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Vol.25079 北海道の魅力、道東を中心に-その1

医療ガバナンス学会 (2025年4月30日 09:00)


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この文章は長文ですので2回に分けて配信いたしますが、こちらから全文をお読みいたkだめます。
http://expres.umin.jp/mric/mric_25079-80.pdf

元・順天堂大学医学部血液内科教授
押味和夫

2025年4月30日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●はじめに

スギ花粉症がない道東に住んで13年になります。その前はアメリカのボストン郊外に住んでました。3年半いました。ボストンでは大西洋や近くの川、湖での釣りにはまってしまい(写真)、帰国したら東京には住めなくなっていました。自然が豊かで人口が少なく魚がいそうな所に住みたいと、北海道でも東の方、道東の鶴居村に住むことにしました。鶴居村は鶴(タンチョウ)がいる村です。釧路や鶴居の病院に非常勤で勤めてましたが、昨年の7月になって患者さんの名前も薬の名前も覚えられないことに気づき、つまり呆けてしまったようで、80歳になったのを機に医者を辞めました。
時間に余裕が出来ましたので、この13年で経験した北海道、とくに道東の自然を中心に、皆さんにご紹介したいと思います。北海道はこれからが春ですので、まず春や夏の魅力をお伝えします。道東の冬は世界一美しいと信じてますが、これは最後にご紹介します。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25079-1.pdf

釧路市から東へ行った太平洋沿岸の浜中町の霧多布半島にはラッコがいます。11匹いるとの話です。霧多布半島に入って1039号線を、霧多布岬展望台の方向には行かずに右方向へ進みますと、終点が湯沸岬(とうぶつみさき)(別名、霧多布岬)の駐車場です。
ここから湯沸岬の突端の灯台に向かって歩いてください。歩き始めてすぐ左側の崖下の海にラッコがいました。次の写真の赤い丸印の付近にラッコが浮いてました。私は目が悪いためよく見えませんでしたが、隣りで海を覗いていた人が 「おった、おった」 と叫んだので、あわてて双眼鏡で確認して、「sea otter, sea otter」 と応えました。Sea otter つまりラッコのことを言ったのですが・・・。デジカメではピントがぼけてうまく撮れませんでしたが、写真をご覧ください。
1週後にまた行きましたら、5~6匹のラッコを見つけました。同じ場所、近い場所だけでなく、岬の反対側(南側)にもいました。波がなく穏やで、岸に近い海を好むようです。浅い所だと海底の餌(貝、ウニ、エビなど)が容易に捕れるためでしょう。

岬の先端に立つ湯沸岬灯台は、日本ロマンチスト協会が実施した「恋する灯台プロジェクト」で、北海道第1号の「恋する灯台」に選ばれました。せっかく来たからには、恋する灯台もご覧になってください。

この霧多布半島の根元にある霧多布湿原や原生花園あやめケ原では、初夏になりますとヒオウギアヤメやワタスゲ、エゾカンゾウなどが湿原一面に咲きます。ヒオウギアヤメとエゾカンゾウの群落の写真をご覧ください。
霧多布半島と原生花園あやめケ原の間にある涙岬は、太平洋の荒波に向かって泣く乙女の横顔に見えますので、「乙女の涙」とも呼ばれています(写真)。ニシン漁が盛んだった昔、嵐の海にのまれた厚岸の若者に恋する乙女の泣く姿が岩になったと伝えられ、この名が付けられました。 嵐の夜には、乙女のすすり泣きが聞こえてくるとか。左に見える立岩は、愛する彼女の悲しい叫びに向かって、一歩一歩、岸にたどり着こうとする若者の姿を思わせます(写真)。

次は細岡展望台です。前の地図だと分かりにくいので、次の地図をご覧ください。釧路市から摩周国道(391号線)を標茶町(しべちゃちょう)方面に北上して、達古武(たっこぶ)湖に着く前に左折します。しばらく行って踏切を渡りますと釧路川が見えてきて、すぐ右側に細岡カヌーポートがあります。カヌーの乗り場です。
線路に沿ってさらに行きますと徐々に上り坂になり、もう一度踏切を渡りますと、やがて細岡ビジターズラウンジがあります。この右横をさらに上りますと、右側に細岡展望台へ入る歩道があります。ここを歩くとすぐ正面が細岡展望台です。ここからは広大な釧路湿原が一望できますし、釧路湿原のなかを蛇行しながら流れている釧路川が見えます(写真)。晴れた日には、遠くに雌阿寒岳や雄阿寒岳が見えます。展望台は釧路湿原の東側に位置してますので、夕日を望むこともできます。ここもお薦めの場所です。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25079-2.pdf

