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Vol.128 論文捏造疑惑

医療ガバナンス学会 (2011年4月17日 06:00)


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獨協医科大学神経内科 小鷹昌明
2011年4月17日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


当大学病院における論文捏造・二重投稿の疑惑問題に関して、同じ医療機関で働く人間として心苦しくとも一言論じる。
それは、「当該の研究グループが、2002年から11年にかけて海外の学術雑誌に掲載した生活習慣病などに関する計27本の論文の中に、1つの実験データを複数の論文に流用したことなどの不正な点が43ヵ所あった」と指摘されたものである。

これから述べることは、すべて私個人の意見であって、大学組織を反映した見解とは一切の関係を持たない。したがって、批判はすべて”小鷹”個人に及ぶべきものであることを予め述べさせていただく。事実に関する詳細は、やがて調査委員会から正式な発表があるのではないか。

論文捏造に対して、「科学実験は、結論を導く過程にこそ真摯な自己検証を必要とするものであり、結果を改竄することや他の実験のデータを流用することは けっして許されることではない。研究不正に基づく結論の学術的な価値は皆無であり、研究不正は本学術分野全体の発展を阻害するものと言わざるを得ない。ま た、このような不正行為は、科学者に対する社会からの信頼を著しく損なうものでもある。」という指摘は誠に辛辣、かつ正論である。
しかし、そこには幾ばくかの情状酌量の余地はないのだろうか。「ない」と断じるのは道理だが、捏造に至る経緯を自分の身に置き換えて想像してみることは、再発防止において有用な考察ではないだろうか。

私が研究を始めたのは、医師になって4年目、すなわち大学院2年目からであった。
当時の神経疾患の領域では、免疫性神経疾患の標的抗原が明らかとなり、各種抗体(ギラン・バレー症候群に対する抗ガングリオシド抗体や重症筋無力症に対 する抗MuSK抗体など)が矢継ぎ早に同定されたり、遺伝性の精神・神経変性疾患に対して3塩基リピート型遺伝子が発見されたりしていた。90年代後半 は、免疫や分子遺伝の研究が花盛りであった。
私は、「そうした先端研究に携わるのも面白いかな」という動機だけで、実験の手ほどきを受けに毎週土・日を利用して、”東京医科歯科大学分子医化学”の研究室まで通うことになった。
そこで、恩師とともに苦節十年の歳月をかけて(途中で恩師も本学へ移動)、人並みの研究成果を挙げ、邦文・英文・総説・症例報告・著書(学会誌と商業誌とをすべて含めて)において、200本程度の論文に名を連ねることができた。

そのような大学病院勤務医師として、あるいは医学研究者として、私なりの研究への想いと、その変遷とについて述べてみる。
学位論文が完成し、初めて医学雑誌への掲載が決定したときに私が思ったことは、「やっと終わった」という虚脱感だけであった。達成感や満足感というものとは、ほど遠い感情であったことを、今でも覚えている。
診療に差し障りのないように寝る間は惜しんだが、遊ぶ時間と食事の時間とを削り、隙間時間を利用して、「とりあえず終わらせなければならない」という一念だけで実験をこなしていた。
それは、ピペットを握っての単調な作業の繰り返しであり、”ある群とある群”とに分けて統計解析を重ねるという操作の連続であった。そこに、知的好奇心や先見的探求心などというものは、微塵もなかった。
つかみ所のなさのつかみどころをつかむために研究をしていたし、解らないということが判らないので分かろうとしないまま実験を重ねていた。「有意差」というひとつの結論を導くためだけに才知を投入していた。

そんな成りゆきで研究を始めたわけだが、不思議なもので、そのようなことを繰り返していると、「実験結果をまとめて学会で報告する」ということが、とりあえずできるようになる。
やがて、論文というものがどうにか書けるようになり、医学雑誌というものに投稿すると、「The manuscript is clearly written」などと査読されて、場合によってはminor revisionで採択してくれるようになる。
その分野で研鑽を重ねていくと、少し名前が知られるようになり、依頼原稿なども舞い込んでくるようになる。
有益なデータが得られずとも”旬なテーマ”であれば、「とりあえずこのような結果でした」という、どうでもいいような結論でも、上手に論文を書くことに よってネガティブデータとして運が良ければ採択されるようになる。やがて、「論文も書き方次第」というノウハウが身に付いてくる。Reviewerを上手 く説得させられるかが、論文採択の鍵を握るということに気付く。
私は、実験自体は少しも愉しくなかったが、きれいな実験結果が得られた場合に、それについて上手に論文を書き、雑誌に掲載されることは嬉しかった。だか ら、ひたすらピペットを握ることも認容できたし、膨大なデータを処理することにも酔狂できたし、論文を書くことにも熱中できた。とにかく形にすることで愉 悦を得ていた。

本末転倒と罵られようが、自分の書いた学説が活字化されて、段が組まれて雑誌にきれいに印刷されて、関連の学者たちの間で読まれている(はずだ)と妄想することに、無類の愉しみを見出すことができた。
そして、学会場かどこかで見ず知らずの医師から声をかけられて、「先生の論文を読み、参考になりました」などと言われれば、これはもう研究者冥利に尽きるというものである。

