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Vol.25030 「医師になりたい」無謀な挑戦と現場での修行の日々

医療ガバナンス学会 (2025年2月18日 09:00)


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安野颯人

2025年2月18日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

「医師になりたい」と上 昌広先生(医療ガバナンス研究所理事長)のもとを初めて訪問したのが約2年前のこと。大学卒業後から4年間勤務した都内の中学校・高等学校には2022年度末で退職する旨は既に報告していた。医師になるべく、いや医学部に入学すべく「初めて」の受験に備えるためである。私の無謀な挑戦が始まった。

私は、これまでの人生の全てを野球に捧げてきた。いわゆる「受験競争」の経験はなく、中学校も高校もさらには大学も「どこで野球をするか」だけを考え進路を選択し、面接試験のみで受験を掻い潜ってきた。入学試験としての筆記試験は経験がない。というよりも、学校内で行われる定期試験さえ真面目に受けたことがない。中学校は福井、高校は石川、大学は新潟、そして社会人では東京と各地を転々としながら生きてきたのは、「どこで野球をするか」を考えた末の結果である。

高校生の頃の私の定期試験期間に対する認識は『通常よりも早めに練習を終わらせ、就寝時間を早くすることで、睡眠時間を確保する期間』であった。当時は寮生活を送っていたが、試験期間中にたまたま寮内の勉強部屋に入ると、他の寮生が試験勉強をしており、「試験期間なんだから勉強なんかしていないで早く寝た方がいいよ。」と伝えたことを覚えている。完全に学生の本分を見誤っている。
母校の名誉のために補足しておくと、部員心得第一条に「野球部選手たる前に、金沢高校生徒たれ」とあるように、高校生としてのあるべき姿は常々教育されてきた。そんな指導方針に共鳴し母校に進学したのだが、本音と建前である。甲子園が全ての価値観で学校生活を過ごしてきた。先生方には本当に申し訳ないが、学生時代の授業で得たものは、バレずに寝る術であろう。それだけ、ただひたすらに野球に没頭できたのは、野球が大好きだったからだ。

そんな大好きな野球が、いつの日か痛みを我慢するものとなり、競技力向上ではなくパフォーマンスの復活に悩む、ただの苦しいものに変化していった。原因は怪我だ。私は、高校2年生から大学2年生までの4年間で怪我による3度の手術を経験した。1度の手術で、おおよそ6~10ヶ月ほどのリハビリを強いられるため、高校・大学ではまともに野球ができなかった。

私の卒業した中学校は、ちょうど私が教育実習でお世話になっている時に全国制覇を成し遂げた。高校は、春9回夏13回の甲子園出場回数を誇る。大学では、同期に漆原大晟(現阪神タイガース)、後輩に昨シーズンに最優秀中継ぎ賞を受賞した桐敷拓馬(現阪神タイガース)らがいる。このようにトップレベルを目指す仲間に囲まれながら、私の現役生活は、いかにして怪我を誤魔化し、そして、隠しながら試合に出場するかを考える日々であった。一向に完治しない怪我、当時の私にはそれしか選択肢がなかった。結局、最後まで競技パフォーマンスレベルは復活せず、大学卒業と同時に競技継続を断念した。

大学卒業後は、大学野球部の監督に紹介していただき都内の高校野球部で部活動の指導をすることになった。指導にあたる中で、私と同様に怪我に苦しむ多くの生徒に出会った。上述した私の経験は、怪我に苦しむ生徒との関わり合いの中で大いに生かされるのではないかと考えたが、現実はそれほど甘くはなかった。私にできることといえば、その苦しさに「寄り添う」こと、そして、受診する病院や医師との円滑なコミュニケーションのための「助言」、さらに練習メニューの「調整」程度である。
医学的な知識が不足しているからだと言われれば確かにそうなのだが、それでは、私が医学を独りで探求すれば良いのかというと全くそんなことはなかった。生徒やその保護者の考えるスポーツ障害の専門性とは、『医師の言葉』である。所詮、私の経験談は「あなたは診断できないでしょ。」「医師に確認します。」という反論によりただの戯言となる。医師の持つ言葉の重み、これはある意味で内在的に埋め込まれている価値観であり、内容どうこうよりも誰が発する言葉なのかが重要な局面もあるということを、身をもって経験した。
確かに、人間誰しもが、この人に言われれば納得できる、ということはあるだろう。怪我をした生徒にとってそれは医師であり、医師に「大丈夫や‼」と言われれば、本当にそうなることもあった。そんな日々を送りながら、怪我に苦しんでいた当時の自分も「なんでもいいから治してくれ。骨がくっついたとか靭帯をつないだとかどうでもいいから、どうすればパフォーマンスが復活するかを教えてくれ。寄り添うとかいらないから思い切って野球をやらせてくれ。」の一心であったことを思い出した。また、「怪我がなかったらもう少しやれたのではないか…」という想いを拭えないまま生徒と向き合っていたのも正直なところだ。

