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Vol.25146 カーボンナノチューブの欧州規制の背景と現状、今後の対応③

医療ガバナンス学会 (2025年8月5日 08:00)


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この原稿は長文のため3回に分けて配信いたします。
尚、こちらから全文お読みいただけます。( http://expres.umin.jp/mric/mric_25144-7.pdf )
日本ゼオン キャタリスト(ナノテクノロジー戦略領域)
阿多誠文

2025年8月5日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

●繊維病原性仮説は規制のベースとして適切なのか

ここから、改定CLP規則の背景となった繊維病原性仮説について考えます。
今から半世紀近く前、Stantonは様々な無機繊維物質のペーストを実験動物の胸膜に塗布して炎症を調べ、細くて長い繊維の数と炎症の確率の間に相関を見出したとして、いわゆる繊維仮説を提案しています。ただ、この相関関係は誤差論の観点から見ると信頼性に欠けると言わざるを得ません。また、Stanton-Pottの繊維仮説とも呼ばれるもう一人の仮説の提唱者Pottは、NIHに投稿した論文のなかで、「この仮説に基づくと短繊維の発がん性は弱いかもしれませんが、多くの短繊維は数本の長い繊維と同じくらい簡単に腫瘍を誘発する可能性があります」と述べ、短い繊維が発がん性に無関係でないことを指摘しています。

Stantonの繊維仮説には多くの反論がありますが、1例だけ引用しておきます。Mount Sinai School of MedicineのSuzukiらは、ヒト悪性中皮腫168検体からアスベスト繊維を採取して長さを検証し、Stanton繊維仮説と一致する細くて長い繊維はわずか2.3%であったこと、繊維の大部分の89.4%は5μm以下の短い繊維であったことを報告しています。このような観察からこの論文の著者らは、「Stantonの繊維仮説に反して、短くて細いアスベスト繊維がヒトの悪性中皮腫の原因に寄与しているようだ」と結論しています。
このように、Stantonの繊維仮説を科学的に否定する検証結果が存在します。それにもかかわらずBAuAは、「グローバルに受け入れられている繊維病原性パラダイムは、まだ 欧州 の規制に適切に組み込まれていない」として、今回のMWCNTのCLP規則のベースとして積極的に繊維病原性パラダイムの導入に動きました。

改定CLP規則はMWCNTの発がん性区分を規定してその表示という法的義務の遂行を求めています。ただ、このようにその仮説のできてくる過程を客観的に検証してみると、繊維病原性パラダイムは線維のサイズと発がん性の間に想定される“相関関係”でしかないことがわかります。一般に発がん性は、用量反応曲線に基づき、対象物質のLOELやNOAELのような管理指標が決められます。強調したいことは、用量反応曲線は時間序列の“因果関係”である点です。用量反応関係という因果関係は、発がん性と発がん性に影響を与える用量との間に科学的に証明された関係であり、この因果関係があってはじめて発がん性に対するリスク管理の指標が導き出せるはずです。
一方、繊維病原性パラダイムのような相関関係からリスク管理指標は導き出せず、私見ですが、規制のベースとしては適切ではないと思います。

かつて欧州には“曲がったキュウリ規則”、あるいは“曲がったバナナ規則”と呼ばれた規則がありました。確かにキュウリは曲がっていれば曲がっているほど低価格になるという相関関係はあります。ただその相関関係は、欧州市場の統合や欧州経済の強みとはまったく関係がありません。あまりに細かい規格が多くの農作物に適用されるのを見て、EU加盟に尻込みする農業国もあったようです。この規則は2009年に廃止されています。
この事例と同じように、今回の改定CLP規則におけるMWCNTのハザード表示義務が、今車載用リチウムイオンバッテリーなどに急速に応用が展開してきたMWCNT研究開発への投資に効果的なのか投資のリスクでしかないのか、問い直してみる必要があります。今回の改定CLP規則が欧州の産業競争力の維持向上に貢献するとはどうしても思えないのです。ひょっとしたら公的研究機関のなかでこの規則の原案が作成されている段階で、毒性学者はMWCNTの社会経済的価値や投資、欧州の産業競争力といったことを全く考えていないのではないか、自身のスマホやPCのバッテリーのなかにCNTが使われている事さえ知らないのではないか、とさえ思います。

●炭素繊維の自動車への使用制限案へ

今年4月の初め、日経新聞電子版は欧州連合による自動車のリサイクルや廃棄に関するEUの指令(ELV指令)なかで車への炭素繊維の利用禁止案を報道しました。日本の主要炭素繊維メーカ3社に加え、欧米の炭素繊維企業も軒並み株価の急速な下落に見舞われました。この禁止案はすでに取り下げられてはいますが、まだ最終結論には至っていません。今回の炭素繊維規制案のおおもとを策定したのもBAuAだと思います。BAuAは“リスク管理オプション解析”(RMOA)のドキュメントのなかで、これからアラミド繊維や炭素繊維、CNT、様々な無機繊維物質のリスク評価計画を明らかにし、それらの結果をもとに利用を“制限”する計画を公表しています。
ここで対象となる繊維物質はWHOファイバーの幾何学的領域の規定そのままです。この幾何学的領域に含まれる繊維物質すべてに対して制限という形で規制の枠組みが広げられるのではないか、すなわち特定の産業分野での使用禁止といったことが提案されるような事態が起きるのではないか、あながち杞憂ではないかもしれません。

