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Vol.165 『ボストン便り』(第24回) 「パブリック・ヘルス(みんなの健康)のために」

医療ガバナンス学会 (2011年5月11日 06:00)


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細田 満和子(ほそだ みわこ)
2011年5月11日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


紹介:ボストンはアメリカ東北部マサチューセッツ州の州都で、建国の地としての伝統を感じさせるとともに、革新的でラディカルな側面を持ち合わせている独 特な街です。また、近郊も含めると単科・総合大学が100校くらいあり、世界中から研究者が集まってきています。そんなボストンから、保健医療や生活に関 する話題をお届けします。
(ブログはこちら→http://blog.goo.ne.jp/miwakohosoda/)

略歴:細田満和子(ほそだ みわこ)
ハーバード公衆衛生大学院リサーチ・フェロー。博士(社会学)。1992年東京大学文学部社会学科卒業。同大学大学院修士・博士課程を経て、02年から 05年まで日本学術振興会特別研究員。05年から08年までコロンビア大学メイルマン公衆衛生校アソシエイト。08年9月より現職。主著に『「チーム医 療」の理念と現実』(日本看護協会出版会、オンデマンド版)、『脳卒中を生きる意味―病いと障害の社会学』(青海社)。

公衆衛生/パブリック・ヘルス

私の現在所属しているところは、パブリック・ヘルス・スクールです。パブリック・ヘルスは日本語では公衆衛生と訳されていて、従来の疫学や統計調査を研 究しているところというイメージがありました。しかしパブリック・ヘルスには文字通り、「公共の健康」「みんなの健康」、という意味があります。医療が目 の前の一人ひとりの患者を対象にしているとしたら、パブリック・ヘルスは大勢の人を対象にするといいます。そして一人ひとりへの視線と大勢への視線、どち らの視点も重要だと考えます。
みんなの健康を守るためには、医療知識や良い技術があるだけでは十分ではありません。医療制度(代表的には健康保険、医療費)、衛生的な生活環境(上下 水道の整備、ごみ処理)、栄養(バランスのとれた適量の食事)、社会制度(道路での事故を予防するための交通規則、作業中の事故を予防する安全規則)、予 防のための健康診断、ヘルス・リテラシー(健康に関する知識や理解する能力)など、様々な角度からの取り組みが必要になってきます。つまり、みんなの健康 というのは、みんなで守ってゆくことで可能になるというのがパブリック・ヘルスの発想なのだと思います。

東海村の教訓

渡米する前の3年間、看護学生を対象に、社会学と生命倫理学を合わせたような講義を受け持っていました。毎年、講義の終盤にNHKの番組『被曝治療83 日間の記録~東海村臨界事故~』(2001年放送)をクラス全員で見て、議論をしてもらいました。ここには、医療、看護、公衆衛生において大事なことが沢 山詰まっていると考えたからです。
この番組は、1999年に起こったJOC東海村の原子力発電所事故で被曝した方の83日にわたる闘病の記録、そして医師や看護師たちの数々の挑戦と挫折 の記録です。被曝した方は、原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程で、臨界が起きて大量被曝をしました。発電所では、正規のマニュアルとは異なる簡 便な手順が日常的に行われるようになっており、この日もバケツから柄杓で溶液を扱うという作業を行っている時に臨界となったのです。
この方は、最初入院してきたときは、ちょっとひどい日焼け程度で、自分で歩けるくらいだったのに、その後、急激に体調を崩しました。妹さんから造血細胞 の移植が行われて、いったんは成功したかに見えたものの、やがて自身の細胞自体が放射能を発していたためか、妹さんからの細胞が破壊されてゆく事態になり ました。
画面に映し出された、ぼろぼろになった染色体の写真を今でも良く覚えています。通常、同じ長さの染色体が1対となり、23個並んでいるのですが、この方 の染色体は、途中で千切れたり、不規則に別の染色体と結合したりしていました。DNAが完全に破壊され、人の体を作る設計図が失われていたのです。

医療の限界

ご家族の希望を受けて、医療者はできる限りの治療を試みました。しかし、医療ができることは限られ、最終的に治療手段が無くなり、事故から83日後の1999年12月21日、多臓器不全によって亡くなりました。8シーベルト以上の放射能を浴びていたとのことです。
番組には、折に触れて医療者の言葉が差し挟まれていました。正確な言葉は思い出せませんが、ある看護師は「私は角膜の保護をしたいのではない、浸出液を きれいにしたいのではない。この方を助けたい、と思っているのだ」と言っていました。最後には、この方を担当した医師が、このような事態を招いた安全管理 体制の不備を強く批判して、「原発関係者に猛省を促したい」と言っていました。