●六花の森、日高山脈、坂本直行さんの絵

北海道の中央部から南へ2,000m級の山々が連なる日高山脈。この山脈の東側、帯広市の南側に中札内村があり、ここに六花亭が経営する「六花の森」(次の地図の赤い矢印)があります。十勝六花をはじめ四季折々の山野草が咲く広大な庭園には、クロアチアの古民家を移築したギャラリーが点在してます。
その近くには、同じ六花亭が経営する「六花亭アートヴィレッジ中札内美術村」があります。六花の森では5月に入りますとオオバナノエンレイソウの群落に花が咲き(写真)、この世のものとは思えない美しさです。六花亭アートヴィレッジ中札内美術村には、広いカシワ(柏)の林のなかに、日本を代表する画家の相原求一朗、小泉淳作、真野正美、安西水丸らの美術館が点在しています。六花の森を訪ねるときも美術村を訪ねるときも、開館・休館の日程にご注意ください。

農民画家 (あるいは山岳画家とも呼ばれる) 坂本直行(ナオユキ)氏(1906~82)は、地元では親しみを込めてチョッコウさんと呼ばれています。チョッコウさんが描いた絵は、六花の森のなかの坂本直行記念館、直行デッサン館、直行絶筆館に展示してあります。日高山脈を描いた力強い絵は、多くの人を魅了し続けています(写真)。
中札内村から東へ向かい大樹町に入る手前の左側に丸山展望台があります。チョッコウさんは、よくここから更別原野の向こうに見える日高山脈を描いていたそうです。広尾町に向かって235号線を南に走り、大樹町内を流れる歴舟川の橋を渡ってすぐの左上に案内板があり、ここに『山岳画家坂本直行翁入植の地、「555m先右折」』と書いてありますので(写真)、ここを左折して歴舟川沿いに行きますと336号線にぶつかります。

付近にはまた同じような案内板があり、チョッコウさんの入植の地(地図の右下と写真)まで案内してくれます。この入植の地は、チョッコウさんが開拓農民になることを決意して、昭和11年に広尾の原野に入植した地です。ここから見た日高山脈の写真をご覧ください。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25079-3.pdf

●カヌーで川を下ろう、湖を漕ごう

鶴居村に移住してすぐに、釧路の業者にカヌーを造ってもらいました。アメリカで漕いでいたカヌーが Lincoln号でしたので、このカヌーは Lincoln II と命名しました。写真をご覧ください。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25079-4.pdf

よく行くのは塘路湖です。ここでカヌーを下ろして湖を周るか、釧路川に通じるアレキナイ川を下り釧路川へ入って下流の細岡カヌーポートまで行きます。アレキナイ川でカヌーから釣りをして、塘路湖へ引き返すこともあります。フナやウグイが釣れます。釧路川を下るときに、途中に釧網本線の鉄道が釧路川に近づく場所があり、ここで「釧路湿原ノロッコ号」と会えるように時間を見計らって下ります。釧路湿原ノロッコ号はここで止まって、乗客は釧路川を見下ろします(写真)。たまには細岡カヌーポートから岩保木(いわぼっき)水門まで下ることもあります。ここは釧路川と新釧路川の分岐点です。

釧路川や塘路湖を案内してくれるカヌー屋さんは多いです。英語で案内してくれる会社もあります。ツアー会社によっては、冬でも体験できるツアーを提供してます。コースは様々です。釧路川が屈斜路湖から流れ出る眺湖橋からもガイドします。このコースは川幅が狭く両岸から木が倒れて流れをふさいだり、急な曲がりになっていたりするので、コースを熟知してないとチンします。浅瀬を下ってカヌーの底に穴をあけたことがありました。
もちろん十勝川などでもカヌーの宣伝をしてます。でも釧路川以外のことは知りません、スミマセン。

●トーチカ
トーチカとはロシア語で「点・地点」の意味で、軍事的に重要な地点を守るためコンクリートなどを固めて造った小型の防衛用陣地のことです。太平洋沿岸の大樹・広尾・浦幌などにあるトーチカは、太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)に、米軍の本土上陸に備えて造られたとのことです。円形や方形などの単純な外形で、全長が数メートルから十数メートル程度あり、銃眼となる開口部を除いて壁でよく保護された防御施設です。壁には視察用と銃眼を兼ねた必要最小限の穴が開けられています。
構造の大部分が地面より下になっているトーチカもあります。遺構として、北海道の根室市から苫小牧市にかけての太平洋岸に、複数のトーチカ群が残されています。釧路市内にもあります。硫黄島にもあるそうです。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25079-5.pdf

●北海道に残る会津藩士の墓
私は伊達藩出身ですが、若いころ石光真人編著の「ある明治人の記録、会津人柴五郎の遺書」を読んで、心は会津藩士になってしまいました。
江戸時代末期の蝦夷地は、東北の諸藩により警護されていました。会津藩は樺太、利尻、宗谷、松前を警護していました。なぜこのような警護が必要だったのでしょうか。約200年前の江戸時代、鎖国下にあった日本に対しロシア側から通商を求める動きが強くなってきました。日本はロシアの要求を拒否したため、ロシアは武力行使の手段に出ました。その標的となったのがロシアに近い樺太や千島でした。こうした動きに対し、幕府は会津藩をはじめとする東北諸藩に、蝦夷地防備の出兵を命じたのです。会津藩からは、文化4年(1807年)から文化6年(1809年)にかけて、総勢 1,558 名の藩士が出陣しました。

