセット・アラートには390万以上の登録者数、SNSプラットフォームで、280万以上のフォロワー数を抱えているとされる。また、ランセットに掲載された研究は、年間18万件以上のニュース記事で取り上げられ、ガーディアンやニューヨーク・タイムズなど影響力のあるメディアで定期的に報道される。
私自身、ランセットに掲載された論考がプレス・リリースされたときは、文字通り世界中のあらゆるメディアで報じられ驚いた。専門誌の影響力を示すインパクト・ファクターとそのランキングは過去30年間で上昇を続け、325の一般医学および内科系ジャーナルの中でインパクト・ファクター98.4、世界第1位にランクされている(2023 Journal Citation Reports®, Clarivate 2024)。製薬業界との蜜月関係や高額な購読料が批判されることもあるが、公衆衛生に関する研究については無料のオープン・アクセスを推進し、低中所得国の研究者や医療従事者でも論文全文へアクセス可能な体制を構築している。
●名物編集長リチャード・ホートン
このランセットの快進撃を30年近くの長きに渡って率いてきたのが、編集長のリチャード・ホートン(Richard Horton: 1961-)だ。その名前は医療ジャーナリズムやグローバル・ヘルスの提唱者として世界中で広く知られている。ホートンは医学、科学、公衆衛生の革新的な議論の最前線に立ち、彼のキャリアは医学と社会問題の接点への深いコミットメントを反映している。そのXのプロフィールには、「現在への恒久的な攻撃へようこそ(welcome to a permanent attack on the present)」と記されている。
1961年12月29日、イギリスのロンドンで生まれたホートンは、バーミンガム大学で学び、1986年に生理学と医学の学位を取得し卒業した。初期の臨床修練の後、次第に医学が政治、倫理、人権とどのように相互作用するのか、その広範な影響に関心を寄せるようになる。この学際的な視点が後のキャリアを特徴付けた。1990年にランセットにアシスタント・エディターとして入社。1995年に若干33歳で編集長に抜擢されたことは、チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens: 1812-1870)のような旧時代のやり方で停滞していたこのジャーナルにとって大きな転機となった。彼のリーダーシップの下で、ランセットは臨床試験や医学研究の発表媒体の枠を超えて、その範囲を拡大し現在に至っている。
この出版物が、健康格差、健康の社会的決定要因、疾病の発生における政治的側面など、重要なグローバル・ヘルス問題に取り組むプラットフォームへと進化してきたのはホートンの力量によるところが大きい。
Priorities for the future of health | The Lancet at 200
https://youtu.be/khkOfsFgEeA?feature=shared
●論争を引き起こす編集方針
ホートンの編集長としての特徴は、大胆で時に論争を呼ぶ立場を取る胆力と反骨精神にある。イギリスの伝説的なポストパンクバンド、ジョイ・ディヴィジョンを好むというのも納得だ。彼は政府や関連機関、さらには科学界の方向性そのものを、差し迫った健康問題への取り組みの失敗と見なし批判することが多々ある。
たとえば、ランセットは気候変動の健康への影響を公衆衛生の緊急事態として、2009年の段階で早々に取り上げた主要な出版物の一つだった。また、コロナ・パンデミックの間、ホートンの活動はさらに注目を集めた。この危機の初期段階で、彼は迅速でエビデンスに基づく行動を熱心に支持し、各国政府や国際機関の対応の遅れや協調性の欠如を強く批判した。ランセットの商業的成功により経済的自立を果たせていることが、このような忖度不要な言論的自由の達成に、大きな役割を果たしていることは着目すべき点だ。
2020年に出版された彼の著書『The COVID-19 Catastrophe: What’s Gone Wrong and How to Stop It Happening Again』(邦訳:「なぜ新型コロナを止められなかったのか」青土社)は、システムの失敗を鋭く批判すると同時に、改革へのロードマップを提示した。コロナ・パンデミックにおける医学界の対応を非難し、より高い説明責任を求め、公衆衛生のニーズに応えるための優先順位の再評価を提案した。編集業務以外でも、ホートンは世界保健機関(WHO)やグローバル・ファンドなど、多くのグローバル・ヘルス委員会や諮問委員会で専門知識を提供してきた。その貢献の度合いは、世界中の機関からの名誉博士号や賞などで広く認識されている。
ランセット本誌では、ホートンは「オフライン(Offline)」というコラムを定期的に執筆している。このコラムでは、健康、医療、社会が交差する幅広いテーマについて個人的な見解を示し、その内容は深い洞察に満ち、従来の見解に対する挑発的な視点で知られている。緊急性の高い世界的な健康問題や政策決定への批評、医学の実践における倫理的側面について論じ、彼の文章では、健康が政治的、社会的、経済的要因とどう相互に関連しているかが強調され、医療における課題の多面的な性質が浮き彫りにされる。