この番組の映像が始まってしばらくすると、多少ざわめいていた教室は水を打ったように静かになります。みんな画面に食い入るように見て、終盤ではすすり 泣く声も聞こえてきます。実習を始めたばかりの看護学生には、きつい内容だったかもしれません。でも、自分がこの立場だったらどう振る舞うか、ご家族の気 持ちはどうだったかなど真剣に考えてくれていることが、議論を通してわかり、医療者としての心構えの一部を用意することができたのではないかと思っていま す。それはすなわち、健康を守るためには、医療だけでは限界があること、健康・命を大切にするような社会の意識や仕組みが大切であるということです。
こうしてJOC東海村の原発事故に当たった医師や看護師たちを通して、私自身、改めて人々の健康は社会全体で守るという視点が大事だと考えるようになりました。それがパブリック・ヘルスの概念にも通じると認識されるようになったのは、だいぶ後になってからでした。

福島原発事故と健康安全管理

今度の震災では、地震と津波という予測困難な事態が起き、福島第一原子力発電所は大きな事故を起こしました。JOCの事故から12年、原発関係者は作業 員の健康や命をどのように守るようになってきたのでしょうか。残念ながら、今までの報道や関係者の話から伺い知るところによれば、作業員への健康安全管理 は十分に行われていないようです。
4月12日の朝日新聞では、作業員は本来一人一人が放射線量を測る携帯線量計を持つことになっていますが、3月中は放射線量を測る携帯線量計が不足し、 グループで1台だけ持たせる状態が記されていました。体内被曝量に至っては、検査をしていないのでわからないという状況が長く続いています。4月28日に は産経ニュースが、厚労省が原発作業員の年間被曝量の上限を撤廃したことを伝えています。
厚労省では、3月中旬に作業員の緊急時の上限を100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに引き上げていますが、特にこの時、健康安全管理を強化し たという話はありませんでした。年間被曝量の上限撤廃の際も同様、リスクを上げた分だけ安全対策を設けたという話は聞こえてきていません。

造血幹細胞の事前採取と保存

このような状況の中、3月25日に虎の門病院の谷口修一医師は、万が一作業員が高レベルの被爆をした時の治療に備えて、自分の造血幹細胞を事前に採取す ることを提唱しました。また、細胞採取にあたっては通常は5日間かかりますが、未承認薬を用いることで、短期間で用意ができると提案しました。
被曝量が500ミリシーベルを超えるとさまざまな臓器に障害が起こり始めるといいます。特に血液を作る機能は失われやすいので、その細胞を移植するとい う治療がとられます。ただ他の人の細胞を移植すると拒絶反応の心配があります。そこであらかじめ本人の細胞を採っておいて保存し、高レベルの被爆をして移 植が必要となるリスクに備えるというのが、今回提唱された方法です。これは谷口プロジェクトと呼ばれています。
谷口医師は急遽首相官邸に呼ばれ、虎の門病院は原発作業者の自己幹細胞事前採取の体制を整えていることを報告し、仙谷官房副長官から未承認薬を使用する際の全面的支援の約束をとりつけました。そして3月29日には虎の門病院にて記者会見をしました。

しかしその直後、原子力安全委員会と放射線医学総合研究所の専門家への二度にわたる照会(3月25日、3月29日)の結果、政府は現時点では自己幹細胞 事前採取は必要ないと表明しました。日本学術会議東日本大震災対策委員会も4月25日に、「(事前採取は)不要かつ不適切」と発表しました。この方針は、 5月1日現在に至るまで変わっていません。不必要論の背景は、1.移植するほどの危険なところで作業することはない、2.国民のコンセンサスがない、3. 採取そのものにリスクが伴う、といったものです。

国内外で高まる関心

この原発作業員の健康リスク管理としての自己造血幹細胞事前採取の提案に関する論文は、4月15日にイギリスの権威ある医学雑誌ランセットのオンライン 版に、提出してから異例の速さで受理、掲載されました。それを受けて、アメリカではニューヨーク・タイムス、サイエンス、タイム誌、フランスではル・モン ド、ドイツや中国や韓国でも新聞雑誌等で取り上げられました。
このような高い関心の背景には、世界的に見て放射能の被爆に備えて造血幹細胞を事前に採取した例が未だないことが挙げられます。各誌ともこの方法に対する 賛否のスタンスは少しずつ違いますが、総じて、専門家の意見を引用しつつ、実施に当たっては不確実な要素も多いけれど、方法として考慮に値するといったよ うな論調が展開されています。
日本でも、新聞や雑誌で取り上げられるようになり、原発作業員の被曝の危険性への対処としてどのような方法なのか、現在政府や東電がどのような対応をしているのかといったことが紹介されています。

政府はこれまでのところ、幹細胞の採取は必要ないという態度を続けています。高レベルの放射能に被曝するほど危険な所には行かせないからだといいます。 しかし、原子力発電は安全だと言われてきたのですが、今回予測を超えたことが起こって事故になりました。谷口氏らは、予測できない危険に対して警戒して準 備をしておくことは必要で、医療専門職として正しいと信ずる最善のことをしたいという気持ちでこの提案をしているといいます。
谷口プロジェクトでは、ホームページを設け、内外のこのプロジェクトに対する報道や原発作業員の健康に関する情報を刻々と知らせています。また最近では、 一般の方にも理解しやすいように、平易な言葉での解説もホームページに載せています。さらにこの方法の危険性と利益とに関する情報を作業員の方に分かりや すく伝え、その上で本人の希望を聞くというインフォームド・コンセントの準備もしています。透明性と説明責任が重要だと考えているからです。それは、日本 学術会議に対して、公開討論会を呼びかけているところにも表れています。

