医療ガバナンス学会 (2025年4月17日 09:00)
谷本哲也
2025年4月17日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
さらに、医療現場では命や倫理、社会問題と向き合うことが多い。学会発表や医学論文として発表することは、ほとんどの医師が必ず通る道だ。診療以外の学術活動は、医師にとって創造的な息抜きの面もある。重責の多い医療現場での経験を整理し、自分自身と向き合う時間は、ストレス解消や自己成長につながることが少なくない。これをさらに押し進め、これら深いテーマを文学作品などの形で表現し、読者に新たな視点を提供し活躍する文才に恵まれた医師も一部存在する。
歴史的には、森鷗外やアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフなど多くの医師が執筆を通じて人々に影響を与えてきた。現代でも、フィクションにしろ、ノンフィクションにしろ、作家として活躍する医師は世界中で珍しくない。医師が執筆を行う背景には、人間をより深く理解し、その知見を社会に還元したいという願いがあるのかもしれない。本連載でも、そのような作家と二足の草鞋をはいて活躍した医師たちについて紹介していく予定だが、その嚆矢として、「どくとるマンボウ」として名を馳せた北杜夫(1927-2011)を取り上げる。
●どくとるマンボウ北杜夫:医師として、作家として
最近の若い人はあまり知らないかもしれないが、1980年代に中高生だった私の世代では北杜夫は人気作家の一人だったと思う。全共闘世代の小児科医だった父に勧められ、中学生のときに、彼の代表作『どくとるマンボウ航海記』や『楡家の人びと』、『怪盗ジバゴ』、『さびしい王様』などを面白く読んだ記憶がある。本稿を書くにあたり都内の大型書店を何軒が覗いてみると、新潮文庫に収められた棚差しを2025年の今でも1〜数冊は確認できた。また、多くの作品が電子書籍化され簡単に入手可能でもあり、2020年代の今でも一定の読者を獲得し続けているようだ。
北杜夫は、作家であると同時に、精神科医でもあった。その二重のアイデンティティが彼の人生と作品に深い影響を与えている。『どくとるマンボウ航海記』は、船医という職業をユーモラスに捉えたエッセイ作品として、日本文学の中でも独自の地位を占めている。北杜夫の医師としての視点は、どのように彼の作品に息づいているのか振り返ってみよう。
●医師一家に生まれて
北杜夫(本名は斎藤宗吉)は、医療に強い結びつきを持つ家族のもとで育った。山形県出身の祖父・斎藤紀一(1861-1928)は医師であり政治家、父・斎藤茂吉(1882-1953)は歌人で精神科医、11歳上の兄・斎藤茂太(1916-2006)も随筆家で精神科医という、やはり二足の草鞋で活躍した人物だった。このような家庭環境は北杜夫にとって、医師という職業を自然な選択肢としただけに留まらず、幼少期のうちから心の中に文学というもう一つ別の分野への情熱も自ずと吹き込んだことだろう。
斎藤家は、1907年に東京市赤坂区(当時、現在は港区青山)に精神病院「青山脳病院」を開設していた。敷地面積は約4,500坪、正面玄関に時計塔、前面に円柱を並べ、屋根には複数の尖塔がそびえていた。外壁や塀から浴場まで、すべてに赤煉瓦を使った「ローマ式建築」と呼ばれる尋常でない大病院で名所になっていたという。1924年に消失・移転するが、1927年に生まれた北杜夫は、家業の精神医学の現場を身近に感じながら成長したことと思われる。なお、娘の斎藤由香(1962-)もエッセイストとして活躍している。
