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Vol.25088 アメリカで見た日本人の足跡 ①

医療ガバナンス学会 (2025年5月15日 08:00)


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この原稿は長文ですので4回に分けて配信いたしますが、こちらの方で全編お読みいただけます。
http://expres.umin.jp/mric/mric-25088-3.pdf

押味和夫
元・順天堂大学医学部血液内科教授

2025年5月15日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●はじめに

アメリカに住んでいたのは、1972年からの2年間と、2008年からの3年半の計5年半です。帰国後すでに14年近く経ってますので、当時アメリカで見た日本人の足跡は若い人には時代遅れに映るかもしれませんが、お楽しみいただければ幸いです。

育ったのは昔なら伊達藩に属する福島県伊達郡梁川町ですが、若いころ石光真人編著の「ある明治人の記録、会津人柴五郎の遺書」を読んで、心はすっかり会津藩士になってしまいました。従いまして、どうしても目は会津に向いてしまいます。

米国やカナダに19世紀後半から移住した日本人は、おもに漁業、農業、林業、鉱業に就いていました。彼らの足跡は、重労働、逆境、心労、望郷、不屈、希望、勝利などで表わされます。改めてその歴史を見ますと、1866年に海外渡航禁止令(鎖国令)が解除され、1868年つまり明治元年にはハワイへの移住が始まっています。米国本土へはその翌年に行ってます。驚いたことに、最初の米国本土への移住は戊辰戦争に敗れた会津藩士とその家族でした。会津藩士らが向かったのは、下北半島だけではなかったのです。

●戊辰戦争に敗れた会津藩士とその家族らが、カリフォルニア州ゴールドヒルに移住。

1869年、正確な人数ははっきりしませんが22~30人が会津の殿様・松平容保(かたもり)公お抱えの武器商人、プロイセン人のヘンリー・シュネルに連れられて、アメリカ本土へ渡りました。茶と絹の生産を始める計画で、日本から大量の茶の木の種と桑の木を持ち込みました。現地の記者の目に写った藩士らの印象は、大変教養があり洗練された紳士たちで、その家族も高貴とのことでした。

サンフランシスコの北東140kmにサクラメント市がありますが、入植地はサクラメントから約50km北東にある ゴールドヒルGold Hillです。この項目の最後にある地図をご覧ください。入植の前まではゴールドラッシュで賑わっていたので、ゴールドヒルの名がつけられました。

シュネルがこの土地を購入し、Wakamatsu Tea and Silk Farm Colony いわゆる若松コロニーを造り、お茶や養蚕業を興そうとして開墾を始めました。入植1年目はお茶や桑の木の生育もよく開拓は成功するかに見えたのですが、2年目には旱魃に見舞われ、近くの金鉱の採掘現場から流れ出た毒物(?)により木々は汚染され、食糧危機も起こり、病の流行もあったようで、その上シュネルは日本で資金を調達してくるといって戻ってきませんでした。見捨てられた入植者がその後どういう運命をたどったかははっきりしませんが、移民団は離散し、望郷の思いに駆られながら異国の地で死んでいったようです。日本に帰国できた人もいたようですが。

ゴールドヒルは2011年1月、サンフランシスコの学会に行ったときに訪ねました。雨が少なく乾燥しているため荒れた土地のまま放置されているか(写真)、牧場かブドウ畑になっていました。会津藩士らが入植する前の1848年1月に、すぐ北にある Coloma のAmerican Riverで金の薄片が発見され、このニュースがまたたく間に広がり、翌年には世界中から金を求める人が殺到しました。この人たちが 49ers (forty-niners) です。ジョン万次郎も1850年、帰国用の資金を稼ぐため、この辺りで働いていたようです。

入植地には会津藩士と家族が住んだ家が残されていました(写真)。当時は修復中で、今は会津藩の展示会場になっているそうです。入植100年を記念して造られた日本庭園(写真)で、当時のレーガン・カリフォルニア州知事を呼んで記念式典を催しましたところ、黒人女性と結婚した侍の子孫が名乗り出たそうです。記念庭園と共に造られた記念碑には、こう書いてあります。WAKAMATSU TEA AND SILK FARM COLONY の名で、「カリフォルニアにある唯一の茶と絹の農場。1869年6月8日にゴールドヒルに着いたパイオニアの日本人移民の最初の農業用集落。最初は成功したが、栄えることはなかった。カリフォルニアの農業経済への日本の影響の始まりとして記す」。

「おけい」さんという少女がいました。シュネルと日本人妻の間に生まれた子供たちの面倒を見るため日本から同行しましたが、彼とその家族が去ったあとは近くの農場のドイツ人家族、ビアカンプVeerkamp家(写真)に子守りとして雇われました。本当の娘のように可愛がられて、 ジャパニーズ プリンセスと呼ばれてました。ビアカンプ家から大切にされていたおけいさんでしたが、1871年夏に突如熱病にかかり、3日後には帰らぬ人になってしまいました。わずか19歳でした。彼女の墓は、この日本庭園の隣りにある小高い丘の上にあります(写真)。

