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Vol.25207 ボストン・ウェルネス通信その16 一瞬先の闇〜転倒から考える老いと自立

医療ガバナンス学会 (2025年10月30日 08:00)


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米国ボストン在住内科医師
大西睦子

2025年10月30日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

ボストンの隣にあるケンブリッジ市の静かなアパートで一人暮らしをしているジョン(72歳)。南部出身で、若い頃にボストンへ移り住み、弁護士としてキャリアを築きました。今は近くの大学で教鞭をとっています。物腰は穏やかで冗談好き、人を引きつける知性があります。ただし、頑固で、自分の人生を自分でコントロールしたいタイプでもあります。長年、私たち夫婦の親友で、週に一度は顔を見合わせる関係です。

2ヶ月前のあの晩のこと。今でも頭から離れません。夕食の約束をしていたのに、1時間たってもジョンが現れませんでした。最初は「仕事が長引いているのかな」と軽く考えました。ところが電話は留守電のまま。嫌な予感がして、夫とジョンのアパートに行くと、薄暗いリビングにジョンが倒れていました。机の角にぶつけたのか、頭から出血していました。私たちはすぐに救急車を呼びました。

アメリカでは、緊急のために信頼できる友人と、家の鍵を共有する慣習があります。幸い、そのおかげですぐにアパートに入り対応できました。ジョンをすぐに見つけることができましたが、「もっと早く気づけたかもしれない」、そんな罪悪感が心にのしかかりました。

●統計が示す「身近な危機」

ジョンは決して特別なケースではありません。米疾病対策センター(CDC)(1)(2)によると、米国では毎年、4人に1人以上もの65歳以上の高齢者が転倒を経験しているといいます。転倒は救急外来を受診する大きな原因であり、外傷性脳損傷(TBI)の最も一般的な原因でもあります。さらに約10人に1人は、日常生活が1日以上制限されるほどのけがにつながると報告されています。こうした数字は、統計の話ではなく、ジョンのような「隣人の人生」が一瞬で変わる現実を示しています。

さらに2025年8月の JAMAヘルスフォーラム(3)は、2023年には、65歳以上の41,000人を超える人が、転倒や転落で命を落としており、その数は、乳がんや前立腺がんによる死亡者数、そして交通事故、薬物の過剰摂取、その他すべての不慮の事故による死亡者数の合計を上回るほどと言います。しかも、ここ30年で、高齢者の転倒・転落による死亡率が3倍以上に膨れ上がっているという衝撃的な事実が示されています。

●日本の現場〜他人事ではない現実

この問題は日本でも他人事ではありません。厚生労働省の人口動態統計(令和4年)(4)によれば、日本でも高齢者の転倒・転落・墜落による年間死亡者数は、10,809人にのぼり、交通事故による死者の約5倍に達しています。

●単純は「老化」では説明できない変化

では、なぜこんなことが起きているのでしょうか。直感的には「年を取ると弱くなるから」と考えがちですが、JAMAでは、それだけでは説明できない、と指摘します。今日の高齢者が30年前の同年齢者よりも著しく虚弱であるとか、認知症やアルコール・薬物療法が圧倒的に増えている、家の中が散らかっているといった証拠は乏しいのです。米国では、独居率も2000年以降ほとんど変わっていません。つまり、何か別の新しい力学が働いている可能性があります。

●内的要因と外的要因のかけ算が生む危険

転倒による外傷は、しばしば「内的リスク」と「外的リスク」が重なって起きます。「内的リスク」は、身体機能障害(筋力低下、バランス障害、歩行困難など)、視力障害、認知機能障害、アルコールや薬物の使用。「外的リスク」は独居生活、家の中につまずきやすい物が散乱していること、照明、環境が挙げられます。これらの要素が「ちょっとした拍子」で、命に直結する事故に発展することがあるのです。JAMAは、こうした重なり合いの危険性を強調しています。

ジョンのような重度の頭部外傷、股関節骨折につながり、それが急速に状態を悪化させるケースは決して珍しくありません。

●処方薬の使用増加

一方JAMAでは、とくに米国での「処方の危険」と転倒による死亡の急増を警告しています。

注目すべきは、特定の処方薬の使用増加です。米国の65歳以上の成人の多くが処方薬を服用しており、2017年から2020年のデータ(5)では90%が処方薬を使い、43%が複数の処方薬を服用、45%が「不適切である可能性のある」処方薬を服用していたという報告があります。薬の種類や組み合わせが身体機能や意識レベル、バランスに影響を及ぼし、結果として転倒リスクを高めている可能性が指摘されています。