幼少期は文学よりも昆虫採集に熱中し、麻布中学から第二次世界大戦の混乱の中、長野県の名門・旧制松本高校に進学する。この高校時代にトーマス・マン(1875-1955)の『トニオ・クレーゲル』や『魔の山』に出会ったことで文学への道が開かれた。また、先輩に『背教者ユリアヌス』で有名なフランス文学者・辻邦夫(1925-1999)がおり、北杜夫と終生の親交を持つ出会いにも恵まれた。しかし、父の強い意向により東北大学医学部へ進学し、1953年に卒業後、慶応義塾大学病院の無給インターンとして東京に戻り、その後、精神科医としての道を歩み始める。
●診療活動と文学への邁進:『どくとるマンボウ航海記』
精神科医として診療をしながらも、北杜夫は文筆活動を続けていた。医師としてのキャリアは、他の作家と差別化する文学活動の土台となったことは間違いない。特に、精神医学という専門分野は、彼に人間の心の複雑さや弱さ、そして滑稽さを観察する機会を与えた。この経験が彼の作品に大きな影響を与え、ユーモラスでありながらも人間の本質を捉えた描写につながっている。
特に、1958年の秋から翌1959年の春にかけて、水産庁の漁業調査船「照洋丸」の船医として乗船した経験は、彼の文学人生において重要な転機となった。この航海では、患者のほとんどいない船医としての日々を過ごし、そこで出会った個性豊かな船員たちや寄港地でのエピソードが丹念に、かつユーモラスに記録された。この体験がエッセイ『どくとるマンボウ航海記』として結実し、戦後の日本文学界にユーモアの新風を吹き込みベストセラーとなる。
第二次世界大戦後の空気の中、当時の日本文学は戦争体験や社会問題をテーマにした重厚な作品が主流となっていた。北杜夫はその流れに逆らい、日常の喜怒哀楽をユーモラスに描くという新境地を切り開き、高度成長期の日本文学に新たな「軽妙な文学」の潮流を生み出した。同時に、彼は独特の「自虐的ユーモア」を文学として昇華させた。読者は彼の作品を読むことで、自分の日常の中にも潜む滑稽さや愛すべき瞬間に気づくことができるのだ。
1960年に刊行された『どくとるマンボウ航海記』は、貨物船の船医という特殊な役割を通して、医師の仕事を滑稽かつ愛すべきものとして描いた作品だ。医師としての真面目な役割もどうにかこなしながら、航海中の体験を博識ぶりと自虐を織り交ぜながら巧みに描き好評を博した。
この船は、マグロ漁場調査に加え、西ヨーロッパおよび中近東におけるマグロを中心とした水産物の販路調査を目的とし、シンガポール、スエズ、リスボン、ハンブルク、ロッテルダム、アントワープ、ル・アーヴル、ジェノヴァ、アレキサンドリア、コロンボと寄港するものだった。1964年4月の海外渡航の自由化が始まる前であり、海外旅行が現代ほど一般的でなかった時代、旅行記や観光案内としての物珍しさとしても価値が高かった。この作品では、医師としての北杜夫の目が、船内の人々の生態や異文化交流をユーモラスに描き出している。
寄港地でのエピソードでは異文化に驚き、時に不器用に現地の人々と交流する様子は、医師の立場を離れ、ただ一人の人間としての側面を際立たせている。それと同時に、本作を特徴づけるのは、北杜夫が「医師であり作家である」という二重のアイデンティティを持つ点である。医師としての科学的視点は作品にリアリティと知的な深みを与え、作家としてのユーモアと詩的表現は旅の体験を文学へと昇華させる。私も40年近くぶりに読み直してみたが、現代の目から見ても当時の世相を知る上で面白く、書かれてから60年以上経った今でも読者を獲得しているのは納得の名作エッセイだ。
北杜夫が自らを「どくとるマンボウ」と名乗ったのは、彼の人柄を端的に表している。マンボウという魚は、どこか間抜けで大らかな存在感を持ち、どこか憎めない。その特徴は北杜夫自身の姿に重なる。精神科医としてのキャリアを持ちながらも、真面目すぎる世の中に少し距離を置き、自分をも笑い飛ばす彼のスタンスが、マンボウというキャラクターに込められているのだろう。貨物船の船医として乗船した北杜夫が、概ねヒマだが、まれに発生する慣れない精神科以外の疾患患者の診療にドタバタ奮闘する姿が描かれる。