またこのRMOAのなかでBAuAは、ドイツの国内法では複合部材から放出される繊維物質の粉塵も「危険化学物質」の対象であること、さらにその粉塵が生物残留性であれば「発がん性物質」として扱われることを明記しています。まさにその考えがそのまま今回の炭素繊維の自動車への禁止案に結びついています。
今回欧州議会はELV指令改定作業のなかでこの炭素繊維の自動車への使用禁止案を取り下げました。すでに炭素繊維は自動車の軽量高強度部材には不可欠の材料となっています。またこれまで日本でも、経産省の炭素繊維リサイクルに関する調査や検討が進められ、産学協同の炭素繊維部材のエコ再生技術の研究開発も積極的に進められています。
今回ELV指令における炭素繊維禁止案はおそらく廃案になりますが、その材料を使うことの社会経済的利益が大きいこと、ヒト健康被害が発生しそうな状況でのより安全な管理策をボランタリーに策定しておくこと、といった対応が取れている材料については、制限や認可といった規制措置を容易に講ずることができない、という重要な教訓を示す事例です。見方を変えれば、日本の企業が1971年以降55年もの時間をかけて大きな応用を拓いてきた炭素繊維ビジネスでさえ、予想だにしなかった規制案で大きな衝撃を受ける、このことも教訓にとどめておいていいと思います。

●CNTのボランタリー管理策の試みと普及

MWCNTの繊維病原性パラダイムの議論では、太くて長いMWCNTは病理学的にはアスベストと同じという見方をします。また、CNTは多層であれ単層であれ活性汚泥法による生分解性の無い、いわゆる難分解性材料であることも事実です。このようなMWCNT=アスベストというステレオタイプの認識と、CNTは難分解性であるという事実に対して、私どもは様々な手法で私どもの生産する単層CNT(SWCNT)の分解の基礎的探索を公的研究機関や大学との共同研究ですすめ、さらにその分解のエビデンスに基づく管理策の策定を試みてきました。

最初に見出したのは、家庭用の塩素系漂白剤による分解で、水に分散したSWCNTに少量の漂白剤を滴下するとほぼ1日で分解します。SWCNTの分解が進むにつれ水溶液中に炭酸イオンが増えてくることから、SWCNTが次亜塩素酸イオンにより酸化されていることがわかります。共同研究を通じて、分解の最適条件や分解のメカニズムを明らかにしてきました。この寿命の長い穏やかな酸化剤である亜塩素酸イオンによる化学的なCNTの分解技術は、CNTを含む廃液の管理策としてたいへん有用です。

ところでヒトの体には海水の約1/3の濃度の塩が含まれます。侵入してきた異物に対する免疫反応の過程で酸素分子は2電子還元を受けて過酸化水素になりますが、過酸化水素の周りに塩素イオンが存在するとペルオキシダーゼ酵素は次亜塩素酸イオンの発生を仲介します。したがって、家庭用塩素系漂白剤によるCNTの分解は、免疫細胞のなかで起きる反応と同じかもしれないという仮説がなり立ちます。
実際に、培養マクロファージにSWCNTを貪食させると、ラマン散乱スペクトルの強度変化から、免疫細胞のなかでCNTの分解が起きていることがわかります。また、実験動物を使ってSWCNTの懸濁液を静脈注射して肺や脾臓に定着させると、60日で完全に消失します。消失の過程で分解の証拠は得られませんのでクリアランスと表現していますが、これもまたSWCNTの管理という視点で重要な知見です。

さらに私どもは大学との共同研究により、CNTの環境分解の研究も続けてきました。様々な菌類を試しましたが、菌類では分解できませんでした。ところが一般的な土壌バクテリアでCNTが分解できることがわかりました。まだ分解の効率は決して良くないのですが、その分解がフェントン反応により発生する強いROSのヒドロキシラジカルによる分解であることを明らかにしてきました。
さらに現在欧州の公的研究機関と共同で、光フェントン反応によるCNTの分解技術の共同研究を進めています。より安全でより環境にやさしい管理策を策定するうえで、生物が長い時間をかけて創りだしてきた知識を知り、学び、そして模倣していくことの大事さを実感しています。CNT製造者の責務として、これから応用が広がるCNTがアントロポセンの地質学的マーカーとならないように、より安全で低コストのCNT管理策の策定を続けたいと思っています。

このようなCNTの管理策は学術論文として公開することに加え、Nature誌のIndexや、海外研究機関と共著のホワイトペーパーとして公開してきました。また分解に基づくCNTの管理策は、ナノテクノロジーの国際標準化を担うISOの第229作業委員会で産総研主導で国際標準化の作業が進められており、私どもはその活動を支援しています。私どもが策定してきたボランタリー管理策は特許として権利化することは考えず、CNT製造者や利用者に広く公開して使っていただくようにしたいと思っています。こういった様々な管理策とその基礎的な知見が、将来のCNTの規制の議論で必ず役に立つと思います。

つづく

MRIC Global

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