●眠気やバランス低下を招く薬FRID(Fall-Risk Increasing Drugs)

眠気やバランス感覚、協調運動能力の乱れを引き起こす薬は、「転倒リスク増加薬(FRID)」と呼ばれています。FRIDのリスト(6)は長く以下のような薬剤が含まれます。

•抗てんかん薬
•抗うつ薬
•抗精神病薬
•ベンゾジアゼピン系薬剤(不安や不眠の治療薬)
•オピオイド系鎮痛薬
•鎮静・睡眠薬
•抗コリン薬(パーキンソン病、排尿障害、作用の強い睡眠薬など)
•抗ヒスタミン薬(眠気を起こしやすい第一世代)
•血圧に影響を与える薬剤(めまいや起立性低血圧を引き起こす場合)
•筋弛緩薬

カリフォルニア大学サンディエゴ校の研究者らによるシステマティックレビュー(7)によると、転倒傷害を受けた高齢者の65%から93%(大きな幅があるのは、対象研究間でFRIDの定義が大きく異なっていたため)がFRIDを服用しており、抗うつ薬と催眠鎮静薬が最も多く処方されていました。

ジョンのアパートの机には、たくさんの処方薬が置いてありました。もしかすると、それが原因で転倒が起こったのかもしれません。薬剤の一覧をかかりつけ医や家族と一緒に点検し、不要な多剤療法を減らすことを慎重に進めるべきです。
●別の視点:診断や医療の進歩も影響している?

ニューヨークタイムズ(8)で、長年転倒を研究してきたイエール大学の老年医学者トーマス・ギル博士は、こうした薬の影響は否定しない一方で、「死因記載の変化」や「医療の進歩でより虚弱な状態で生存する人が増えた」ことを指摘しています。高齢者の死亡診断書には、転倒ではなく心不全などの病気による死亡と記載されることが多く、1980年代と1990年代の転倒による死亡率は低く見えていました。

ギル博士は「数年前までは、転倒は加齢による自然な結果であり、たいしたことではないと考えられていました」と指摘します。さらにギル博士は、現代医療によって人々の寿命が延びたため、今日の85歳以上の世代は30年前の高齢者よりも虚弱で病状が悪化している可能性があると付け加えました。

●ICUでの夜明け

病院のICUに運ばれると、医療チームはためらいなく速やかに処置を始めました。ジョンは意識が朦朧としていましたが、何度も「娘には知らせないでくれ」と繰り返していました。父親としての誇り、恥ずかしさ、そして自分の弱さを見せたくないという複雑な感情が混ざり合っていたのでしょう。けれども私たちは、どうしても娘さんに知らせる必要がある説得し、ついには連絡を取ることができました。翌日、娘さんが飛んできた瞬間、ジョンの顔に安堵が広がりました。同時に、事態の深刻さを受け止める覚悟も浮かんできました。

転倒が残すのは傷だけではありません。

「初めて転倒した人は、自立心を失うことを恐れて、誰にも話したがりません」「転倒について話し合い、その偏見を変えることが重要です。つまり、転倒は道徳的な失敗ではないという対話を持つことです。」と、全米高齢者法弁護士協会会長のエリック・アインハート氏はいいます(9)。

さらに多くの高齢者は、一度転ぶと「また転ぶのでは」という強い恐怖を抱くようになります。その恐怖から、外出や運動を控えるようになり、活動量がおち、筋力やバランスがさらに衰えます。結果として、転倒リスクが高まるという悪循環に陥るのです。

病院のベッドの上でジョンは、これまで当たり前にできたことを失うことへの喪失感と、これからの生活がどう変わるのかという不安に押しつぶされそうになっていました。

●空白の書類が露わにした「備え」の欠如

入院してからわかったのは、ジョンが医療代理人(Health Care Proxy)や委任状(Power of Attorney)を用意していなかったことでした。アメリカにおける医療代理人は、医療に関する意思決定を行う代理人を指し、委任状は、より広範囲な財産管理や法的な事項について、代理人が本人の代わりに権限を行使する公式な文書です。

