医療ガバナンス学会 (2025年8月5日 12:00)
この原稿は長文のため4回に分けて配信いたします。
尚、こちらから全文お読みいただけます。( http://expres.umin.jp/mric/mric_25144-7.pdf )
日本ゼオン キャタリスト(ナノテクノロジー戦略領域)
阿多誠文
2025年8月5日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
科学技術創造立国という理想を掲げて1996年度から始まった科学技術基本計画のなかで、「ナノテクノロジー・材料」分野戦略が始まったのは2001年4月からの第2期科学技術基本計画からです。21世紀元年から始まったこの分野戦略は、第3期科学技術基本計画まで、東日本大震災が起きた2011年3月までの10年間にわたって続けられました。基礎的な探索を行う学術領域に加え、様々な工学領域、社会学や経済学まで含めた学際型の特徴を持つナノテクノロジーの研究開発には、さらに科学技術と社会とのインターフェイスにある様々な課題への対応まで求められました。
特に研究開発と並行して位置づけられたのが健康・安全・環境の課題と倫理的・法的・社会的課題で、それぞれEHSおよびELSIの課題と呼ばれました。そのような研究開発の設計に大きく貢献したのが、1999年7月にブダペストでまとめられた「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」、いわゆるブダペスト宣言の「社会のための科学」という考え方です。科学と社会の深化は第2期科学技術基本計画のなかでその理念が盛り込まれました。
2006年4月からの第3期科学技術基本計画のナノテクノロジー・材料分野戦略では、ナノテクノロジーの国際標準化やOECDの工業ナノマテリアルの管理策に関するプロジェクトなどの具体的な課題が方向づけられました。東日本大震災の復興計画を盛り込んだことから、4カ月遅れの2011年8から始まった第4期科学技術基本計画からいわゆる8つの研究開発分野戦略は無くなり、科学技術政策とイノベーション政策はより深化した“科学技術・イノベーション政策”となり今日に至っています。
日本の科学技術政策のなかで、ナノテクノロジーは様々な新しい技術の共通基盤として位置づけられました。ところが第2期科学技術基本計画が始まって2~3年もすると、識者が「ポスト・ナノテクノロジーは何か?」という意味のない議論を始めるようになり、第3期科学技術基本計画が終わると「ナノテクノロジーはもう昔の話」といったようなことがまことしやかに語られるようになりました。第3期基本計画から精力的に進められたナノ炭素特性評価やリスク評価のプロジェクトも、第4期~第5期科学技術基本計画ではほとんど行われなくなっていきました。
一方欧州では、2010年のRoHS指令改定におけるMWCNTとナノ銀のゼロ閾値制限案は取り下げられたものの、2018年にはいわゆる“REACHナノ形態規則”が公開され、2020年1月1日に施行されました。欧州委員会はこれに先立ち、“ナノ形態”の定義をRecommendationとして公開し、ナノマテリアルのREACH登録のガイドラインを繰り返し発出するなど、周到にナノの管理の準備を進めてきました。
2019年の欧州議会で欧州グリーン政党が躍進し、その年には欧州グリーン・ディールが動き出します。これに触発されるかのように、CNTや炭素材料などの規制措置が次々と打ち出されてきました。日本では「ナノテクノロジーは昔の話」だったのですが、欧州の政策枠組みは「ナノテクノロジーの社会実装はこれから本格化する」との確信をもって、そのガイドラインとしてのナノマテリアルの規制を打ち出してきました。
科学技術政策に基づく研究開発が実効的に社会実装に結びつくかどうかは、政策に基づく研究開発への支援がコヒーレントであるかどうかに大きく左右されると思います。欧州の科学技術政策の強みは、枠組み計画PF5でナノサイエンス・ナノテクノロジー研究開発の支援を始めて以降4半世紀以上にわたる終始一貫した資源投入にあると思います。言葉を変え枠組みを変えるだけで何か新しいことをしている錯覚に陥らず、これから本格的に様々な新しい技術の共通基盤として機能し始めるナノテクノロジーへの支援が必須です。
日本は第3期科学技術基本計画以降ナノマテリアルの特性やリスク評価、OECDの工業ナノマテリアルのプロジェクト、さらにはナノテクノロジーの国際標準化に多くの資金と人材をつぎ込んできました。問題は、大きく動き始めた欧州のナノマテリアルの規制化の動きのなかで、その成果がどの程度活かされているのかという点です。現在に至るまで変わらずCNTの発がん性評価を続けている研究者でさえも、繰り返し欧州のナノマテリアル規制の動向を説明しても、全く興味を示しません。