『この想いは、医師になって自分が怪我を治せるようにならない限りは一生拭えない』そう痛感し、私は医師を志すことにした。
とはいっても、上述のように全く勉強をしてこなかった私でさえも、医師になることがとんでもなく難しいことは知っていた。まずは、医学部に入学しなければならないが、医学部受験勉強開始時の私の学力は、まさに皆無であった。当然、何をすればよいのか、何から手をつければよいのか全く分からなかった私は、大学時代の恩師である中島郁子先生を訪ねた。

現在は、プロ野球の千葉ロッテマーリンズでスポーツカウンセラーとしてご活躍されているが、当時はそんな凄い方とは知らずに、ただ人生の先輩としてなんとなく中島先生に会いに行った。特に医師を目指す理由は聞かれなかった。今になって振り返ると、覚悟だけを試されていたのだろうと感じている。「仕事は辞めます。どうすれば医師になれるかを教えてください。」大学時代は、ろくに敬語すら使わなかった私が、スーツにネクタイを締めて中島先生にお願いした。
最終的に「人生を懸けてやるなら応援する。」と言ってくださった。慣れないネクタイ姿とカタコトの敬語、しつこい私にそう返答せざるを得なかったのかもしれないが、ここから私の受験生活が始まった。そして、受験を終えた今、これが大きな契機であったと心底感じている。

こうして、中島先生のご紹介により2022年12月27日にお会いしたのが上先生である。当日、集合場所に集合時間の2時間前に到着し、YouTube でひたすら上先生のインタビュー動画を拝見していた。とにかく「根性はあるんや」というところをお見せしたいと意気込んでいたが、私の方が圧倒されたことを覚えている。
なんせ、上先生と中島先生の3人で焼肉をいただいていたのだが、時刻は午前0時を回っていた。終電を気にしながら焼肉をいただいたのは初めてだった。上先生は、「プロに聞くのが1番や」と、代々木ゼミナール超人気プロ講師の藤井健志先生を紹介してくださり、2023年1月4日に初めて藤井先生にお会いした。
藤井先生には、「君がやろうとしていることは、かなり無謀だよ。そこらへんの公園で遊んでいる小学生がプロ野球選手になりたいと言っているのと変わらない。」と厳しいご指摘をいただいた。今思えば当然の反応である。受験の厳しさを熟知されている方に、いきなり「中学英語もままならないですが、医学部を目指します。」とお伝えしたのだから。藤井先生は、「ただね、プロ野球選手はみんな、小学生の頃は公園で野球をして遊んでいただろうけどね。」と付け加えてくださった。
勉強方法に関してご教示いただいたことは、1つである。「野球を始めたばかりの小学生も毎日やって、プロ野球選手も変わらず毎日やることは何?それが基本。勉強の基本となるものを見つけて、それを反復しなさい。」と、野球しかやったことのない私でも深く理解できるように、単純明快にお話ししてくださった。

2024年11月13日、私は、金沢大学医学部に合格した。生涯、この日を忘れることはないだろう。無謀な挑戦の第一弾が終わり、同時に、医師になるための新たな挑戦が始まった。

合格できたらどれほど嬉しいのだろうかと受験生活を過ごしてきたが、合格発表の瞬間、喜びは少なかった。これだけのご縁をいただき、皆様に懇切丁寧にご指導いただいて受からないわけがない、と考えていたからだ。そうは言っても受験生活がなかなか過酷であったことも事実である。人間に会うことはなく、毎日同じ食事をし、ただひたすらに勉強勉強勉強、そしてまたまたこれが難しい。。。