私たちは思わず「まあ、ジョンらしい」と苦笑しましたが、現実的な問題を呼び起こしました。意思決定の委任がないと、緊急時に誰がどこまで決められるのか曖昧になります。

私たちは、急いで弁護士に連絡し、娘さんに権限を委任するための書類を作成しました。ここで改めて考えさせられるのは、元気なうちに「もしもの時」の準備をしておくことの重要性です。本人が話したくない理由は尊重しつつも、家族として最低限の備えをしておくことは、将来の負担を大きく軽くします。

●次の一歩〜リハビリ施設への移送と希望

ICUでの1週間は、奇跡と不安の混ざり合った日々でした。幸い命は取り止めましたが、医師の言葉は重く「しばらくは自立しての生活は難しいでしょう」。この一言は、これから始まる長いリハビリの日々と生活の再設計を意味していました。

私たちはまず、リハビリテーションが可能な施設を探して、ジョンを移すことに成功しました。リハビリでは、単なる身体の回復だけでなく、自立した生活や自分を信じるための心理的な支えも同時に育てるプロセスです。

●将来の自立〜日常に取り入れる「小さな習慣」と仲間の力

ジョンの娘さんが自宅に戻り、私たちはそれから定期的に連絡をとり合っています。友人としてできることは限られていますが、顔を出して話し相手になり、冗談を交わすことで、少しでも日常生活を取り戻してほしいと願っています。

ジョンの出来事は、年を重ねることの脆さを突きつけると同時に、助け合いの重要さを痛感しました。医療代理人や委任状の準備は重い話かもしれませんが、いざというときに家族の負担を減らし、自分の意思を守るための大切な備えです。元気なうちに「もしものとき」について短い会話を重ね、簡単な書類を備えておくことは、優しさのひとつとも言えます。

AARPの専門家が指摘するように「筋力とバランスは転倒予防の核心」です。

できるだけ体力をつけましょう。年齢を重ねるにつれて、以前ほど強くないことに気づかないかもしれません。特に体幹(胴体の周り)の筋力を強く保つことは、立ち上がりや歩行、姿勢の安定に直結します。手を使わずに椅子に立ったり座ったりするなどの簡単な運動は、体幹の筋肉を強化し、転倒予防に役立ちます。

以下のような工夫も大きな効果を生みます。

・毎日同じ時間に短時間の運動ルーチンを入れる
・運動のパートナーを見つける(友人、家族、コミュニテイ)
・進歩を記録する(ノートやスマホアプリで可視化するとモチベーション維持に有効)
・室内の環境を整理する(転倒の外的要因を減らす)
・小さな目標を設定する(達成感が次につながる)

私は、週末友人たちとランニングをして、その後にカフェでコーヒーを飲みながら雑談をしています。運動で体を動かし、カフェでお互いの近況を交換する。運動と社交がセットになるこで、お互いにモチベーションと友情が自然と保たれます。みなさんも是非、「将来の自立を守る」ために、健康の習慣を見直してください。
(1)https://www.cdc.gov/falls/data-research/facts-stats/index.html
(2)https://www.cdc.gov/falls/prevention/index.html
(3)https://jamanetwork.com/journals/jama-health-forum/fullarticle/2837039
(4)https://www.gov-online.go.jp/useful/article/202106/2.html
(5)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11217884/
(6)https://www.mayoclinic.org/healthy-lifestyle/healthy-aging/in-depth/fall-risk/art-20572713
(7)https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/32064594/
(8)https://www.nytimes.com/2025/09/07/health/falls-deaths-elderly-drugs.html
(9)https://www.marketwatch.com/story/more-older-adults-are-dying-from-falls-heres-how-to-reduce-the-risk-8c0517d3?gaa_at=eafs&gaa_n=ASWzDAhdvcUsPsdURFtNXHfKt9GgbtD-VybGj203bHSvdGzEM1kA3UkXO39wAitqgX4%3D&gaa_ts=68e667df&gaa_sig=yVgM6_XauM8KYgHy6xX7xPN1JKdqxgf-I-R2iiUaO-uSa6jqRHgxiqYWwHH2GXVWGpAMZpJDR9xV0pSqTalUfA%3D%3D

 

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