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Vol.109 老健疎開作戦(第4報)-被災から疎開までの経緯

医療ガバナンス学会 (2011年4月7日 14:00)


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介護老人保健施設 小名浜ときわ苑
施設長 鯨岡栄一郎
2011年4月7日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


※ 日時と事象に若干記憶違いの可能性があることをご了承下さい。

○ 3月11日(金)
14時50分ごろ、被災。
全入所者を屋外へ避難させた。約40分かかった。その後、雪が降ってきて外にもいられない状況になり、再び屋内へ。3階建てユニット棟が損壊したため、その入所者約50名を平屋棟に移動させ、一体的に処遇することにした。地震による入所者・スタッフの死傷は無かった。
当初、水と食糧の備蓄は2日分程度であった。外注している給食業者の物流も途絶えたため、入所者のご家族に寄付をお願いすることにした。その後、地元ラジオ局にも呼びかけた結果、地域から多くの食糧や水が集まってきた。最終的には2ないし3週間分の備蓄を持つに至った。

○ 3月12日(土)
以後毎日、リーダーミーティングを開催し、刻々と変化する情報の共有に努めた。
近所の川からのトイレ用の水汲みと、まだ水が出る地域からの飲み水確保が業務の一環となった。いわき市から、給水車は施設まで行けないとの返答あり。
食事が1日2食(おにぎり+α)と水分少々になった。食物の残渣破棄を極力減らすよう、量の調整を行った。
入所者の衰弱、廃用、脱水による熱発・濃縮尿が見られるようになってきた。これ以後疎開まで最低限の生活確保がやっとで、リハビリはごく一部分しか実施できなかった。

○ 3月13日(日)
楢葉ときわ苑の入所者10名が当苑へ避難してきた。他の入所者は近隣の小学校と常磐病院に避難した。
まず、現体制でケアを継続させることと、いつ避難勧告が出ても対応しやすいように入所者を可能な限り減らすことを考えた。このため、ご家族に一時退所をお願いした。結果、17名が自宅に退所あるいは外泊した。退所者のうち数名は避難に際し再入所された。

○ 3月14日(月)
このころから、「避難勧告が出された際」にどうするかを本格的に検討し始めた。行き先と移動手段を前もって確保しておかなければならない。いざ「その 時」になってから準備するようでは遅い。条件としては、原発から充分に離れていること。かつ、当苑の車両(ガソリンは満タン)で行ける範囲。もし可能なら 利用者の一体的処遇が出来るような環境、と考えた。バスをチャーターすることも考えた。ちなみに、市内ほか10の老健施設に状況を確認したところ、移動を 考えている所は無かった。
まずは個人レベルのツテをたどった。白河市の老健施設では数名程度なら受け入れ可。新潟の医療法人グループにも問い合わせたが、行政との関係で難しいことが分かった。
その後、新潟、埼玉、栃木、茨城の県老健協と各地域の行政、福島県高齢福祉課、いわき市長寿介護課、福島県老健協と連携し、道を探っていった。
県からは、県中の施設は避難受け入れで飽和状態。また優先順位として、原発に近い施設から避難先の割り振りを行っている、との返答あり。いわき市はまだ避難勧告が出ていないので何とも…との見解であった。

○ 3月15日(火)
家族と避難する職員が増え始め、現場ケアの体制維持が厳しくなってきた。リハビリ部・相談部も現場ケアに加わった。
スタッフの自家用車のガソリンが無くなり始め、泊り込むスタッフや、自転車・徒歩で通勤するスタッフが増えてきた。その後、原発の状況が悪化するにつれ、自転車・徒歩による通勤も出来なくなっていった。
友人を通じて、埼玉県秩父市にある旅館の体育館と、観光バスを仮押えすることができた。これは最終手段として取っておくことにした。