確かに研究資金獲得の厳しい現実や資金獲得のための書類作成等に苦労されていることは理解できます。ただ、ではその成果をどこでどう活かすのか、研究の本質的なモチベーションは何なのかという問いに対しては、論文を書くという目的以外に明確な答えはありません。厳しい評価に晒らされている現実を考えれば、それが単に研究者の視野が狭いといった問題でもないことは自明です。研究者も、そして科学技術政策も、こういった課題の推進とアウトリーチの仕組みについて、グローバルに現状を把握し、考え直し立て直していく必要があると思います。
●社会基盤に係るルールメイキングへの参画を
1991年に飯島澄男氏によりCNTが発見されて35年が経過した今、その工業的応用が急速に広がってきています。今日CNTの多くがリチウムイオンバッテリーに導電助剤として応用されており、その他にも様々な複合体としての応用展開が進んできています。ただ、日本には特徴ある様々なタイプのCNTを製造している多くの企業が存在するにもかかわらず、グローバルにみればその8~9割のシェアを中国や韓国の製造者が席巻しています。悲観することは無いと思います。日本のCNTは純度が高く高品質ですので、そのことが強みを発揮する応用分野はこれから展開してくることが期待できます。
その一つが医療分野です。とりわけがん細胞を直接攻撃するドラッグ・デリバリー・システム(DDS)の開発は、世界中で精力的に進められています。そのほかにも、その高い導電性や高い強度を活かして高感度バイオセンサー、生体イメージング、人工臓器、再生医療への応用展開といった様々な医療応用が試みられています。CNTは炭素だけからなる材料ですので、生体親和性が高いことも利点です。
また、たとえばDDSで使った後、SWCNTであればマクロファージや肝臓のクッパー細胞などで分解されることもわかってきています。日本の医療制度が困難に直面している現在、このようなCNTの応用展開が進むことで医療デバイドと言えるような状況が改善し、医療サービスのコスト低減にも結び付くような高度な医療技術の開発が期待できます。
ただ、高度で高品質の技術を作れば市場が拓ける、といったような時代ではないことを正しく認識しておく必要があります。新しい技術の社会実装にはおそらく30ほどの法律、規格や認証といった課題が絡み、それに適合させることがその技術の社会実装の必須の条件になります。技術の安全性のみならず、利用の際のエネルギー消費や廃棄リサイクルまでふくめた、ライフサイクル全般にわたるルールや法律に適合させていかなければなりません。
繰り返しになりますが、規制は国際交易における強制規格です。些末な言い方をすれば、国際交易のビジネスルールです。だからこそ、CNTのようなまだ管理策が整っていない機能性材料、先端材料の研究開発では、国際標準化や規制化といったルールメイキングに積極的に関わり、それを新しいビジネス創出の契機としていくような動きが必要です。
●工医連携でナノテクノロジーが支える持続可能な社会を
医療の現場で使われる高圧酸素ボンベや点滴の器具には、ガスや輸液を患者さんに最適化するために、レギュレータが備わっています。レギュレーションとは本来科学技術が社会に適切に安全に実装されていくための指標のはずです。ところが英語の“Regulation”が日本語で“規制”と訳されるときには、本来の意味以上に制限や禁止といった負の意味が入り込んでいるような気がします。おなじことが“Risk”と“リスク”にも言えます。
これまで長年にわたって科学技術の研究開発施策として続けられてきた医工連携では、いろいろな課題を抱えつつも、医学のニーズに対して工学の知識や経験が効果的に活用されてきました。ナノテクノロジー研究開発が始まり4半世紀が経過したこれから、様々な新技術の共通基盤としてナノテクノロジーが本格的に展開する時を迎えます。
ナノテクノロジーが活用されるこれからの技術は、安全で環境負荷を少なくするような高度な工業規格や法的枠組みが必要になってきます。このような工学的ニーズに基づく枠組み作りは工学だけでは対応できず、毒性学、病理学、免疫学といった医学の知識や経験が不可欠になってきます。いうまでもなく医学の世界でナノマテリアルやナノテクノロジーに係る知の創出は重要です。創出した知を基にさらに一歩踏み出していただき、ナノテクノロジーを基盤とする豊かで安全、持続可能な社会を実現するために、工学と医学が連携して取り組むいわば工医連携が、新しい科学技術の社会実装のルール作りでも有効に機能することを期待してやみません。