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Vol.25114 名古屋人の誇りはどこから来たのか――大学・軍・産業の百五十年史

医療ガバナンス学会 (2025年6月20日 08:00)


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東京大学教養学部
前期課程理科三類2年
清水 敬太

2025年6月20日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

名古屋はかつて小都市であった。

現在の名古屋市は230万人を超える人口を抱え、中部地方最大の都市として大都市圏を形成している。しかし意外にも、江戸時代の名古屋城下町の人口は僅か10万人程度に過ぎなかった。当時は江戸・大坂・京都が三都と呼ばれ、それぞれが50万人から100万人の人口を擁して圧倒的な存在感を示していた。名古屋は確かに尾張藩62万石の中心都市であったが、同じく徳川家の要衝である御三家の和歌山(紀伊55万石)・水戸(35万石)、そして徳川家康生誕の地である駿府(静岡)と人口規模においては大差がなかった。

このことは、名古屋で生まれ育った私から見ると、極めて意外な事実だ。たとえば、現在の京都市の人口は約140万人である。江戸時代末期には名古屋を遥かに凌駕していたのに、今や名古屋の方が1.6倍も多い。あるいは、徳川家康が大御所として君臨した駿府城下町の後身である静岡市の現在の人口は67万人で、名古屋市の3分の1程度に留まっている。かつての名古屋がこれらの都市と同程度かそれ以下の規模であったというのは、現在の姿からは想像し難い驚きである。

http://expres.umin.jp/mric/mric_25114.pdf

このことは、名古屋市・和歌山市・水戸市・静岡市という、徳川時代に重要な地位を占めていた4都市の人口の変化を見れば一目瞭然だ。

人口以外にも、名古屋の政治的な発展を示す事実が一つある。それは、総理大臣の存在だ。明治初期には藩閥政治の影響で、いわゆる「薩長土肥」出身の総理大臣や、西園寺公望のような公家出身の総理大臣が連続した。それが終わりを告げた後、1924年(大正13年)というかなり早い段階において、加藤高明が総理大臣に就任した。尾張・紀伊・水戸・静岡の4つを先程も比較対象にしたが、これら徳川時代に重要な地位を占めていた地域から戦前に出た総理大臣は、尾張の加藤高明のみである。さらに、水戸(茨城県)からは現在に至るまで一人の総理大臣も出ていない。

このような名古屋の発展の背景には複雑な要因があるだろう。たとえば名古屋が東海道に位置していたという交通の有利性なども要因の一つとして想定できるが、そのように多くの要因の中で筆者が特に注目するのは、帝国大学の存在である。

名古屋の飛躍的発展の基礎を築いたきっかけの一つは、帝国大学の設立である。名古屋(帝国)大学は、これまで名古屋に人材を供給してきた。たとえば、ノーベル賞を受賞した小林誠、益川敏英、天野浩、さらにトヨタ自動車の元会長である豊田章一郎などが代表例だ。もちろんそのような著名人のみならず、一般の技術者たちなどを養成し、名古屋に送り出してきたことは間違いない。

ところが、名古屋帝国大学の歴史は意外なほど浅い。名古屋帝国大学は、日本で最後に創設された帝国大学なのである。植民地に設立された台北帝国大学(1928年)、京城帝国大学(1924年)よりも遅く、1939年の創立であった。

この事実は、私の家族の歴史と重ね合わせると一層興味深い。私の祖父は現在90歳手前であるが、実は名古屋帝国大学よりも年上ということになる。名古屋帝国大学が産声を上げてまもない頃、祖父は故郷を離れ、早稲田大学に進学した。当時の名古屋では選択肢の狭さを感じていたのかもしれない。

そのように名古屋から出ることを選んだ祖父であったが、しかし私が名古屋を離れることには強く反対した。私が名古屋を出て神戸の灘中学校に進学することを決めたとき、「名古屋でいいじゃないか。なぜわざわざ名古屋を出る必要があるのか」と難色を示したのである。これはよくある郷土愛ではないだろう。名古屋人の誇りだ。学校から就職に至るまで、人生のすべてが名古屋圏内で完結することに対して、深い誇りを持っているのだ。

