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Vol.25090 アメリカで見た日本人の足跡 ③

医療ガバナンス学会 (2025年5月19日 08:00)


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この原稿は長文ですので4回に分けて配信いたしますが、こちらの方で全編お読みいただけます。
http://expres.umin.jp/mric/mric-25088-3.pdf

押味和夫
元・順天堂大学医学部血液内科教授

2025年5月19日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●外務大臣・小村寿太郎、健康でもっと長生きしていたら・・・。

小村寿太郎(1855―1911)は日露戦争後のポーツマスでの日ロ和平交渉の日本代表です。外務大臣でした。この項目の最後にある日露講和会議(ポーツマス会議)の写真をご覧ください。この会議は、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で、風光明媚で警備上安全なアメリカ、ニューハンプシャー州のポーツマス市の海軍の島で、1905年8月10日から9月5日まで行われました。

ボストン郊外に住み始めたときにドライブしてましてたら、たまたまポーツマスのビジターセンターに着きました。ここはひょっとしてポーツマス条約のポーツマスではないかと聞きましたら、そうだと言われて、やったー!でした。

”There Are No Victors Here” という本があります(写真)。この本の表紙に、ロシア代表のウイッテが条約にサインするのを小村寿太郎が食い入るように見ているスケッチがあります。この場面は撮影が許されなかったため、ロシア側の随行員が急いでスケッチして新聞社にリリースしたとのことです。小村のサインとウイッテのサインもありますが、なぜかウイッテのサインの方が上に載ってます。「ここに勝者はいない」というこの本のタイトルを具現しているようです。小村がサインした後に市に寄贈したペンの写真もあります。

この本のすぐ次のページには、表紙の右側の写真にあります新聞のトップニュース、平和!が訪れたという記事が載ってます。ポーツマス会議のホストのポーツマス市が日ソどちらが勝ったかよりも戦いが終わって東アジアに平和が訪れたことを祝っているのです。その次のページには、ポーツマス市の前市長が日南市の小学校を訪れたときの写真や宮崎県日南市飫肥にある小村寿太郎記念館の写真が載ってます。その後のページは、日露戦争の解説やポーツマス条約についての解説などです。

なぜこの本では日本のことを最初に紹介しているのでしょうか。その理由について述べてます。1985年にこの本が最初に出版されましたが、それ以前にはポーツマス条約について知っている市民はほとんどいなくて、日本人の観光客が聞いてくるぐらいでしたが、小村の生まれ故郷の日南市の市長が日南市とポーツマス市の姉妹都市提携を提案したため、それがきっかけでポーツマスの前市長が日南市の学校を繰り返し訪れたり、日南市から多くの人がポーツマス市を訪れたりするようになったのだそうです。

そしてその後もずっと平和会議や交換留学生などの行事を通して、友好関係が続いているとのことです。そのために、この本の最初に日南市や小村寿太郎など日本のことが書いてあるのだそうです。

さて小村寿太郎のことですが、ポーツマスのJohn Paul Jones Houseの2階の日露講和交渉資料室に入ってすぐ正面に小村が講和会議で座っていた椅子が置いてあります(写真)。この資料室には、小村寿太郎らの日本代表とウイッテらのロシア代表が共に宿泊していた風光明媚なHotel Wentworth のバラ園を歩く小村寿太郎の写真があります。ある日の夕方、小村とウイッテは秘密裏にここで会って、フランス語で、お互いが極東の平和と経済、政治の安定を望んでいることを確認しました。交渉では表面上は譲らないが、二人の心は同じ方向を向いていました。

この資料室には様々な写真や絵が展示してあります。明治天皇がロシア皇帝と握手をしている想像画や、ルーズベルト大統領と日本代表・ロシア代表との記念写真などです。

小村寿太郎はイギリス・アメリカ・ロシア・清国・朝鮮(韓国)の公使・大使を勤め、2度の外相時代にはポーツマス条約の締結以外にも、日本にとって日露戦争に勝つために極めて重要となった日英同盟の締結、長年の課題だった欧米との不平等条約の解消を実現しました

小村には、アメリカ留学で鍛えた抜群の語学力があるそうです。外交官になってからも仕事の合間に大量の洋書を読みこなすなど、小村の外交政策の基盤として高度な語学力に支えられた情報収集力があったことは疑いないようです。しかし結核に罹患し、脳や髄膜に結核菌が播種したらしく、56歳の若さで亡くなりました。彼が健康でもっと長生きしてたらすごい政治家になっていただろうなと思うと、残念でなりません。宮崎県日南市飫肥の小村寿太郎記念館で撮った小村寿太郎と押味が並んだ写真、記念館で見た小村のエピソードなどをご紹介します。

http://expres.umin.jp/mric/mric-25090-1.pdf

●カナダ西海岸のバンクーバー島やプリンスルパートで見つけた日本人の足跡。

バンクーバー島のカンバーランドCumbarlandに最初の日本人100人が入植したのは1891年でした。他の入植者たち(イギリス系、中国系など)とともに石炭の採掘に従事し、最盛期にはおよそ600人の日系人がいたそうです。劣悪な労働環境の中、勤勉に働く彼らが鉱山、ひいてはこの村の発展に大いに寄与したのは紛れもない事実でしたが、第二次世界大戦中の強制移住により状況は一変。敵国人扱いを受けた400人から500人の日本人全員が、ブリテイッシュコロンビア州の内陸部やアルバータ州、オンタリオ州へと強制移住させられ、散り散りになってしまいました。

