医療ガバナンス学会 (2025年8月4日 12:00)
この原稿は長文のため4回に分けて配信いたします。
尚、こちらから全文お読みいただけます。( http://expres.umin.jp/mric/mric_25144-7.pdf )
日本ゼオン キャタリスト(ナノテクノロジー戦略領域)
阿多誠文
2025年8月4日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
今回の改定CLP規則に含まれたMWCNTの発がん性区分の議論には、繊維病原性仮説が大きく影響を与えています。MWCNTの繊維病原性仮説は2008~2012年頃に盛んに議論されました。その繊維病原性仮説は、1960年代のWHOのファイバーの定義が規定した幾何学定領域、すなわち “直径3μm以下、長さ5μm以上(無限長まで)、アスペクト比1:3以上”を基にした仮説です。大事なことは、WHOのファイバーの定義は有害性とは何ら関係がなく、単に繊維物質の定義である点です。
ドイツ連邦労働安全衛生研究所(BAuA)は、欧州化学品庁(ECHA)の“共同体ローリング行動計画”(CoRAP)のなかで、長年にわたりMWCNTの評価を行いその有害性に関する知見を蓄えてきていました。2021年3月欧州委員会は、ECHAの委託を受けてドイツBAuAが作成したMWCNTの調和化分類に関する報告書、いわゆるCLHレポートを公開し、そのパブリックコンサルテーションを開始しました。
CLHレポートが要求した発がん性区分1Bの幾何学的領域は、直径30nm以上3μm以下、長さ5μm以上無限長まで、アスペクト比1:3以上です。上述のWHOのファイバーの定義をそのまま用いていますが、ただひとつ異なる点は、“直径30nm以下の細いMWCNTはタングルしているという想定”で対象から除外している点です。一般にMWCNTの直径と形状モルフォロジーには相関がなく、MWCNTのモルフォロジーは“結晶性”と呼ばれるグラファイトの筒構造のオーダリングの程度で決まります。通常結晶性に大きく影響を与えるのはプロセス温度です。
したがって、まずBAuAが導入したこの30nm以下のMWCNTがタングルしているという想定には科学的根拠がありません。30nmより太くてもタングルしたMWCNTがあり、30nmより細くてもまっすぐなMWCNTやSWCNTはいくらでもあります。コイル状や捻じれたMWCNTまで存在します。
またCLHレポートは、発がん性区分の領域として5μm以上無限長までを要求しています。ところが何十年もアスベスト鉱山で働いた方の肺からでも100μm程度の長さの線維がたまに見つかる程度です。導電性の高いMWCNTは、繊維間の凝集力がほとんど無く単利して浮遊しやすいアスベストとは異なり、繊維間のLondon力が大きく働いて凝集し、繊維が単離して飛散することはまずありません。
私の理解が正しければ、これまで50μm以上の長さのMWCNTはばく露試験を行った動物の肺から見つかっていません。無限長までの長さを発がん物質とする理由が理解できないし、このような粗い幾何学的枠組みの設定では、長いMWCNTを作りたいというモチベーションにも悪影響を与えることは必至です。実際に、環境基本法や大気汚染防止法における微小粒子状物質(PM2.5)の管理は、肺胞にまで届く小さな粒子サイズの環境基準を規定していますが、MWC(N)TのCLHレポートは5μm以上無限長までを要求し環境基準は規定していません。
このように、大気汚染防止法における粒子の管理と、CLHレポートが要求するMWCNTの管理の考え方には大きな齟齬があります。この齟齬は、リスク管理策とハザード管理策の違いに根差しています。
次に太さの問題ですが、直径150nm程度の太いMWCNTになると、細胞に刺さりにくくなり有害性が低くなることが病理学者から報告されています。したがって直径150nmから3μmの範囲は規制する必要は無いはずです。BAuAはプラスティックボールにパスタの麵を差し込んだモデルでマクロファージの“アルデンテテスト”が有害性に大きく関係するといいます。マクロファージはプラスティックボールのようなものではなく、実際にはアメーバのように変形して線維化などを起こすことが知られています。
また、すでにマクロファージ表面の様々な受容体がMWCNTの貪食に関与していること、トランスフェリンのようなタンパクがMWCNTに吸着してトランスフェリンレセプターを通して鉄と一緒に貪食され酸化ストレスを起こす現象など、炎症に係る多くのことがわかってきています。なぜ炎症が起き、細胞死が起き、がんが惹起するのか、CNT貪食後の免疫細胞のインフラマゾームシグナル伝達系に基づく丹念な議論を積み重ねる必要があります。
今回の改定CLP規則では、このような範囲のMWCNTが肺胞まで届くという前提が採用されています。あり得ない話です。さらに、繊維病原性パラダイムではもうひとつ、繊維の化学組成は有害性と無関係である、と想定しています。これもとんでもない話だと思います。特に鉄を含む物質は繊維表面でフェントン反応により強い活性酸素種であるヒドロキシラジカルを発生させ、生体に強い酸化ストレスを与えるはずです。最近きわめて多量の触媒鉄を含んだままのCNTが流通している事例が確認されていますが、優先的に規制されるべきはこういった粗悪な品質のCNTの市場への流入ではないかと思います。
私どもは長さが200~600μmのSWCNTの製造を行っています。今回の改定CLP規則の表示義務対象外のCNTです。それでも私どもはCNT製造とその応用技術開発に係るイノベータとして、在欧日系ビジネス協議会(JBCE)を窓口として、様々な科学的情報をECHAや欧州委員会の成長総局や環境総局に繰り返し提供してきました。またCLP規則の法案が委任法案として議論されていたCARACAL会議にも、イノベータとしての意見や科学データを提供してきました。
ただ、CLP規則のMWCNTに係る法案を修正するには至りませんでした。BAuAのような公的研究機関からECHAのリスク評価委員会での議論を経て法案になると、これを修正するのは極めて難しいことを実感しています。ただ、改定CLP規則のMWCNTの内容については今でも、なぜこんな法律になるのか、誰のための何のための法律なのか、釈然としません。今後ほかの規制枠組みへの展開が予想されますので、欧州の政策枠組みと対話を続けていこうと思っています。
つづく