医療ガバナンス学会 (2011年12月6日 06:00)
このコラムはグローバルメディア日本ビジネスプレス(JBpress)に掲載されたものを転載したものです。
http://jbpress.ismedia.jp/
武蔵浦和メディカルセンター
ただともひろ胃腸科肛門科
多田 智裕
2011年12月6日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
●「請求権代位」制度の本来の趣旨とは
今回の訴訟は、保険金を支払った損害保険会社が患者に成り代わる「請求権代位」を利用し、医療機関から保険金の一部を回収しようとして提訴されたもののようです。生命に関わる多発外傷の救急治療という、かなり難しい状況であったとはいえ、もし医療側に後遺症に関わる重大な過失があるならば、その責任を医療 機関が一部負うのも当然だとは思います。
しかし、本来「請求権代位」は、被災者に火災保険金を払った損保会社が、火災の原因を故意に引き起こした放火犯に対して保険金相当額を請求する事案などを 念頭に置いて定められている制度です。故意に後遺症を遺そうとして治療に当たったわけではない医療機関にまで、このように保険会社が損害賠償を求められる ということが、私には驚きでした。これが拡大解釈されていけば、救急車の到着が遅れたり、善意の第三者の助け方が悪かったりしてなんらかの事故が起きた際にも、保険会社が後から損害賠償請求することが可能ということになってしまいます。
それは、「有責である第三者を免責にしないことが目的」であるはずの本来の制度の趣旨を大きく逸脱することになるのではないかと私は感じます。
●一番大切な原因究明と再発防止は置き去りに
さらに、自己利益を目的とする企業が原告となって医療事故の訴訟を行なうことには大きな問題があります。裁判そのものの目標が変わってしまうのです。
これまでの医療訴訟は、医療事故に遭われた遺族の方々が原告となって行われてきました。この場合、訴訟は「医療事故において命を落とした人の命に意味を持 たせる」ことが主眼でした。つまり、同じ事故が繰り返されないように、事実が隠蔽や改竄されることなく「原因分析と再発防止がなされること」を第一目標と して訴訟が行われてきたのです。
一方、営利企業である損害保険会社が原告となる場合、目標が変わってきます。すなわち、医療訴訟は「医療機関の過失分の損害賠償金を最大限獲得する」こと が第一目標と言ってよいでしょう。二度と同じことが起こらないようにどうすべきか考えることは、付随的なものにならざるを得ないのです。
その上、裁判の場で争われるのは、本質的には「過失があるかないか」「その過失が結果に及ぼした因果関係」だけです。その結果、裁判で決まるのは量刑と損害賠償金額だけになります。
例えば、横浜市立大学で1999年に起きた患者取り違え事件(心臓手術を受ける予定の患者に誤まって肺手術を行い、肺手術を受ける予定の患者に心臓手術を行った事件)において、長い裁判の後に決まったことは、ただ一点です。取り違えに関わった医師と看護師全員の「初歩的、基本的な確認を怠った」過失を認め、禁固刑ではなく罰金刑(25万~50万円)に処することでした。医師と患者の人間的関係を切り離し、営利企業が間に入って行なう裁判からは、横浜市立大学医学部附属病院の医療事故に関する事故対策委員会のような、複数の患者を同時に移送することの禁止や、患者識別バンド導入などの原因究明と再発防止策が生まれるとは、とても考え難いのです。
●企業の利益追求の権利を野放しにすれば医療は崩壊する
もちろん損害保険会社が訴訟を起こすことで、「患者が気づかなかった医療過誤が明らかになる」という側面もあるかも知れません。それでも、今回のように保険会社による訴訟が頻発し、請求が認められるようになれば、医療機関が損害賠償請求に備えて加入する保険料が高騰します。保険料の高騰に耐えきれず、リスクを避ける医療機関が増え、医療そのものが消滅してしまう可能性すらあるのです。
アメリカでの実例で言うと、訴訟の多い産科医が加入する損害保険の掛金が年間1200万円を超える事態となりました。収入の大半が保険金で消えることから、産科医がほとんど存在しなくなった州も出現しています。
民間保険会社の利益追求の権利を野放しに認めて、医療をねじ曲げてしまうほどにしてしまうのは、医師と患者双方に好ましくない結果をもたらします。この訴 訟をきっかけに、保険会社の能力や行動を監視する何らかの規制、または公的な関与が検討されてもよいのではないでしょうか?