丘の上では、会津から持ってきた樫の木の種が大きく育っています。彼女の望み通り、丘の上の、樫の種が芽を出した近くに葬られました。お墓はレプリカに代えられていましたが、このお墓の写真をご覧ください。数十年後にこのお墓を見つけた日本人が、てっきり近くの鉱山労働者を相手にしていた娼婦と思い、隣りに住むビアカンプさんに尋ねましたら、その家族のもとに引き取られていた少女と判明しました。この写真では長男のHenry Veerkamp氏はまだ若かったのですが、80歳になったときに羅府新報の記者におけいさんのことを聞かれました。このときの記事をご覧ください(写真)。

おけいさんのお墓がある丘へ登るには100周年記念の日本庭園の横の鍵がかかった門を通らねばなりませんでしたが、隣りの小学校の事務員の方が案内してくれたお蔭で、小学校の破れたフェンスの合間を抜けて行くことが出来ました。

アメリカ本土に初めて日本人移民(会津藩士ら)が入植してから150年経った2019年に、WakamatsuFest 150 が開かれました。日本からは徳川宗家19代当主の徳川家広氏、会津からは松平容保公の子孫で15代当主の松平親保(ちかもり)氏が招かれました。おけいさんのお墓に詣でて、入植150年を祝ったそうです。

この若松コロニー跡は日本領事館も加わって保存へと動きました。広大な土地を買収するのは大変だったようですが、ようやく2010年に自然保護団体 American River Conservancy が買収することに成功しました。見学者のための施設も整備されているようです。

http://expres.umin.jp/mric/mric-25088-1.pdf

●ノーウイッチの高校の卒業生名簿に山川健次郎の名前がなかった。

山川健次郎は東京・九州・京都の各帝国大学の総長を歴任した会津藩士です。会津藩の藩校・日新館でもずば抜けた秀才だったようで、その優れた才能は若いときから注目されていました。
日新館は、司馬遼太郎によりますと、佐賀・鍋島藩の弘道館に負けないほどレベルの高い教育をしていたとのことです。江戸時代の最高学府だった江戸の昌平坂学問所の首席にあたる学寮の「舎長」を、会津藩は4人も輩出してます。そのような藩は他にはないとのことです。

山川は会津(戊辰)戦争では籠城戦をくぐり抜け、若松城開城後は猪苗代に謹慎の後、越後へ脱走、長州藩士・奥平謙輔の書生となりました。明治4年(1871年)、会津藩が斗南藩として再興後、官費留学生に選抜されアメリカへ留学。英語を学ぶため、日本人がいないコネチカット州の小さな町ノーウイッチNorwich に住み、Norwich Free Academy に入学。明治5年夏イエール大学付属の Sheffield Scientific School に合格。土木工学を専攻。3年間の ”select course” で Ph.B. の資格を得て、明治8年5月卒業しました。イエール大学に残る履歴書には、山川について次のように書いてあります。
Yamakawa Kenjirō,
Japanese samurai of Aizu Domain,
Member of Byakkotai,
Physicist,
Member of the House of Peers.
山川はイエール大学を卒業後に帰国し、東京開成学校教授補などを経て、明治12年に26歳の若さで東京大学理学部の物理学主任教授に就任しました。清廉潔白な人柄は多くの人の信頼を集め、社会を導く人という意味で「星座の人」と呼ばれました。弟子に長岡半太郎がいます。東大の安田講堂裏に山川の像があります(写真)。会津若松市の郊外に再現された日新館の門前にも山川の像があります。
山川がアメリカで留学した高校を探しました。この高校は、コネチカット州のノーウイッチにあることになっています。ボストンから南西へ車で2時間もかからないところです。イエール大学があるニューヘブンよりもずっと東にあって、静かで落ち着いた小さな町です。町の中心に大きな高校がありました。Norwich Free Academy です。この高校へ行って卒業生名簿を調べましたが、1872年前後に彼の名前はありませんでした。

町の役所へ行き、当時、他に高校がなかったか調べてもらいましたが、ここしかありません。そこで思い出したのが、当時の校長先生の名前、ハチソン先生です。この高校へ戻り、もう一度名簿を調べましたら、ありました!! 当時の Norwich Free Academy の校長先生はハチソン先生です。ハチソン先生は、日本から来た非常に優秀な若者を、親身になって指導しました。山川がここに在籍していたことは間違いありません。ではなぜ彼の名前が卒業生名簿になかったのでしょうか。彼は1年しか在籍していなかったので、正式には卒業してなかったのではないでしょうか。

http://expres.umin.jp/mric/mric-25088-2.pdf

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