「地域力とは人材力である」、とよく言われる。その観点から名古屋帝国大学設立に至る歴史を紐解くと、興味深い物語が浮かび上がってくる。その源は江戸時代に遡る。

尾張藩は、江戸時代中期以降、徳川幕府体制の中で微妙な立場に置かれていた。御三家の筆頭格でありながら、特に紀州徳川家からは冷遇を受け続けていたのである。その象徴的な出来事が、第七代藩主徳川宗春(在職1731~39年)への処遇であった。宗春は享保の改革で緊縮財政を推し進める八代将軍吉宗(在職1716~45年)に真っ向から対立し、「温知政要」を著して積極的な経済政策を展開した。芸能を奨励し、遊興を容認し、名古屋を活気ある商業都市として発展させようとしたのである。

しかし、この宗春の政策は幕府の怒りを買った。宗春は隠居を命じられ、死後には墓に金網をかけるという屈辱的な処罰を受けた。私が名古屋で小学生時代を過ごした頃、授業で宗春について少しだけ学んだが、その冷遇の実態については詳しく教えられることはなかった。宗春は「経済を重視した優れた君主」として紹介されるのみで、幕府から受けた屈辱については触れられなかった。それは名古屋人にとって、できれば触れたくないような苦い記憶なのかもしれない。

尾張藩は、徳川御三家の一角を占める以上、本来であれば明治政府にとって討伐すべき敵対勢力となるはずであった。ところが、尾張藩は旧幕府側につくことなく、極めて早い段階で新政府側に与したのである。これは常識に反する選択であった。この政治的判断こそが、後の名古屋の発展を決定づけることになった。

この異例の転身は、二つの観点から説明することができる。まず一つには、上述した尾張藩の歴史的経緯である。徳川宗春以来の幕府との確執が、藩全体の心理的背景として存在していた。そしてもう一つの観点は、最後の尾張藩主である徳川慶勝が抱えていた事情である。

慶勝は、高須藩(現在の岐阜県海津市)に生まれた人物である。高須松平家は尾張徳川家の分家であり、将軍家との血縁関係が薄い傍流であった。そのため尾張藩の重臣たちからは軽んじられる立場にあった。この出自は慶勝の政治的行動に影響を与えることになる。このあたりの事情は、城山三郎の歴史小説である『冬の派閥』に詳しい。ぜひお読みになることをおすすめしたい。

藩主として慶勝は、内政では質素倹約を旨とする改革を断行し、対外政策では強硬論を主張した。これは老中の強い不興を買うことになったが、これは幕府に対する反感と見るよりもむしろ、幕府に対して責任ある発言をしなければならない、正論を言わなければならないという使命感の表れと見るべきであろう。

正論を言って敵を作り、安政の大獄によって隠居に追い込まれた慶勝であったが、桜田門外の変で井伊直弼が斃れると、政治的に復権を果たした。その後は幕府内で激しい政治闘争を繰り広げることになるが、最後の将軍となった徳川慶喜とは反りが合わなかったようだ。

王政復古の大号令が発せられると、慶勝は新政府から議定に任命され、明治政府の中枢に迎え入れられた。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、尾張藩は迅速に新政府への恭順を表明し、尾張藩兵を新政府軍として東海道方面に出兵させ、江戸進撃作戦にも積極的に協力した。

明治初期の尾張藩は、薩摩・長州ほどには新政府の中枢に深く食い込むことはできなかったものの、御三家の中では極めて良好なポジションを確保することに成功した。このことを端的に示すのが、陸軍師団の配置である。

明治政府が設置した第1師団から第6師団までの最古参師団を見ると、名古屋は第3師団の駐屯地となっている。他の師団の配置を見れば、第1師団は東京、第2師団は仙台、第4師団は大阪、第5師団は広島、第6師団は熊本である。東京より西で、これらはすべて明治維新で早い段階から新政府側についた地域ばかりである。

陸軍師団の設置は、当時としては最大級の公共事業であった。そのため全国各地がこぞって師団誘致を試みたが、その成否は中央政府との政治的関係に依存していた。名古屋に第3師団が設置されたことは、明治政府における尾張藩の政治的地位の高さを物語っている。

陸軍第3師団の前身である名古屋鎮台が設置されたのは1873年(明治6年)のことであった。この軍事拠点の設置を契機として、名古屋は着実な経済発展の軌道に乗ることになる。師団とその関連施設は地域経済に大きな刺激を与え、飛行機、特にエンジンなどの軍需関連産業の集積も進んだ。さらに東海道本線の開通とも相まって、名古屋は中部地方の政治・経済・軍事の要衝としての地位を固めていった。