研究をしていても発表の場が与えられなければ、何もしていないことと同じである。それには、書かなければならない。書いて雑誌に採択されなければならない。当たり前のことである。
研究を重ねていくと、優秀な研究者であればあるほど、作業仮説を立てることができるようになり、次の結果のシナリオを描くこともできるようになる。「実 験する前に論文を書け」と恫喝されることは、自然科学界に従事する者であれば誰でも一度は耳にしたことのある燦然と輝く、”叱咤・激励ワード”である。
「実験を始める前に論文を書けば、必要なnもはっきりするし、予想に反した結果が出たとしても、それが間違いかどうかを検証しやすい。期待どおりの結果が出なかった場合でも、その実験は無駄にならない」ということである。

私は、自己満足であろうと、報酬や名誉,権威といった俗な精神であろうと、とにかく好奇心や自尊心を刺激する美酒に酔いたいと願うモチベーションがあるなら、研究者として続けられるような気がする。
サイエンスというのは本来そういうもので、「○○病の治療に役立つから」とか、「××症の診断に応用できそうだから」という近視眼的な目的のためにやっ ている研究者はむしろ少ないかもしれない。ひたすら「真理の追究と解明」に近づくことを目標に据えた研究者の方が,却ってひたむきで社会的貢献につながる 本質的な発見ができる可能性を秘めているような気がする。

ただその中で、私のように論文を書くこと自体が目的化されてきた場合には、要注意である。
医療を長くやっていると矛盾と葛藤に苛まれる。果てのない診療行為、すっきりしない治療効果、謂われないクレーム、努力が繁栄されない診療報酬などにより、士気の低下していくものがいる。
「業績や威信のためではない」と言いつつも、自らを鼓舞する方法として”研究をして論文を書く”ということに崇高な価値を見出すものがいる。論文の有益性は、インパクト・ファクターという可視化できる形で評価されるからである。

私は、これまで述べてきたように、大学院から始めた免疫性末梢神経疾患の発症機序に関する研究を一貫して行ってきた。研究を発展させるために英国にも留学した。
しかし、10年以上をかけて取り組んできた研究ではあったが、残念なことにその興味は最近になって急に失速していった。これから発展させたい研究テーマはあったが、意欲が湧かなくなってきたのである。
何故であろうか? 理由を分析してみると、「研究成果が、私たち医師の生活の質はおろか、目の前の患者の生活の質に寄与している」とうい実感が、まったくなかったからである。
もちろん、医学研究に即効的な効果は期待できないし、「辛抱や努力が足りない」と言われれば、その通りである。「役に立つ研究ができないだけで、お前が無能だからだ」とか、「医学的な貢献は、もっと長いスパンで評価されていくものである」という意見はもっともである。
私にとって10年以上の研究生活から解ったことは、皮肉にも「私の研究は、私の周りの人たちには何の変化も起こさせない」ということであった。

しかし、研究生活は私に思わぬ副作用をもたらした。それ以来、私は自分で自分にものすごく関心を抱けるようになった。”小鷹昌明”は、なぜ、このように着想し、推論し、妄想し、語り、ときに逸脱し、変遷していくのか。
おそらく私にできる研究は、私以外の人物でも手取り足取り教えればできるようになる。私は、「研究生活から培われたパワーとマインドとを、何に振り分ければよいのか」ということを考えるようになった。
やがて出したひとつの回答は、「医療現場で日頃感じている矛盾と葛藤とを、実態として語ることが、私の”代替不能の使命”であるに違いない」と勘違いし て、”もの書き”としてものを書き始めたことであった。それが、これまでの書籍の執筆への原動力となった。結局、医療エッセイの執筆を開始したことで、私 は研究者としての寿命を縮めてしまった。

いま私は、こうして文章を書いていることが、ある意味ひじょうに感興深い。
それは、論文を書くこと自体の目的が(自己満足的に)達成されていることがひとつと、書いた文章がインターネット・メディアに配信されたり、書籍としてまとめられたりして、それについての論評が手ごたえとして実感できるからである。

研究に対する知的好奇心に執りつかれなくなってしまった時点で、私は、大学病院勤務医師としては終焉を迎えつつあると感じていた。しかし、また、この書籍の発刊が思わぬ副反応をもたらした。
ここへきて、新たに”栃木県男女共同参画委員会のメンバー”や”医療安全対策課兼任課長”や”神経難病ネットワーク推進協議会の主要メンバー”などに選 出されてしまった。その理由がなんと、「小鷹先生はそういうものに関心が高く、造詣が深そうだから」という理由であった。
造詣を深めないために関心を寄せていただけであったが、人間の興味や好奇の”うつろい”というものは、案外そういうお膳立てによっても変遷していくものなのかもしれない。

