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Vol.25235 第1部 なぜ私は蘇生を止めたのか――ドクターカーの現場から続く内省

医療ガバナンス学会 (2025年12月11日 08:00)


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JA尾道総合病院/田辺クリニック/合同会社MONSHIN
田邊 輝真

2025年12月11日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

通報内容は「物置で首を吊っている家族を発見、意識なし」。救急隊が先に到着し、すでに車内に収容された状態で、私たちドクターカーを待っていた。呼吸はなく、初期波形は心静止。しかし、明らかな死後硬直や死斑(しはん)は認められなかった。教科書的には、「迷わず蘇生を開始して病院へ搬送」である。それが救急医療の文化であり、訓練でも身体に染み込んでいる判断だ。

だがあの日、私はそのアルゴリズムよりも先に、目の前の“空気” に動かされた。家族は声にならない混乱の中にいて、故人(傷病者)はすでに「いま亡くなったばかり」という印象ではなく、明らかに蘇生の限界を越えていた。私の心の底に、問いが湧き上がってきた。「この方に、これ以上の胸骨圧迫を加えることは、本当に望ましいのか?」「いま、ここで何を選ぶことが、この人にとって誠実なのか?」

その問いは、明確な医学的根拠に裏付けられていたわけではない。それでも私の直観と経験、その場の空気と表情のすべてが、「ここで無理な蘇生を続けることは違う」と告げていた。私は蘇生を開始しなかった。

判断には当然責任が伴うし、正直「これが正しかった」と胸を張れるわけではない。憔悴していたご家族に、私の価値観を押しつけてしまった可能性もある。その後は、調整の連続だった。現場から動けず、次なるドクターカー要請にも応えられず、死体検案書の作成や警察とのやり取りなどが重くのしかかった。上司にも迷惑をかけた。

それでも私は、あの日の判断を後悔していない。心臓マッサージで肋骨が折れる音を病院で何度も聞いてきた。1時間以上も胸骨圧迫を受けながら搬送されてきた症例も経験した。蘇生の限界を超えてなお、“ルールを守るため”に故人に苦痛を重ねてしまうことがある。死後CTは本来保険医療ではなく、撮影するためには「蘇生中の検査」と扱わざるを得ない場合もある。そのために胸骨圧迫を続けながらCT室へ向かう場合もある。だがその光景は、現場の医師として、そして一人の人間として、施設の一員として自分で判断しながらもどこか深い疑問を抱かざるを得なかった。

DNAR(蘇生処置を希望しない意思表示)やリビングウィル(本人の意思を記した文書)があっても、真夜中や慣れていない現場では判断が揺らぎ、“救急のスイッチ”は入ってしまう。私は、この地方の救急医が抱える矛盾の重さに心が耐えられなくなりかけていた。心と体がかけ離れた行為を続けると、いつか誤魔化しがきかなくなる。だからこそ、あの日の現場で、私は自分の心がどう動くのかを正直に見つめた。そして、内省するようになった。
―― この判断は何だったのか
―― 誰のためだったのか
―― 故人を大切にするとは何か
―― 救急医として果たすべき責任とは何か

この問いは、今も胸の奥底に残っている。あの日の経験は、私にとって「死因究明」をより深く考え始める転機となった。

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