本稿では、少しだけそんな日々をご紹介したいが、受験生活を思い返すと吐き気を催すため、詳細は割愛させていただきたい。ある日、模試でケアレスミスをしてしまい落ち込みながらテレビをつけると、阪神対オリックスの日本シリーズが放送されていた。偶然にも後輩の桐敷が登板し大活躍している姿を見た時には、心底「俺はなにしてんやろ」と思ったものだ。またある時には、勉強していると「高校何年生ですか?」と尋ねられたこともあった。「高校生は絶対ないやろ‼」と心の中で突っ込みながらも、平日の昼間に高校生に囲まれて勉強していたらそう思うよなと勝手に納得したこともあった。

入学までの約4ヶ月をいかにして過ごすか。多くの合格者は、まとまった休みが取れるのは最後だからと遊んで過ごすが、そんな無駄な時間を過ごしたくはない。その旨を、上先生に相談すると【ナビタスクリニック 立川】をご紹介くださり、修行の機会をいただいた。ナビタスクリニックは、仕事や学校で多忙な現役世代へのコンビニクリニックとして、2006年に上先生の率いる医療チームが中心に立ち上がり,2008年に設立されたクリニックである。
駅直結ビルに立地され、夜9時まで診療を行うなど、高い利便性を持ちながら、オンライン診察や多様な種類のワクチン接種を可能とすることで、患者さまの幅広いニーズに応えている。現在では、川崎・立川・新宿の3院で、年間約18万人以上の診療実績を誇っている。

現在私は、立川院で修行をさせていただいている。「修行」といえば、もちろん「床磨き」が必須である。なんとも体育会的ノリで、いかにも脳筋の発想であるが、私にはこれしかない。頭脳明晰なお医者さんにはなれないだろうから、不恰好に泥臭く。ナビタスクリニックにご来院される患者さまにとっては、医師も看護師も事務も、あるいは学生も関係なくナビタスのスタッフである。その一員として私ができることは、少しでもその空間を快適なものにすることくらいである。その役割を全うしていく。

主な修行内容は、電話対応である。患者さまからのお問い合わせや薬局からの疑義紹介がその多くを占める。当然のことながら、患者さまは対応する私を「プロ」として扱う。医療に関して全く無知な私は、ひたすら「大変申し訳ございません。只今確認いたしますので、少々お待ちください。」と緊張しながら返答するしかない。修行が始まり約2ヶ月、ようやく少しずつ自分の言葉で、患者さまにご説明できるようになってきた。「ご丁寧にありがとう。」電話越しの患者さまの一言に、ナビタスクリニックの一員としてのやりがいを感じている。将来、一人前の医師になったとしても、患者さまに、緊張しながら向き合える医師でありたい。

また、診察室で医師の診療を見学しながら、抗原検査の補助や印刷物の取り出しといった仕事も担当している。診察室に入る際には、白衣を着用する。まだ医学生でもなく、白衣の重みを感じられるほどの経験もないが、白衣を着るだけの行為がこれほどまでに嬉しいものなのだと、毎日ヒシヒシと痛感している。挫けそうになっていた1年前の受験生の自分に、この喜びを分けてあげたい。

立川院のスタッフの皆様には、本当にお世話になっている。全く無知な男がいきなりクリニックにやってきたら邪魔であろうが、優しくご丁寧にあらゆることをご指導いただいている。立川院長の瀧田盛仁先生には、「国や制度を非難せず、そして言い訳にせず、一人の医師として『現場』でできることを模索し続けることが何より重要である。」というお言葉をいただいた。まさに、「現場からの医療改革」である。現場でしか感じられないことがある。現場だからできることがある。
そして、現場でこそ学べることがある。私はこれからも、「現場」での修行を通じて学んでいく。視野が狭いなら首を振るしかない。頭が動かないなら足を動かすしかない。これから先もまだまだ修行は続いていくが、私にはこれしかない。なんせ脳筋なのだから。

この貴重な修行の機会を与えてくださった上先生、現場で懇切丁寧にご指導くださる瀧田院長はじめナビタスクリニック立川のスタッフの皆様、そして何より、ナビタスクリニックにご来院くださる全ての患者さまに、この場をお借りして、心より感謝申し上げます。私の無謀な挑戦と現場での修行の記録として本稿を執筆し、このような機会をいただけたことに、重ねて厚く御礼申し上げます。

 

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