医療ガバナンス学会 (2025年2月13日 09:00)
勝山市地域おこし協力隊
西谷咲希
2025年2月13日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
2024年 1月1日 16時10分 能登半島地震発生。
私はその時、東京の中央区で訪問看護をしていた。東京でも揺れを感じ、「これはやばい」と思った。祖父母が石川県内に住んでいたことや、東日本大震災後の現場を見て災害支援をしたい想いが強くなっていたことも重なり、年末年始が明けたころには、退職の意向を職場に伝え、能登入りの準備を始めた。引っ越しや退職手続きを済まし、1月14日に輪島の福祉避難所へ入った。私にとって、初めての災害支援であり、自分の弱さや特性を目の当たりにする貴重な機会となった。
災害支援は平時よりも諦めが先に来る。それでも1人1人にとって、最善である選択をしたい。そして全員が戻れるまでは、自分は現場を離れない。その想いで走った約1年間を振り返りたい。
【勝山市福祉避難所閉鎖に伴い、高齢者版シェアハウスを選択した経緯】
勝山市福祉避難所には、輪島の福祉避難所より、10~15名程度の方が2次避難をしていた。避難者の大半は、自宅に家族と同居しており、震災をきっかけに家族と離れ離れになっていた。1人での生活は難しい方が少なくなかった。介護サービスを利用されていた方も多かった。避難所はもともと温泉施設だった。広間が2つあり、5~6名ずつがその空間に段ボールベッドや介護用ベッドを並べて、生活していた。仕切りは段ボールを立てただけでプライバシーは一切ないような状況だった。毎日避難者からは「明日になったら輪島に帰れるんだろうか?いつになったら帰れるのだ!」と言葉が飛び交っていた。
避難者の中に100歳のおばあちゃんがいた。その方は、認知症があり、「帰りたい、殺せー」などを大声で叫んでいた。100歳まで輪島で過ごしてきたその方にとって帰りたい気持ちは当たり前であり、その言動をとめることができなかった。避難所の雰囲気は最悪であり、それを感じ取ったおばあちゃんはさらに叫ぶという悪循環に陥っていた。発災後3カ月にあたる3月末で、避難者のストレスも限界であるように感じた。
100歳のおばあちゃんを施設に送ることはできたが、必ず薬が使われる。その結果、その方らしさがなくなってしまう。私は、自分のエゴかもしれないが、それだったら自分がこのおばあちゃんと一緒に家を借りて、輪島の状況が改善するまで一緒に生活をしようと思った。その想いが高齢者版シェアハウスの根幹にある。
勝山に来た1月末から避難所が閉鎖する3月末まで、本人・家族と今後のことについて話し合う時間をたくさん作った。家族も被災しており、厳しい状況であったが、家族の意見としては、「まだこっち(輪島)には戻られる状況ではない、このまま勝山での生活をもう少し続けてほしい。」というものが、大半だった。多くの避難者は「輪島にとにかく帰りたい」その一心であった。
やがて、ストレスをできる限り感じない生活について考え始めた。プライベートの空間は大切であるが、知らない土地での孤立もストレスになると感じた。そして輪島に戻ったときに家族や介護サービスのサポートを借りながらでも、生活が続けられることも大切であると感じた。100歳のおばあちゃんへの自分のエゴがきっかけかもしれないが、今避難所に残っている方々と空き家でシェアハウスをしようと思った。
その後、市内の空き家を借り上げた。空き家は、避難所の際に関わってくださった勝山市民の方々に声をかけ、毎日頭を下げ続けた。その時点で残っていた避難者は6名であり、全員が1つの家で生活するには個室の数が足りないこと、夫婦のプライベート空間を作りたいという想いがあり、2件の空き家を借り上げた。6名の中の1名は、勝山での永住を決めており、1人暮らしを選択した。そして1人での生活が難しい認知症がある100歳、95歳、81歳の3名がシェアハウスで生活することになり、そこに自分も同居した。孤立は心配であったため、別で住む夫婦と1人暮らしの方を毎朝迎えに行き、夕食後に送る生活を繰り返した。
【高齢者版シェアハウスの日常と自分の役割】
シェアハウスで大切にしていたことは「共に笑って過ごすこと」。時には寂しさを感じているおばあちゃんと一緒の布団で寝たり、みんなで言いたいことを言い合い喧嘩をした。日常に近い生活を心掛けていた。「今日は何食べる?」と近所のスーパーにみんなで買い物に行った。週末はお出かけしたり、家庭菜園をしたりしていた。そして1人の住民として仲間に入れてもらうことに力を入れた。そのために、引っ越し当時は近所の方へ住民を連れて挨拶に行ったり、自治体への参加、地区のごみ拾い活動、お祭りなどあらゆる行事に参加した。
最初は、よそものとして扱われていたが、徐々に存在を受け入れていただき、シェアハウスに遊びに来る地域住民も増えてきた。徐々に避難者もシェアハウスでの生活に安心し、生活のリズムが整い、笑顔も増えた。シェアハウスの住民は3名とも認知症があったが、できることは増える一方であった。シェアハウスには毎日のように食事を作る市民ボランティアが来てくださり、職種を問わない、多くの人の関わりも非常に良い影響を与えた。孤独・孤立の解消にもつながっていた。災害時の心理的につらい状況である時に、一緒に食事をしたり、覗けば顔が見えるような適度な距離感は、被災者に元気を与えたと考える。
高齢者版シェアハウスの私の役割は時によって変わった。時には訪問介護士、時には訪問看護師、時には同居の孫となった。シェアハウスへの補助や助成は現時点ではなく、介護保険サービスで収益を得ていた。ただし、介護保険サービスの点数にも限界があり、ボランティアの時間の方が多いのが現状であった。同居の孫の役割は、非常に楽しく、住民たちのおばあちゃんとしての役割を感じることができて素敵な時間であった。
【高齢者版シェアハウスを経験しての課題】
災害支援期間中ということもあり、突発的にできた仕組みであるものの、全員がADLを維持し、認知機能が低下することなく、石川県内に戻れたことは非常によかったと思っている。一方で課題もたくさんあった。一番はお金のことである。今回私は同居しており、夜の時間はボランティアとしての対応をしていたが、その部分に給料が出る形は絶対に成り立たない。主に関わるスタッフとして私以外にもう一人いたが、介護保険サービスの収益だけでは赤字であった。そのため、長くは続かない形であり、展開は臨めないことを感じていた。
そして自分が同居していて、非常にしんどくなることもあった。プライベートは一切なく、災害時でいずれ閉鎖すると決まっていたため、なんとか続けられたと思っている。お金と人の問題は大きいと感じた。また、同時にハンディーがある方が地域へ溶け込む難しさも感じた。
今回のシェアハウスでは、積極的に住民が外に出ることを心掛けていたが、世間の風潮としてはそういう方は閉じ込めておくことが主流になっていると感じる。そのため、住民が迷子になったときの地域の目線は痛いものがあった。地域に溶け込みその人らしく暮らせる仕組みはまだまだ整っていないと感じた。
【高齢者版シェアハウスの需要と展開について】
災害時に限らず、未婚の方や核家族の増加、人とのつながりの希薄化に伴い、高齢者版シェアハウスの需要は高まっていると考えられる。現在、孤独や孤立はタバコよりも悪いとの研究データもある。高齢者だけが住むシェアハウスは生活や経済面で厳しい部分が現状としてある。世代や個性をごちゃまぜにし、お互いが足りない部分を補えるようなシェアハウスがあると良いのかもしれない。そんなシェアハウスを作るために動き始めていきたいと思う。