しかし時代が下るにつれて、名古屋人には複雑な感情が芽生えるようになった。経済的にはすでに相当な水準に達しているという自負がある一方で、高等教育機関がなければ文化的には他の大都市に劣るという負い目を抱くようになったのである。

この心境を端的に表しているのが、1927年(昭和2年)に上遠野富之助(当時の名古屋商業会議所会頭)が記した「名古屋総合大学設置運動に就て」という文章である。上遠野はその中で次のように述べている。題名・引用文は、旧字を新字体に直してある。

「大体都市に大学のないのは、住宅を建てて書斎を拵へないと同様、商工都市として如何に物質的に繁栄を示してゐても、精神的な方面に何等特徴がなく社会文化の進展に貢献するところがなければ、本当に都市としての品位、値打ちはないと断言せざるを得ぬ」

この一文は、当時の名古屋財界の心境を端的に表現している。物質的繁栄だけでは真の都市としての価値は生まれない、と。大学がない都市は「書斎を拵へない住宅」であるとして、それを精神的貧困に結びつけて論じている。

このような認識を背景として、1920年代には総合大学設立運動が本格的に盛り上がりを見せることになった。ところが、1930年代に入ると軍事予算の急激な膨張により、新たな帝国大学設立のための国家予算は極めて厳しい状況となった。陸軍・海軍の軍備拡張が最優先課題となる中で、教育予算は後回しにされがちであった。

そこで愛知県は、土地の提供から建設資金まで、設立費用を全額負担するという決断を下した。設立予算の不足を理由に新たな大学の立ち上げを渋る財務省に対して、愛知県は、県としての全面的なバックアップを約束する形で、大学の誘致を強力に推進したのである。

1939年(昭和14年)に設立された名古屋帝国大学は、戦時体制の進展とともに軍事研究にも深く関わることになった。1943年(昭和18年)には航空医学研究所が設置され、航空機技術の研究開発拠点としての役割を担った。名古屋圏には三菱重工業をはじめとする航空機工場が立地し、終戦までに国内で生産される航空機エンジンの30〜40%を製造するほどに発展していたからである。

戦時下の総力戦体制において、これらの企業群と名古屋帝国大学は密接な協力関係を築き、軍事技術の開発に邁進した。名古屋帝国大学は、この産学軍複合体における人材供給の要として機能した。工学部や医学部の研究者・学生たちは、航空機技術や軍事医学の分野で重要な役割を果たし、「産業報国」の理念のもとで技術立国日本の一翼を担ったのである。この時代に培われた産学連携の伝統は、戦後復興においても大きな力を発揮することになる。

実際、航空機産業は現在も名古屋で着実な発展を続けている。失敗に終わったものの三菱重工業のスペースジェット(旧MRJ)開発や、ボーイング787の主要部品製造、さらにはJAXAのロケット開発など、名古屋圏は日本の航空宇宙産業の中核拠点としての地位を保持している。これは決して戦後に始まった新しい産業ではなく、戦時中から連綿と続く歴史的経緯を踏まえたものなのである。

名古屋大学の歴史は、尾張地域の歴史をそのまま反映している。江戸時代の屈辱を乗り越え、明治維新という歴史的転機において徳川の過去を巧みに脱却して新政府の側に立ち、その政治的成功の果実として念願の帝国大学を獲得することができた。これこそが現在に至る名古屋圏への人材供給システムの基礎となり、中京工業地帯の発展を支える知的インフラとなったのである。

1945年の終戦ののち、名古屋は敗戦後の復興に立ち向かっていく。名古屋帝国大学、名古屋大学の系譜は、それに貢献してきた。今の名古屋人が持っている、名古屋で生まれ名古屋で学び名古屋で働くことへの誇りを抱く心性は、この長い歴史的蓄積の産物に他ならない。徳川宗春の経済重視政策から始まり、徳川慶勝の政治的決断を経て、上遠野富之助らの大学設立への執念に至るまで、一貫して貫かれているのは地域の自立と発展への強い意志である。名古屋大学は単なる教育機関ではなく、この地域のアイデンティティと歴史そのものを体現する存在なのだ。
清水敬太
(経歴)東京大学教養学部前期課程理科三類2年。愛知県名古屋市に生まれ、灘中学・高等学校に進学。

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