終戦から5年が経ちようやく強制移住が解かれても、カンバーランドに戻ってくる日系人はほとんどいませんでした。石炭産業も斜陽化し、ついに1966年には閉山となりました。残された日本人村や墓地は管理する人もなく放置され、日系人の歴史は文字どおり生い茂る草木の中に埋もれていきました。荒れ放題だった日系人墓地は戦後、村の有志により少しずつ修復・整備が進められました。2008年、この墓地は村の歴史遺産に指定されました(写真)。また日系人墓地だけでなく、かつての日系人居住地跡(No.1タウン)の整備も進められました(写真)。カンバーランドをドライブしたとき、この墓地やNo.1タウンのことは知りませんでしたので、通り過ぎてしまいました。

バンクーバー島北東のコーモラント島のアラートベイはトーテムポールで有名な観光地です(写真)。この村を歩いていたら、地元の人が日本人の墓があるといって案内してくれました。見ると、38歳で亡くなった香川県人、佐々木卯平さんのお墓です(写真)。しかし、周囲には日本人らしい墓は見当たりませんでした。この人は一体どんな運命をたどったのでしょうか。村人の話では、今でも日本人の子孫が数家族いるそうです。サケ漁が盛んな頃には、実に多くの日本人が住んでいたそうです。
プリンスルパートPrince Rupertはカナダ、ブリティッシュコロンビア州西部の港湾都市で、スキーナ川の河口にあり、対岸にあるクイーンシャーロット島(今はハイダグワイと改称) への観光拠点です。

黒潮は日本からいろんなものを運びます。もちろん人間も。生きて漂着した日本人も多かったとか。1987年、紀伊半島尾鷲市の一丸(かずまる)という船に乗った漁師が紀伊半島沖で行方不明になり、船だけは1年以上かかって、プリンスルパートの沖合いのクイーンシャーロット島へ漂着しました。漁師は行方不明のままです。たまたま尾鷲市とプリンスルパートは姉妹都市だったこともあって、船はこの町の海の見える公園に展示され(写真)、漁師の奥さんを呼んで供養したそうです。

プリンスルパートの南東にある North Pacific Cannery Village National Historic Site(写真)を訪ねました。Cannery とは缶詰工場の意味で、サケの缶詰を作る工場が保存してありました。ここはカナダ西海岸に現存する最古の缶詰工場村で、1889年に建てられ1958年まで操業していました。

19世紀後半から盛んになったサケ漁とサケの缶詰作りのために、西海岸には最盛期に200以上もの缶詰工場が作られました。缶詰工場といっても缶詰作りに従事する工員やその家族だけではなく、サケ漁をする漁師も家族と住んでましたし、サケをとる網を作ったり修理したりしてました(写真)。

海岸沿いに建てられたのは、新鮮なうちにサケを加工するためと、漁業に従事する先住民の労働力を確保するためでした。最初はすべて手作業でしたが、20世紀に入り機械の進歩とともに、缶詰作りも機械化されました。先住民、日本人、中国人、白人が働いていましたが、日本人は主にサケ漁と網を作ったり修理したりする作業に、先住民はサケ漁と缶詰作り、中国人は缶詰作りと調理、白人はサケ漁と事務・管理職という具合に仕事を振り分けました。それぞれ得意な分野が違ったのです。先住民にとっては、網を修理するという器用さと根気がいる作業は全く苦手だったのです。

この缶詰工場の周囲に最盛期には家族とともに700人が住み、うち半数が漁師で、漁師の半分は日本人でした。日本人は漁の技術や網を作る、修理する技術は非常に優秀だったとガイドが言ってました。彼らは人種ごとに別々の区域に住んでました。売店には、日本から輸入されたお酒などがまだ陳列してありました(写真)。

何故1958年に工場は閉鎖されたのでしょうか。缶詰作りが衰退した主な理由は何だったのでしょうか。どこを見ても説明はなかったのですが、別の資料によりますと、缶詰産業の規模が拡大したためサケをとり過ぎサケの数が急に減ったためとのことでした。でもサケ釣りをしたらたくさん釣れましたので、付近の海は今はサケであふれているようです。

http://expres.umin.jp/mric/mric-25090-2.pdf

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