論文捏造疑惑に話を戻す。
信頼に根ざした幾重にもチェック機能の働いているはずの医学界で、いったいなぜ捏造事件が起きてしまうのか、科学的に論理的に物事を処理していくはずの 医学界なのに、なぜ事実でないことが論文になってしまうのか、著者のことを怪しいと思っていても、どうしてそれを止めることができないのか、遅かれ早かれ 破滅が確実に訪れるように思える捏造に、どうして手を染めてしまうのか。
多くの人たちが指摘していることだが、「論文の捏造を同僚たちが見抜けないこと」、「研究者同士の暗黙の了解や信頼のナイーヴさが存在すること」、「科 学雑誌のpeer reviewが機能不全に陥っていること」、「共著者およびその研究室の人たちが捏造の最初の防波堤となるべきだが、”成果主義”という評価システムが入 り込むと、その防波堤が機能しなくなること」、「きちんとした監視機構がないこと」という、周辺システムの不備の問題を揚げる識者も多い。
しかし、「関係者の事情はさまざまかもしれないが、捏造する研究者がいて、それを承伏し、利益を得る者がいる」という構造以外に、温床はない。だから、 当の研究者の罪の意識は、案外乏しい場合が多いのではないか。「追認されない研究結果」というものはいくらでもあるし、捏造した結果が運良く追認されれ ば、その領域の仮説を先駆的に示せたことになる。どっちに転んでも、それほどの痛手を被ることはない。私ならそう考える。

正直に思うことは、科学研究が進化・発展を続ける限りにおいては、論文の捏造・盗用・改竄はなくならない。コンピューターに発生したバグのようなもので あり、いつの時代、どこの国でも不正は起きている。人間はプラスのインセンティブが働くからといって、必ずしも良いことをするとは限らない。しかし、ペナ ルティがなければ必ず悪いことをする。それは、もうまったく断言できる事実である。
不正を防ぐにはどうしたらいいか? 「倫理教育の徹底」などということを解決策にあげても意味がない。「皆さん注意しましょう」的なリスクマネジメント では危険は回避できない。不正が起きないように、あるいは起きてもすぐに判るようなシステム化を目指すことも重要だが、逆に「システムに頼ったがためにエ ラーが発生した」などという事件は枚挙にいとまがない。
残念だが、「不正は起こり得る」という立場で論文を把捉し、解釈しなければならない。

ただ、少しでも不正を減らしたいならば、不正をしてまで論文を書かなければならないという境涯を減らすことである。研究意欲が失われていくことは医療者 として、けっして恥ずべきことではない。そうした興味の変遷にも関わらず捏造を繰り返してまでも生き残ろうとする方が、本当に研究をするより余程ストレス フルな状況に帰結するだろうし、何よりも愉しくない。
抽象的な言い方かもしれないが、常に自分に関心を持ち続けていれば、そういう潮目の変わるときが必ず判る。方向を転換していく”潔さ”と”素直さ”とを持ちさえすればいいのではないか。
研究の不正を取り締まるシステムを構築するよりも、静かに自分の能力を振り分けられる柔軟性のあるシステムを擁護しておくことの方が、余程大切なことの ような気がする。特に医師なら、「研究以外にも貢献できる間口はいくらでもある」ということを自覚できないまま過ごすより、遥かに値打ちの高いことではな いだろうか。

論文の捏造や改竄は確かに良いこととは言えない。少なくとも「論文を書かない研究者には言われたくない」と思うことだろう。
ただ、私にとって残念なことは、「学術的な価値と信頼とを私利私欲で汚した」ということではない。興味や好奇の変遷を見誤り、捏造という形でしか自分の 立ち位置を確保できなかった、その不本意さである。”学術論文”という価値の絶対性にしか、自分の取り柄を自覚できなかったことである。

このような論述を公開すれば、批判は当然免れない。もっともありそうなのが、「お前に不正を語る資格があるのか」、「何様のつもりだ」という類の批判である。
もちろん、私は聖人ではない。どちらかとい言えば邪念に満ちた人間である。実際に私は、正しく認識していなかったとはいえ、2007年に発覚した科学研 究費補助金を”預け金”として業者に不正プールしたことで、ペナルティを受けている。当然、他人の論文捏造疑惑に対して、どうのこうのと言える立場には まったくない。しかし、だからこそ、そうした経験を経たものにしか解らない、変遷する研究のモチベーションについての心緒とその対応とを伝えておきたかっ た。

研究意欲が減退しようが、実験結果に不服が生じようが、グラントを獲得できなかろうが、学びを経た人間たちには何かが残る。上手に気持ちを切り換えて、次のステージに向かっていく光明を見出すしかない。
関係者内部の人間は、早くこの問題にケリを付けて再生したいと願っている。「だったらそっとしておいてやれ」という意見はもっともであるが、私がそうで あったように何かのケジメというか、終止符というか、そういうきっかけを得られないことには呪縛から逃れられない医局員たちもいるのではないか。
本稿を、ごく一部の当該科の事件関係者に捧げる。

編集部より:震災前にいただいていた原稿ですが、配信が遅くなりました

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