頼りない船医という立場自体が滑稽なのに、それを自虐的に語る様子は、医師としての自己否定にも似たユーモアを生み出し、文学的アイロニーを強調する。この「マジメな滑稽さ」が作品全体を支配するユーモアの核となっている。
●ドイツ文学の巨匠トーマス・マンの影響
『どくとるマンボウ航海記』は、一見すると軽妙洒脱な旅行記に思えるが、その奥には深い文学的背景と、彼自身の複雑なアイデンティティが息づいている。その根底には、ドイツ文学の巨匠トーマス・マンの影響が色濃く漂っている。例えば、本作が持つ「日常の延長としての滑稽さ」は、トーマス・マンの代表作『ブッデンブローク家の人々』と共鳴する部分がある。マンが、ブルジョワ一家の興隆と衰退を通じて社会の構造や人間の内面的葛藤を描いたように、北杜夫もまた、貨物船という閉鎖的な空間を舞台に、人間社会の縮図を生き生きと描き出している。実際、ドイツ寄港時にマンゆかりの都市リューベックを訪問した逸話も取り上げられている。
船員たちや寄港地で出会う現地の人たちは皆、個性的で滑稽だが、どこか愛すべき存在として描かれ、一人ひとりの描写には人間的な温かみが宿る。この細やかな人物造形は、マンが登場人物の内面を丹念に掘り下げた筆致と重なり合う。また、寄港地でのエピソードでは、各地の文化を軽妙に描きつつ、自らの視点が常に「異邦人」としてのものであることを意識している。これは、マンの『魔の山』に登場する主人公が異質な環境(サナトリウム)に身を置きながら、次第に内面的変容を遂げる構造と通じるものがある。北杜夫にとって、寄港地での経験は単なる異文化との邂逅ではなく、自己探求の旅でもあったのだ。
こうした北杜夫の文学的特徴は、もう一つの代表作『楡家の人々』にも顕著に表れている。本作は、雑誌『新潮』に1962年から1964年にかけて連載され、書き下ろしを加えて1964年に新潮社から刊行された。『楡家の人々』は、北杜夫自身の家族をモデルにした壮大な家族史であり、マンの『ブッデンブローク家の人々』からの影響が色濃く表れている。本作では、大正から昭和戦後にかけての精神科医一家の盛衰が描かれる。
主人公の楡基一郎は、東京青山に精神病院「帝国脳病院」を開院し、華やかな生活を送るが、議員落選や震災による病院焼失を経て衰退する。その後、病院の復興を図るも、戦争の影響で再び没落の道をたどる。これは、マンが『ブッデンブローク家の人々』で一家の繁栄と衰退を通して描いた社会変遷と通じるものがある。
また、『楡家の人々』は、北杜夫が父である斎藤茂吉や祖父の斎藤紀一をモデルに構想したことが知られている。彼は長年、生家の変遷を描くことを課題としており、親族からの聞き取りや茂吉の日記、大正年間の新聞などを基に綿密な取材を行い、創作を加えながら作品を仕上げた。本作の登場人物には、実在のモデルを反映しつつも創作的要素が含まれている。例えば、主人公の基一郎は紀一を投影した存在であり、彼の死後の家族の葛藤や病院経営の変遷を通じて、日本の医学界と社会の変遷を描いている。
余談だが、岩波文庫でマンの『魔の山』を共訳したドイツ文学者の望月市恵(1901-1991)は、旧制松本高校教授時代、酔っ払った北杜夫に頭を殴られたが、それをきっかけに仲良くなり大きな影響を与えたという。村上春樹(1949-)の『ノルウェイの森』で主人公のワタナベ君が一心不乱に読むのは『魔の山』だし、宮崎駿(1941-)の『風立ちぬ』でも『魔の山』は重要なモチーフの一つとなっている。私の母校の九州大学では、教養部時代、ドイツ語学科の根本道也教授や福元圭太教授にドイツ研修旅行などでご指導頂いたが、マンは同学科の重要な文学研究のテーマとなっていた。このように、マンが日本文化に広範な影響を与えてきたのは非常に興味深い。
