医療ガバナンス学会 (2025年5月16日 08:00)
この原稿は長文ですので4回に分けて配信いたしますが、こちらの方で全編お読みいただけます。
http://expres.umin.jp/mric/mric-25088-3.pdf
押味和夫
元・順天堂大学医学部血液内科教授
2025年5月16日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
朝河貫一(1873―1948) は旧・安積中学きっての秀才で、中学の答辞を英語で読んだそうです。英人教師ハリファックスは、その文章の見事さに、「やがて世界はこの人を知るであろう」と語ったとのことです。
朝河は家が貧しく、早稲田の前身の専門学校を卒業後、本郷教会の牧師・横井時雄の紹介で、彼の友人ウイリアム・J・タッカーが学長をしているダートマス大学に学費免除で入学しました。ダートマス大学はアイビー・リーグの1つで、私も昔レジデントの職を求めて面接に行きましたが断られました。
話はそれますが、このときに面接官から聞いたのが小川真紀雄先生のことです。先生はダートマス大学医学部付属病院で内科と血液科の研修をなさっておられたときにIgE骨髄腫の患者さんを見つけて、IgEの発見者の石坂公成先生と共著で1969年に、「Clinical aspects of IgE myeloma」 のタイトルで N Engl J Med に発表しておられます。
面接のときに私が血液学に興味を持ってると申し上げましたので、面接官の先生がこの話をしてくださいました。小川先生のことがよほど印象に残っておられたのでしょう。小川先生はサウスカロライナ州立医科大学名誉教授ですが、今はダートマス大学の近くにお住まいとのことです。ついでですが、小川先生と石阪先生の共同研究は、アトピー性皮膚炎も入れて全部で5つの論文があります。石坂先生の奥様の照子先生の名前が入った論文もあります。
話は戻ります。朝河貫一はダートマス大学を主席で卒業し、イエール大学大学院で歴史学を学びました。その後、彼はずっとイエールを離れず、最後までイエールの教授でいました。アメリカの大きな大学で教授になった初めての日本人です。彼の勉強振りはすさまじかったらしく、6~7カ国語を駆使して日本の封建時代が世界の歴史の流れに占める位置を解明しようとしました。日露戦争のときにはアメリカ中を講演して回り、何故日本が戦争に突入せざるを得なかったかを説き、米国の世論を日本に有利になるように導きました。ポーツマスの日露和平交渉では日本側のオブザーバーを務めました。
ポーツマスの John Paul Jones House の2階にある日露講和交渉資料室で、たまたま朝河が書いた著書 「The Russo-Japanese Conflict」 を見つけました(写真)。当時の肩書きはダートマス大学東アジア文明歴史学科講師とあります。1905年にロンドンで出版された4~5cmもある分厚い本です。開戦に至るまでの国際関係の推移と経済の発展を客観的・学問的に研究し、両国の衝突の原因を明らかにした著書とのことです。朝河は本書を世に出した目的を、開戦時に欧米人は日本のことがよく理解できてないため日本に対する感情がゆれ動いて不安定だったので、少しでも正しい見解が生まれることを願ったからとのことでした。当時、朝河はまだ30歳にすぎませんでした。
ただ、朝河でさえもこの戦いを日露ではなく露日Russo-Japanese と書いているのは何故でしょうか、何かそれなりの理由があったのでしょうか。執筆したのはまだ戦争が決着する前だったので、露日と書いたのでしょうか。しかし、日本が勝った後も米国ではずっと露日戦争と言われていますので、もっと違う理由がありそうです。白色人種対黄色人種、西洋対東洋、キリスト教対仏教・・・このどれをとっても、露日と書く理由になりそうです。この悔しい思いは、ずっと私の頭を離れませんでした。ニッポン人として恥ずかしくない行動をとろう、ニッポン人のプライドを忘れるな、これがその後の私の行動の原点になりました。
アメリカなんかに負けるものかと、ときどき思い出しては張り切りました。「露日衝突」 は発売されるやただちに驚異的な売れ行きを見せ、版を重ねたそうです。陳列棚にある本を手にとって見たくとも触れることが出来ず、ガラス越しにじっと見つめていました。