「獅子のような心を持つ力ある者」

311以降のボストンでは、週末になると至る所で日本を支援するチャリティ・コンサートが開かれています。今日5月1日には、私の住んでいるチェスナッ ト・ヒルという町にあるユダヤ教の寺院、テンプル・エメスで行われました。この辺りは、第二次世界大戦中にリトアニア領事の杉原千畝氏によるビザ発給で、 ナチス・ドイツから難を逃れた方々やその子孫の方々がたくさん住んでいらっしゃいます。
コンサートの始めに、ラバイ(ユダヤ教の指導者)は杉原氏に言及し、「彼は6,000人のユダヤ人の命を助けてくれました。その子孫が今や4万人近くに なっています。今度は私たちが日本人を助ける番です」とおっしゃっていました。第二次大戦中の日本はドイツと同盟国であり、杉原氏は外務省から「ユダヤ人 難民にビザを発行してはならない」との回訓を受けていました。しかし彼は、こうした政府の命令に反して、自らの信念であったヒューマニズムと博愛主義を貫 き、ユダヤ人にビザを発行してきたのです。テンプル・エメスには杉原氏を讃える顕彰碑があり、「獅子のような心を持つ力ある者」という碑銘が刻まれていま す。杉原氏のなしてきたことは、私にとって幹細胞事前採取を提唱する医療者たちの姿と重なりました。
人道的な立場をとり、専門職としての責任を感じていたとしても、政府の反対することを推し進めることに逡巡があったことは想像に難くありません。この苦 しい心の内は、杉原氏自身も手記で書いていますし、通説によれば彼はこの件が元で、外務省から辞職に追い込まれています。幹細胞採取を勧める医療者たちも 同じです。彼らのメイル交換の中からも、制裁を懸念する気持ちがうかがえました。
さらに言えば、現行の政策に反対の論陣を張っている、リハビリテーション診療報酬制限撤廃を訴えたり、ポリオの不活化ワクチンを推進したりする医療者や 患者たちも、同様の不安な思いを持っているといいます。それでも彼ら/彼女らは、自らが正しいと思った道を、「獅子のような心を持つ力」によって進んで いっています。

医療ガバナンスとパブリック・ヘルス

近年、医療専門職たちが、政策や制度に対して意見を表明したり、異議申し立てをしたりしている様子がいろいろな場所で見うけられます。目の前の患者を助けるためには、社会全体の仕組みが整ってゆくことが必要と考え、実際に行動を起こしているのです。
また、患者の側も自分たちの望む医療、医療政策、医学研究の在り方を明確に訴え、行政や医療者を動かそうとしています。こうした医療専門職や患者の動きは、みんなの健康をみんなで守るという、パブリック・ヘルスを推し進めるムーブメントなのではないかと思われます。
このムーブメントには、哲学や宗教学や生命倫理学などの人文科学系研究者、経済学や政治学や社会学や人類学などの社会科学系研究者も入ってくるでしょ う。医療専門職と患者と人文・社会系研究者とは、従来はそれほど協働することはなかったかもしれません。しかし互いの分野を知り尊重し合いながら、みんな が良く生きられるための社会を作り上げてゆこうとしています。こうした動きは、医療や健康に関することを関係者みんなで話し合い、共通の目標を立てて実現 しようとする医療ガバナンスという概念にとても近いと思われます。

社会科学系研究者の端くれとしての私にできることのひとつは、既存の政策や制度を変えてゆこうとする医療専門職や患者の声を聴き取り、社会的な意味づけ をして、文字に書いて公なものにする(パブリッシュする、刊行する)ことだと思います。これが、私が参画(コミットメント)できるパブリック・ヘルスの形 なのではないか。ユダヤの言葉イディシュで歌われるコーラスを聞きながら、そう考えました。

朝日新聞(原発作業員の検査)

http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104110626.html

産経ニュース(原発作業員の年間被曝量上限撤廃)

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110428/dst11042802000002-n1.htm

MRIC (谷口修一「なんとしても原発作業員は守らねばならない」3月25日)

http://medg.jp/mt/2011/03/vol85.html

日本学術会議の自己造血幹細胞事前採取に関する見解

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/shinsai/pdf/housya-k0425.pdf

作業員の安全管理に関するランセットの記事

http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736%2811%2960519-9/fulltext

谷口プロジェクトのホームページ

http://www.savefukushima50.org/

杉原千畝の手記

http://www.chiunesugihara100.com/visa-kotob.htm

テンプル・エメスの杉原千畝の記念碑

http://www.templeemeth.org/AboutUs/InsideOurWalls/SugiharaMemorialGarden/tabid/167/Default.aspx

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