○ 3月16日(水)
スタッフが精神的・肉体的に極限の状態になってきた。特に原発悪化のニュースでの絶望感、不安感はひどかった。ちなみに、11日の被災以降、鴨川市に来るまで、ほぼ全員が風呂に入れず、洗濯もできない状態。
本部と逐一、方針や方向性のすり合わせを行った。移動はあせらず、状況をよく見極めるように。行き先にて行政や医療機関からバックアップを受けられること、また自主的な避難になるため、そのための前提条件をつくることが重要、との指示あり。

○ 3月17日(木)
福島県高齢福祉課より、もし避難先が決まっているなら自主的に避難しても構わない、との連絡が入った。これがオフィシャルな指示なのか、ということで文書を要望したが、これは結局未着。
いわき市から40歳以下の職員(市民)向けに「ヨウ化カリウム丸」が配布された。

○ 3月18日(金)
この間、特に「茨城県老健協」が積極的に動いてくださり、県中・県南の老健施設から計80名程度の受け入れが可能ということで、施設のリストをいただい ていた。また、中継地点(茨城空港?)を設定していただき、利用者の受け渡しをそこで行うことにした。分散でも正規入所させてしまえば、職員を派遣する必 要がなくなる。この案で本部からの承諾も得、次の日からは家族に同意をもらい、いっせいに分割して入所させる計画でいた。
避難していた楢葉ときわ苑の利用者約70名が平田村の病院に移動した。
明け方、当苑の入所者1名が急性心不全にて死亡。他にも2名ほど、要注意者がいた。

○ 3月19日(土)
7時30分ごろ(?)、本部より連絡が入り、今回の「鴨川モデル」の件を聞く。二つ返事でこの計画に乗ることにした。その後すぐに石田鴨川市副市長からも連絡を頂いた。
13時30分、常盤理事長、佐藤事務局長、私でいわき市災害対策本部に出向いた。我々の面前で、鈴木いわき市副市長が石田鴨川市副市長へ電話にて正式に協力を依頼した。
その後、福島県災害対策本部から、移動の前日までに利用者・職員全員が放射能のスクリーニングを受けておくように、との指示が入る。ただし、施設への出 張計測は行っておらず、保健所まで出向かなければならない、とのこと。時間・労力の観点から、20日の1日でその全てを行うことはほぼ不可能と判断。そこ で、繋がりのある県会議員にお願いし、市長経由で指令を出してもらうことに。即返事が来て、20日の出張計測が決定した。
同時に、施設内で鴨川行きを発表し、移動に同行できる職員を募集。当初は家族との関係もあり、20名ほどしか募れなかった。
また、移動する旨を入所者の全家族に連絡し、承諾を得た。電話の不通、すでに避難している方もいらして、確認には時間を要した。

○ 3月20日(日)
8時30分から10時30分まで、全職員・入所者のスクリーニングを実施。問題なし。
移動で持っていく物品の準備。
今のケアを継続させるにはもっと人数が必要であると職員を説得。再度募集をかけ、同行者50名、現地合流者10名にまで増やすことができた。
体調不良者2名を本部いわき泌尿器科に入院させた。

○ 3月21日(月)
8時30分、スタッフ全員による決起集会を開催した。
9時30分、観光バスが到着。利用者を乗せ始めたが、1台に乗せ終えるのに40分以上はかかった。また、4号車に乗せ終わるまで1、2、3号車が出発せず待っており、その間ですでに疲労し始めていた。
11時前(?)、出発。
また、常磐道は地震の影響で、20箇所以上(?)で道路のつなぎ目が大きく隆起しており、それによる振動が車酔いを誘発する要因となった。長時間の座位姿勢の保持が困難な利用者も多かった。
16時ごろ(?)、3号車が亀田総合病院の救急に到着。
16時30分過ぎ(?)、かんぽの宿鴨川に到着。
小名浜ときわ苑残留チーム(約20名)へ業務指示。電話の対応(土日は1名ないし2名が出勤)。施設の清掃。倉庫の整理。不要物の破棄。地域貢献として、周辺地域のボランティアを行う。残留メンバー全員がいわき市社協に登録し、早速近隣施設に派遣が始まっている。

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