朝河が太平洋戦争を避けるべくフランクリン・ルーズベルト大統領に送った書簡は有名です。この書簡で朝河は、ルーズベルト大統領が昭和天皇に直接親書を送ることを提案することで戦争を回避しようと努め、さらに天皇に宛てる親書の内容までも提案しました。読んでみますと、日米関係の歴史から説いた格調高い英文で、流し読みは到底不可能です。実際にルーズベルトが書いた親書はかなり違ったようですが、彼が提案した親書が修正に修正を重ねて天皇に届いたのは、日本軍がパールハーバーに向けて飛び立った後でした。
2009年1月、私が研究している抗がん剤のことで、Yale Cancer Center の医師に相談に行くことが必要になりました。そこで、ちょうどいい機会と、イエール大学で山川健次郎と朝河貫一の足跡を調べることにしました。
イエール大学の先生が葬られている墓地が大学の近くにあります。Grove Street Cemeteryです。朝河はここに眠っています。墓石が雪の下に埋もれていて見つからないのかなと次々に墓の雪をのけていきましたが、やはり見つかりません。そこでもう一度管理人室に行き聞き直しましたところ、彼が教えてくれた区画が間違っていて、今度は容易に見つかりました(写真)。
朝河の業績を記念して、彼がイエールに来て100年経った2006年に、大学構内に朝河庭園が造られました。意外に小さいのですが、日本から運んだ石が見事でした(写真)。
朝河の奥さんはMiriam Dingwall(1879-1913)といいます。朝河の墓石の下の方に、彼女のことが書いてあります(写真)。Miriamと朝河の結婚生活は長くは続きませんでした。Miriamはバセドウ病(?)に罹ったらしく、手術を受けたのですが、まだ30代の若さで亡くなってしまいました。二人に子供はなく、朝河はその後ずっと一人暮らしでした。
朝河とMiriamのお墓は、朝河の郷里の福島県二本松市にもあります。丘の上の広々とした墓で、Miriamのお墓には、美里安之墓と書いてあります(写真)。
朝河の母親は朝河が2歳のときに他界し、後妻として来たのが私の郷里、伊達郡梁川町の神官の娘でした。この継母のおかげで、朝河は丈夫な子に育ったそうです。スミマセン、すぐに郷里の話になってしまいます。
http://expres.umin.jp/mric/mric-25089-1.pdf
●ボストン近郊の日本人の足跡、ジョン万次郎と岡倉天心と小澤征爾。
ジョン万次郎(1827―1898)は、おそらくアメリカ・カナダへ入国した最初の日本人でしょう。私が知る日本人のうち、万次郎は1843年にアメリカ、マサチューセッツ州ニューベッドフォードに入国してます。カナダのフレーザー川で鮭漁師として働き塩鮭輸出で財を成した永野萬蔵(1855―1924)がカナダに密入国したのは、1877年です。パイオニア及甚こと及川甚三郎(1845―1927)がカナダへ密入国したのは、ずっと遅くて1890年ごろでしょう。もちろん記録に残ってないアメリカ・カナダへの入国者は多いはずです。
万次郎は土佐国幡多郡中ノ浜村の生まれで、14歳のときに漁船に乗り込み、足摺岬の沖合で突然の強風に船ごと流されて難破。鳥島に漂着し143日間を生き延びた後、船長ウィリアム・ホイットフィールド(William H. Whitfield、1804―1886)率いるアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に発見され救助。その後の万次郎の波乱万丈の生涯は、皆さんもご存じのことと思います。
万次郎が住んだ米国マサチューセッツ州フェアヘブンでは、今も現存する万次郎ゆかりの地を、万次郎トレールでたどることができます。出発はミリセント図書館。万次郎に関する書物や日本刀などのコレクションが展示されているそうです。次は万次郎とホイットフィールド船長が通った旧ユニタリアン教会、万次郎が住んだホイットフィールド船長の旧宅などです。
聖路加国際病院の名誉院長でした日野原重明先生(1911―2017)は、2008年97歳のとき、ホイットフィールド船長宅を募金活動で集めた資金で買収・改修して町へ寄付。日米友好の家Whitfield-Manjiro Friendship Houseと名付けて、万次郎がアメリカに上陸した日にオープンしました。
