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Vol.25032 日本の若者、必見、世界の5か所 とくにManzanar War Relocation Center について① 

医療ガバナンス学会 (2025年2月20日 09:00)


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元順天堂大学医学部血液内科
押味和夫

2025年2月20日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

日本の若者が世界の5か所を見るならどこを見るべきか。数人の友人に聴いて、彼らの意見を参考にしながら、80歳の私がこれまでの経験を基に、1位から5位までを選びました。
1.アウシュヴィッツ強制収容所
2.ベルリンの壁
3. Manzanar War Relocation Center
4.広島の原爆ドームと平和記念資料館
5.長崎原爆遺跡
他に見て欲しい場所としては、沖縄戦の戦争遺跡、真珠湾、知覧特攻平和会館、オホーツク海の流氷、北方領土の貝殻島が見える根室市納沙布岬の丘、などです。最後の2か所は、北海道に住む私としてはぜひお薦めしたい場所です。とくに北方領土が見える根室の納沙布岬は、全国の高校生に修学旅行でぜひ訪れて欲しい場所です。

● Manzanar War Relocation Centerとは

私がお薦めします1位から5位までのうち3位のManzanar War Relocation Centerを除いて皆さんよくご存じのはずですので、ここではManzanar War Relocation Centerについて書きます。

War Relocation Center あるいはJapanese American Internment と呼ばれる場所はアメリカ本土に10カ所ありますが、その実態は日系アメリカ人の強制収容所です。しかし彼らは強制収容所とは言いませんので、Manzanarの強制収容所もここでは彼らが言うようにManzanar War Relocation Centerと呼ぶことにします。次の2つの写真がそうです。なおManzanarはスペイン語で 「リンゴ園」 を意味します。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25032-1.pdf

Manzanar War Relocation Centerは2009年の元日に訪れました。Death Valleyにいたとき、西隣りのOwens Valleyに日系人の強制収容所があるのをガイドブックで見つけ、何の予備知識もなしに、地図を頼りにこの写真の場所に行き着いたのです。西に向かうと3,000m、4,000m級のSierra Nevada山脈が聳え、砂漠のような土地にバラック建ての建物が残っていました。
このバラック建ての強制収容所の内部は、後になって復元・公開されました。次の特集記事の写真の10枚目です。https://globe.asahi.com/article/13249096 これを見ますと狭いベッドが並んで置いてあるだけで、隣りのベッドとの間に仕切りはなく、プライバシーは全くありません。トイレにも仕切りはありませんでした。しかし入所者は工夫を重ねて、徐々にカーテンや壁板などで仕切りを作っていきました。

有刺鉄線で囲まれた収容所の周りには、8つのGuard Towerがあったそうです。しかし私が訪ねたときGuard Towerは撤去されていて見当たりませんでしたが、後になってこのように1塔だけが復元されました。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Manzanar_(2013)_05.JPG#/media/File:Manzanar_(2013)_05.JPG
Guard Towerと言いますが、一体これは誰を守っていたのでしょうか。収容所内の日系人でしょうか。いえ違います。銃口は日系人に向いてました。脱走しようとして射殺された日系人が数人います。
このManzanar War Relocation Centerには、多いときには1万人を超える日系人が収容されていました。なお日系人とは厳密には日本から外国に移住した日本人の子孫を指しますが、これらのWar Relocation Centerには一世の日本人もいましたので正確には日系人とは呼べませんが、ここではまとめて日系人と呼ばせていただきます。

● 日系アメリカ人の強制収容所について

日系アメリカ人の強制収容所は、下の地図に示しますように、米国本土では★印の10か所に作られました。もちろんManzanarはその1つで、赤枠で囲ってあります。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25032-2.pdf

この地図の中の太平洋岸沿いのピンク色の地域がExclusion areaです。Exclusion areaに住んでいた日系人は強制的に排除されて、10カ所の収容所のいずれかに送られました。当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、日本による真珠湾攻撃を考えると、日本軍がこの地域の日系人と合流して太平洋沿岸からアメリカ本土に侵攻する可能性が高いと判断して、1942年2月、大統領令9066号に署名し、強制的にこの地域の日系人を排除することを決定したのです。この地域から強制排除されたのは、アメリカ国籍を持たない日本人、アメリカ国籍を持つ一世移民、その子孫で16分の1以上の日本人の血液を持つ日系アメリカ人の、合計12万人でした。日系アメリカ人が3分の2、日本国籍者が3分の1を占めてました。
移住のために与えられた準備期間は1週間で、移動時に持ち運ぶのが許されたのは両手に持てるだけの荷物でした。多くの移住者は自宅や農場、事務所などの全ての財産を失うか、二束三文で売り払うことになりました。

1942年から1946年までの強制隔離の間、各地に収容された日系人はどのような生活を強いられたのでしょうか。すべての収容所は人里離れた内陸部にあり、その多くは砂漠地帯でした。住居はいずれも急ごしらえの木造バラック建てというお粗末なもので、その後もまともな家に建て替えられることはありませんでした。暖房も冷房もなく、砂塵が容赦なく部屋の中に吹き込みました。それでも彼らは、砂塵を防ぐために壁や床板の隙間を塞ぎ、日本庭園を造ったり野球やバスケットボールに興じたりして楽しんだようです。Manzanarには今でも日本庭園の池の跡が残っています。コロラド州Granadaでは、墓地、貯水池、井戸、タンクなどの保存運動が起きているそうです。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25032-3.pdf

②につづく

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