何はともあれ、『どくとるマンボウ航海記』と『楡家の人々』の双方において、北杜夫はトーマス・マンの影響を受けながらも、日本独自の文脈の中で自らの文学を築き上げた。ユーモアの奥に潜む洞察、医学と文学の交差点に立つ視点、それらが彼の作品の魅力を形成している。
●双極性障害を抱えての作家活動
北杜夫は、もともと精神科医でありながら、自らも双極性障害(20世紀は「躁うつ病」の名称だった)に苦しんだ。彼は躁状態のときには異常なほど活発に執筆し、うつ状態のときには全く筆が進まないという極端な気分の波を繰り返していた。躁状態では、次々とアイデアが浮かび、膨大な文章を生み出す一方で、金銭的な浪費や突飛な行動も見られた。しかし、うつ状態に入ると、一転して無気力になり、深刻な抑うつ感に苛まれた。躁状態が顕著となる双極性障害Ⅰ型だったと考えられている。作家活動はこの躁状態に支えられていた側面もあるが、生活全般においては大きな負担となり、次第に彼を追い詰めていった。
1969年以降に躁うつ病を発症し、その後の人生においてこの病気が大きな影響を与えた。しかし、彼は自身の躁うつ病を自虐ネタとして扱い、社会にその存在を知らしめた。自身の躁うつ病を隠さず、むしろユーモラスに描くことで、病気に対する社会のイメージを変えることに努めたのだ。彼は、躁状態の際の奇行やうつ状態の苦しみを率直に語り、その経験を作品に反映させた。
作家としての活動を続ける中で、躁うつ病の症状が創作に与える影響についても触れている。彼は躁状態の際に、株取引や独立国家の設立を宣言するなど、非常に活発な行動を取る一方で、うつ状態に陥ると創作活動が困難になることもあった。彼のエッセイには、こうした精神的な波の中での思索や、家族との関係が描かれている。2009年に発表された、娘の斎藤由香との対談集『パパは楽しい躁うつ病』でも、彼の病気が家族に与えた影響や、日常生活の中でのユーモアを交えたエピソードが語られている。
晩年の北杜夫は、病気を抱えながらも、家族との楽しい思い出を大切にし、ユーモアを持って日々を過ごす姿勢を示していた。作家活動は、躁うつ病という困難な状況の中で展開されたものの、彼はその経験を通じて得た洞察やユーモアを作品に反映させた。彼のエッセイや対談集は、病気を抱えることの苦しみだけでなく、家族との絆や日常の中の喜びをも描き出しており、多くの読者に感動を与えている。多数の小説やエッセイを発表したキャリアだったが、2011年10月24日で入院先の病院で逝去した(享年84歳)。
●マンボウと文学の航海
『どくとるマンボウ航海記』は、北杜夫という一人の人間が、自身の滑稽さを受け入れ、それを笑いに変え、さらにそれを記録文学として残した奇跡の作品だ。その背後には、トーマス・マンという偉大な作家から受け継いだ真剣な文学観と、医師としての現実的な視点が共存している。
マンボウは軽やかに海を泳ぐが、その海の底には深い闇が広がっている。北杜夫もまた、軽やかにユーモアを振りまきながら、読者に人間の心の深層をそっと見せてくれる作家だった。そして、それこそが彼の文学が今なお愛され続ける理由なのだ。マンボウのように漂う北杜夫の文学は、今日も多くの読者の心を海へと誘い続けている。
北杜夫にとって医師であることは、単なる職業ではなく、彼の文学の核心にあるものだった。『どくとるマンボウ航海記』は、医師という立場をユーモアというレンズで描き出した作品であり、同時に人間の滑稽さや弱さ、そして強さと愛情を持って映し出した作品だ。北杜夫の作品は、医療と文学の架け橋として、読者に笑いと洞察、そして生きることの喜びを与え続けている。医師としての使命感と作家としての表現力が結びついた彼の文学は、双極性障害とともに生きた作家の記録として、今後も多くの人々に読まれ続けるだろう。
松岡正剛の千夜千冊 パパは楽しい躁うつ病
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