利尻島は文化4年(1807年)にロシアの襲撃に遭い、商船が焼き払われたり島民が捕われたりしました。ペリー来航の50年前、いち早く外国の洗礼を受けた北辺における一連の事件で、まさに「北の黒船事件」とも呼ばれる出来事でした。利尻島には250名の会津藩士が派遣され警護に当たりました。山を越え、海を越え、出陣から4ヶ月の道のりを経てようやく島に到着したことが、当時の記録に残っているそうです。会津藩士が警護についたのは、ロシア人の来襲が終わった後でした。

文化5年、樺太警備を終えた会津藩士を乗せた7隻の船のうちの1隻、観勢丸(かんぜいまる)が帰路で暴風雨に遭い、利尻島のリヤコタン(現在の沓形~種富町の海岸域)に漂着し大破沈没するという事故が起こりました。利尻島には、この事故で命を落とした者と島で病に臥した者8名の藩士を弔った墓碑が3ヵ所に安置されています(写真)。また稚内の宗谷護国寺と焼尻島にもそれぞれ2基ずつ墓碑が残されています。派遣された藩士は水腫病にかかると死ぬことが多かったとのことで、これを問題視した幕府は、当時水腫病に効果があるとされたコーヒーを出兵隊に送ったといいます。
水種病とは? 水種病にコーヒーが効く? 話はそれますが、このことについて最近出版された弘前医療福祉大短大の方の興味深い論文がありますので、その要点を紹介させていただきます。

江戸時代,日本に初めて伝わったコーヒーは,その当時,薬としても飲用されており,津軽をはじめとする東北の藩士が北方警備のため蝦夷地に派遣された際,病による陣没者の減少に大きく貢献したといわれている.蝦夷地での藩士たちを脅かしたのは寒さと浮腫病(水腫病)であった.この病は「腫レ出シ後心ヲ衝キ落命ニ至ル」といわれ,罹患した者の多くは死亡したという.現代でいえば脚気,または壊血病ではないかとされている.1803年に蘭学医・廣川獬が『蘭療法』の中でコーヒーには浮腫病に対する薬効があると説いているが,コーヒー抽出液には脚気,壊血病に有効な成分は含まれていない.

一方,蝦夷地での藩士たちの生活は,厳しい寒さと多湿な環境に対して簡便すぎる住居と保温性の低い衣服や寝具,また偏った食生活のため栄養状態も悪く,藩士たちの多くが凍傷,低体温症を患っていたと推察される.これらの疾病は浮腫・むくみ・不整脈・心室細動といった症状を呈し,悪化すると致命率も高いなど浮腫病の症状と一致する.以上のことから,ここでいうコーヒーの薬効とは,コーヒーに含まれるカリウムの利尿作用,またナイアシンの血流改善効果などを指すと考えられ,浮腫病の予防,症状緩和という点において藩士たちの健康維持に有効であったと結論づけられた.

話は戻ります。野付半島の入り口近くにも、会津藩士の墓があります。野付半島に入るとき、私は必ずこの墓にお参りします。文久3年(1863年)に亡くなった会津藩士・稲村兼久とその孫、そして佐藤某の3名の墓とされています(写真)。ではなぜ野付半島に会津藩士の墓があるのでしょうか。

ナポレオン戦争のためロシアはヨーロッパに力点を置くようになり、ロシア船の蝦夷地への来航が減ったことで、文政4年(1821年)に幕府は蝦夷地を松前藩の管理に戻しました。しかしペリー来航後、幕府は安政2年(1855年)に蝦夷地を再び幕領とし、安政6年(1859年)には蝦夷地を分割して諸藩に与える分領政策へ方針を転換しました。
東北の諸藩は蝦夷地の分与を受け、会津藩は標津、斜里、紋別を藩領とし、幕府箱館奉行が支配していた網走領地を含む地域の警護に当たりました。知床半島、野付半島も含まれてます。万延元年(1860年)の蝦夷地警備の地図をご覧ください。会津藩は中老田中玄純を蝦夷地若年寄に任じ、標津のホニコイに陣屋を建設しました。文久3年(1863年)の秋には、なんとか6棟の陣屋が整ったとのことです。このホニコイ陣屋では、代官以下200余名の会津藩士が北方警備を担当しました。野付半島にある会津藩士の墓も、このとき亡くなった藩士の墓と思います。
http://expres.umin.jp/mric/mric_25079-6.pdf

 

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