私が友人とホイットフィールド船長宅(写真)に行ったのは、日野原先生が動き出した頃のようです。ドアには鍵がかかっていましたが、家の中はドアの横の窓から容易に覗くことが出来ました。船長と万次郎の写真が、部屋の壁にかけてありました(写真)。
次はボストン美術館の岡倉天心(1863―1913)(写真)です。ボストン美術館は地元の有志によって設立され、アメリカ独立100周年にあたる1876年に開館しました。エジプト美術、フランス印象派絵画などがとくに充実しています。仏画、絵巻物、浮世絵、刀剣など日本美術の優品も多数あります。日本美術品はモース、フェノロサ、ビゲロー、天心らが収集・寄贈しました。
ボストン美術館の裏側に岡倉天心の天心園があります(写真)。水を使わずに山水の趣を表した枯山水庭園です。ボストン美術館東洋部長だった天心が日本から持ってきた石燈龍や石塔を使って庭園を造ったことから、天心の名にちなんで天心園と命名されました。日本が恋しくなったら、ぜひお訪ねください。心が安らぎます。
岡倉天心は、日本人の思想家として、世界に日本の文化を発信した人です。茶室で一杯の茶を飲むことから多くのことを学べると主張し、「The Book of Tea」 を書きました。アメリカでの講演をまとめた本です。見事な英語です。原文で読もうとしましたが、あまりにも難解で途中で挫折してしまいました。日本人が本来持つ慈悲の心や自然への畏敬の念などを伝えているそうです。
次はBSOです。BSOというだけでボストンの人にはBoston Symphony Orchestraだと分かるらしいのですが、私は地元にいながら全く聴きに行きませんでした。2008年には京都との姉妹都市提携の何周年目かの記念に、小澤征爾(1935―2024)がBSOを指揮しました。安い特別料金で聴けて、その後のパーテイでは小澤さんと接することが出来たそうです。しかし前からの予定が入っていて、行きませんでした。音楽好きにはよだれが出そうな美味しい話でしょうが。小澤さんはBSOの音楽監督を1973年から29年間務めました。
夏の避暑地タングルウッドTanglewood(写真)はボストンから西へ車で2時間、マサチューセッツ州の西の端にあります(地図をご覧ください)。ここがBSOの夏の演奏地です。小澤さんの Seiji Ozawa Hall (写真)があります。このホールの外の芝生で演奏を聴くのだそうです。でも私が行ったのは晩秋で、誰もいなくて、賑やかな舞台の面影はありませんでした。
フェンウェイ・パークFenway Parkはボストン・レッドソックスの本拠地です。人気が高く、なかなか入場券が手に入りません。2008年頃は平成の怪物・松坂大輔投手が在籍していたときですが、故障者入りすることが多いこともあって、試合は見てません。お客さんを案内したのは試合がない日で、静かな球場でツアー客だけがウロウロしてました。左翼フェンスにそびえ立つ11.3メートルもある緑色の高い壁はグリーン・モンスターと呼ばれます。市内の限られた沼地に建てられたため、ホームベースから左翼までの距離が短く、ホームランを防ぐために左翼フェンスを高くしたのです。その代わり、ここに当たって跳ね返る2塁打が多くなりました。
日本人が元気になる巨大な地球儀 Mapparium がボストンのダウンタウンの Mary Baker Eddy Library にあります。1935年の世界地図を、ステンドグラスで出来た直径9メートルの巨大な地球儀の中から見上げるのです。当時日本が占領していた地域がそっくり日本の領土として紫色で示されてます。樺太の南半分、カムチャッカ半島のすぐ近くまでの千島列島、韓国と北朝鮮を合わせた朝鮮半島、それに台湾です。広大な満州国(1932ー45年)は日本とも中国・ロシアとも異なる色で区別されてます。満州国は関東軍の主導の下に独立したわけで、大日本帝国とは区別してあります。Manchukuo と書いてます。
こういう時代もあったんだ。これを見てましたら元気が出てきました。チト複雑な思いもありましたが。ただし撮影禁止のため、写真をお見せできないのが残念です。ニッポン人なら訪れて欲しい所です。