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Vol.25031 震災の伝承のために現場に赴くことの大切さMRIC Vol.25031 震災の伝承のために現場に赴くことの大切さ

医療ガバナンス学会 (2025年2月19日 09:00)


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オレンジホームケアクリニック
医師 小坂真琴

2025年2月19日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

震災の伝承は難しい。当事者が引退し、経験が継続されないからだ。文字や映像の記録で勉強することはできるが、そのような記録が示すのは、大災害の一面に過ぎない。さらに、同じ「震災」と言ってもその内実は時代によって移り変わっていく。過去の震災から情報としてえた教訓を血の通ったものとするため、さらにはその教訓自体を更新していくために、本稿では現場にいく大切さについて議論したい。

私は1997年生まれだ。小学生1年か2年の頃、「ドッカンぐらぐら 阪神淡路大震災兵庫県下児童作文集」を学校で購入して読んだ覚えがある。2005年頃当時、その体験談のリアルさに恐怖を覚えながらも、「なぜ自分たちが生まれる前の遥か昔のことを今更読むのだろう」と幼心に思っていた。

中高で通った灘校は、阪神・淡路大震災で被災し、避難所・遺体安置所となった。しかし、私が通い始めた2010年には、中庭と校舎の間の微妙な段差、校舎2階から外側についた閉ざされたドア(元々あった連絡通路が落ちた跡)のほかに目にみえる傷跡はほぼなかった。中学1年の道徳の授業や柔道の授業で震災時の話を伺うことはあったが、「被災地」という認識は極めて薄かった。

私が生徒会に所属していた2014年度は阪神淡路大震災から20周年の節目の年だった。このタイミングを機に、最寄駅での写真展示や小学校での出張授業を行った他、発災当時から灘校にいた先生方にインタビューを行い始め、約6年の時を経て「あの日を知らない君たちへ 阪神淡路大震災と灘校 証言記録」として完成した。こうした動きが生まれた背景には、中学1年生の終わりに起きた、東日本大震災を通した学びがあったと思う。
灘校では、東日本大震災の次の年から生徒会を中心として「東北合宿」を企画し、長期休暇を利用して現地に勉強しに行く機会が設けられていた。それに参加した生徒は、現地の方々から「関心を持ち、語り伝えることが大切」だと教わって文化祭などで企画を行った。

生徒・学生が過去の震災から学び、語り継ぐことは非常に重要である。同時に、行政職員や災害医療に従事する医療者は、直接に現場に行くことが大事だと思う。それは、見聞きしてきた情報をリアルに体感し、被災地の状況を時代に沿ってアップデートすることが出来ることに加え、次の時代へ記録に残すために必要な信頼関係が出来るからだ。

医師は、論文執筆を通じて、後世に情報を伝達する。英語で書けば、世界中の医師が参照する。論文執筆のためには現地のデータが必要である。私の指導教官である坪倉正治教授は、東日本大震災当時東京大学の大学院生だったが、直後から福島に赴き、現在に至るまで14年間、福島県浜通りの病院での診療を継続している。診療を通じて、被災地と信頼関係を構築し、普通では入手できないような情報を集めることに成功している。
そして、これまでに200報以上の論文を発表している。これは新しい公衆衛生の在り方だ。坪倉医師の活動は、2021年3月に、米Science誌でも5ページに渡って特集された。被災地の経験を伝承するには、医師は長期間にわたり、被災地で活動しなければならない。これが、東日本大震災での教訓である。能登についても同様のことが言えるだろう。

私が所属する、福島県立医科大学の放射線健康管理学講座では、山本知佳さん、阿部暁樹さん、趙天辰さんを中心とするグループで、能登を訪問している。被災直後は支援のために福祉避難所へ、被災後しばらくしてからは調査と支援のために能登の老健施設へ繰り返し訪れている。調査のみではなく支援も同時に行うことで、信頼関係の構築に努めている。メンバーの中には、東日本大震災当時、生徒として福島で被災した方もいるが、医療関係者として被災地の現場に携わった人はいない。被災地の急性期の医療現場を見るのは今回の能登半島が初めてだ。
理学療法士の阿部暁樹さんは、相馬市で中学生として東日本大震災を経験している。しかし、今回能登を訪れて「災害後に徐々にうつの方が増えることは知っていた。しかし、実際に老健施設の調査に回る中で、リアルタイムにメンタルの不調を訴えて離職していく方がいる話を聞いてそのことを体感した」と語る。私自身も、東日本大震災の教訓として災害後に生活環境が変わることで食生活の変化等を通じて健康のリスクになることを机上で学んでいたが、今回の能登半島地震後の現地で、実際に仮設住宅に入ってから滅多に料理をしなくなった方や、様々な炊き出しをはしごして食事を賄っている方に出会い、その内実を理解することができた。

私は、3年目の医師である。現在、福井市にあるオレンジホームケアクリニックに出向している。能登半島地震発生後、オレンジグループは、福祉避難所「地域生活支援ウミュードソラ」の支援に入った。その後勝山市で二次福祉避難所を運営して「ウミュードソラ」からの避難者を受け入れた後に、その近所で「シェアハウス輪っか」を立ち上げ、運営した。
私自身は、1ヶ月に1度、輪島市にある訪問看護ステーション「リベルタ能登」(現:訪問看護ステーションみなぎ)の中村悦子さんを訪問し、訪問看護に同行してきた。2024年1月に福祉避難所に支援に入った際に出会った宮腰昇一さんは、元々1人暮らししていた家が全壊し、仮設住宅に入居したが、9月の豪雨で浸水した。その後再び福祉避難所で再会したが、先日仮設住宅に戻られた。11月に伺った際には解体中の自宅も一緒に見に行き、思い出を語ってくださった。定期的な訪問で徐々に関係が出来ることを実感した。

阪神淡路大震災からは30年、東日本大震災から15年が経過し、被災地で起きる課題にも変化が生じている。大きな点は、高齢化が顕著であることだ。能登半島地震では福祉避難所が活躍した。福祉避難所は、通常の避難所に入ることが困難な高齢者や要支援者を対象とした避難所だ。「地域生活支援ウミュードソラ」は、ギリギリでなんとか独居で暮らしていた認知症がある方や精神疾患を持つ方とその家族などを最大で40名程度受け入れていた。
日本全体で見ると、1995年から2024年で独居の高齢者は約300万人から670万人まで倍以上に増加している。近所の住民やヘルパーなどの力を借りながら独居で生活を成り立たせてきた高齢者の生活が、震災で突如として崩れるケースが激増していることは容易に想像がつく。こうした事例にどう対応するかが重要だ。

震災を伝承していくためには、リアルな現場を見て知識をアップデートし、現場で奮闘する方々と関係を構築することが重要だ。

 

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