たとえば、2022年の記事の中で、ホートンは疫学の先駆者であるジョン・スノウの遺産や、ロンドンのブロード・ストリートでコレラの感染拡大を食い止めるためにスノウがポンプの取っ手を取り外したことを記念するイベント「ポンプ・ハンドル講演会」の象徴的意義について触れた。この歴史的な出来事を引用しながら、現代の公衆衛生の慣行について批判し、既成概念が進歩を妨げる可能性があることを指摘した。
ホートンの特徴は、このような率直さと物議を醸すテーマに果敢に立ち向かう姿勢にある。オフラインのコラムを通じて内省と議論の場を提供し、医療従事者が自身の業務の広範な影響や、それが機能する社会的構造について考えるよう促す論考は、読者の批判的思考を刺激し、より包括的な健康と医療に対するアプローチを提唱し続けるものとなっている。ホートンのキャリアは様々な議論で彩られており、中にはワクチンと自閉症や、ヒドロキシクロロキンによるコロナ治療に関する捏造論文の掲載といった大きな失敗も度々経験してきた。
また、政治的に敏感な内容を掲載する意欲が批判を招き、医学出版の科学的な規範から逸脱しすぎていると非難されることもあった。しかし、ホートンは一貫して自らのアプローチを擁護し、健康はそれが存在する政治的・社会的文脈から切り離すことはできないと主張する。
●ランセットの未来への挑戦
ホートンの影響力は医学界を超えている。彼は医学教育に芸術や人文学を統合することを強く支持しており、未来の医療従事者を形成する上で、共感、倫理、文化的な認識の重要性を強調している。ホートンの遺産は、勇気と信念の物語とも言える。ランセットというプラットフォームを活用することで、彼は健康についての人類の考え方を変えたのだ。それは単なる個人的な問題ではなく、集団的かつグローバルな責任なのだ。彼の仕事は、科学が真実を発見するだけでなく、より公平で持続可能な世界を築くためにそれを適用すべきものであることを思い出させてくれる。
社会正義への関心は、彼の個人的な経験にも関係しているとみられる。生後3カ月で養子に出され、ノルウェー人の実父は短い関係で子供ができたことを知らないまま自国へ帰国した。それから40年以上経ってから、ホートンは父を探し出し関係を築き、5人の異母兄弟がいることも知った。ホートン自身は小児科医の妻と娘の家族を持つが、個人的な健康の問題にも直面している。2018年、彼は進行期メラノーマ(皮膚がんの一種)と診断された後、度重なる手術や免疫療法を受けており、その経験が彼の医療や健康に対する視点に一層の深みを与えた。
このような個人的な試練が、医療制度の改善と患者ケアの重要性をさらに強調するきっかけとなったと彼自身も述べている。
ホートンの編集方針は、科学研究を社会的・政治的文脈で評価する点に特徴がある。たとえば、イラク戦争時には、戦争が公衆衛生に与える影響についての論文を掲載し、政府や国際機関に問いかける内容を発信した。イギリス政府のコロナ対応に関する批判的なエディトリアルや、イスラエル・パレスチナ問題に関連した論文の掲載、ドナルド・トランプや中国の医療政策への言及など、意図的に論争的なテーマを扱うことで、医療における倫理や社会的課題への読者の関心を高めてきた。そして今ホートンは「地球の健康(Planetary Health)」—人間の文明とそれを支える生態系の健康—の概念を発展させることに取り組んでいる。
現在のランセットは、医学界で最も影響力のあるジャーナルの一つとして認識されている。医療の進歩を記録し、政策や倫理における重要な討論の場を提供するだけでなく、歴史を通じて社会的公正や人類の健康に貢献する使命を担っている。リチャード・ホートンのリーダーシップの下で、ランセットは単なる研究結果の発表の場を超え、人々の健康に影響を与える社会的要因を探求する場へと変貌した。この革新性と挑戦的な姿勢は、創刊者トーマス・ウェイクリーの理想を2020年代の現代にまで引き継ぐものと言えるだろう。
The Lancet’s Richard Horton: ‘We’re going to continue to see health as political’
https://www.ft.com/content/33e41e46-0d5d-480b-ad08-009da434c52f
Interview: The Lancet’s editor: ‘The UK response to coronavirus is the greatest science policy failure for a generation’
https://www.theguardian.com/politics/2020/jun/14/the-lancets-editor-the-uk-response-to-coronavirus-is-the-greatest-science-policy-failure-for-a-generation
The Lancet Editor’s Wild Ride Through the Coronavirus Pandemic
https://www.newyorker.com/news/letter-from-the-uk/the-lancet-editors-wild-ride-through-the-coronavirus-pandemic