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Vol.384 論説「よい発表、良い議論を行うために」―健全な発表と議論のためのルールと心得―(その2/2)

医療ガバナンス学会 (2012年1月27日 16:00)


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仙台赤十字病院医学雑誌20巻1号 p7-15、2012年7月発行、2011年1月より転載です。

仙台赤十字病院呼吸器内科
東北大学臨床教授
岡山 博
2012年1月27日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


(その1/2より)

●議論のしかた
1)議論とは何か
口演、講演、シンポジウムの価値は発表の価値だけでなく、発表された内容という共通の認識の上に、共通の結論を目指して良い議論をすることに価値がある。 厳密には、学会発表は発表するだけでなく、発表に対する質問や意見を受けて十分な回答をし、参加者に承認されて初めて発表した実績として成り立つ。研究方 法や論理、結論が不適切で、参加者から承認を得られなければ、正当に発表したことにはならない。参加者に承認されないレベルの低い講演はすべきではない。
健全な議論とは、新たなあるいは異なる提示された意見を出発点として、より正しい共有の結論を見出そうとする言葉の往復である。健全な議論をするために は、(1)一定の共通認識、(2)議論すべき異なる見解、(3)相手に対する信頼と敬意、(4)共通の結論を見つけようという意思が必要である。これが あって初めてよい議論は成り立つ。
講演や発表を聞き、質問をするということは、演者が提供した知識や考えを演者と参加者が共有する過程である。共有された認識を材料に、演者と参加者が対等 な関係で議論することが正しい議論の仕方である。議論をするためには、演者の結論と主張が明確に提示されることと、演者に対して、異なる見解が提示される ことが必要である。演者は質問や意見に対して的確、論理的で誠実な回答をし、再度発言者の意見や了解を求める。認識を整理し、深め、共通する結論を得るた めに、適切な言葉を往復させるということが議論の基本である。

2)発言、質問、回答、議論の仕方
意見の違いが無くては、良い議論は成立しない。良い議論をするためには、異なる正当な見解を作り、発言をする能力を高めて良い発言をすることと、良い発言 を、主催者、座長、演者、参加者が歓迎し、議論しようという基本姿勢が必要である。発語、発音の留意点は、口演の留意点で述べた。

口演を十分理解しなかったときにする質問・回答は、議論に必要な共通認識を作るための、基本知識や解説の提供を求める単なる解説依頼と解説である。これだ けでは議論ではない。必要なことは解説を聞くことではなく、良い議論をすることである。まっすぐに、真剣に、ていねいに、誠実に発言、議論する。的確に的 を絞り、簡潔な言葉で意見、異論、質問を簡潔・明確に述べる。感想や、発表内容と直接結びつかないことなどを述べたり、演説すべきではない。
相手に敬意を持ち、対等の立場で発言する。過剰な敬語や上下関係を規定する言葉・敬語は避ける。上下関係を作り、下からの卑屈な姿勢や、上から見下ろす無 礼な姿勢で発言すべきではない。感情表現や打算をいれないニュートラルな言葉、論理的で虚飾のない、明確、ていねい、穏やかな言葉を使うべきである。
質問や異論には、相手に敬意をもち、対等に、的をはずさない的確な回答をし、その回答に対して相手の意見・了解・意見を再度求めること、この言葉の往復が 発言、回答、議論の基本的ルールである。質問にきちんと的を得た回答をせず、質問者に「あなたはどう考えますか」と切り返すなどはすべきではない。
質問に対して、自分が一方的に回答しただけで、質問者が納得していないまま終了すべきではない。すり替え、ごまかし、威嚇、侮辱あるいは無視して相手に発 言をさせず終了させてはいけない。基本的には、回答が十分であったことを質問者に確認する気概を常に持っているべきである。自分の回答が了解されず、引き 続き質問や異論がある場合は、快く受け入れ、納得しうる回答、議論をすべきである。一回回答しただけで、それに対する反論や異議申し立てを歓迎しなければ 正当に回答したことにはならない。
演者への異論、反論は、敵対的発言でなければ、演者の発言を深めるものとして歓迎、感謝すべきである。欧米の文化、議論の場ではこのようなとき 演者や座長は”Thank you” と感謝した上で回答、運営することが多い。敬意を持つということは相手におもねることではない。相手を軽んぜず、穏やかな言葉で自分の判断と理由を明確に 回答し、その回答が的確であったかを質問者に確認承認を得ることを含め、発言者の再発言を求めることである。

日本の多くの学会や研究会では健全な議論が成り立っていない。多くは質問に対して演者が一回だけ一方的に解説やコメントするだけで、その回答が不適切で質 問者が同意しなくても、異議申し立てや、健全な議論に発展させることはほとんどない。これは質疑応答にさえなっていない。知識を補うためだけの、質問に対 する演者の一方的解説であり、異論を無視、排除するためのセレモニーであることが多い。演者と異なる意見を歓迎しない講演や議論は演者に対する無条件の同 調や思考停止を強要するものである。
発表、発言や回答に当たって嘘を言ってはいけない。事実に反して「予備実験をした」「再現性を確認した」、「ノイズは無視しうるほど小さかった」と言った り、意思がないのに「今後検討する」あるいは、他人の経験や文献で知った知識を自分が経験したかのように、あるいは少ない経験しかないのに多くの経験をし たスペシャリストであるかのような言葉がその例である。

正当な論点に対する質問、異見とは別に、質問の形で演者に対して以下の指摘がされることがある。結果の信憑性、結果に対する評価に対する異議、非論理性、 発表に当たって演者が当然もっていなければいけない知識の不足、理解・考え方の誤りの指摘などである。これらは質問の形をとっていても、内容は知識や論 理、結論の不足を質問者が演者に教えているか強い異議申し立てである。反論としての質問や異議申し立てが正当である場合、演者は質問者に謝辞を述べ、誤り をその場で撤回し、正すべきである。内容や発言態度によっては聴衆に謝罪すべきものもある。
再検討して答えを出す能力が不十分なために、その場で演者として適切な回答ができない場合は感謝して後日検討し、回答することもよい。言いのがれのため に、その意思もなく「検討中」、「今後検討」と答えてごまかすのはよくない。質問者より知識や考え方が劣っているにもかかわらず、質問者に教えるという態 度をとり、知識・認識不足を立場の違いであるかのように意図的に混同してごまかしてはいけない。教育的な講義・講演でも一般口演でも同じである。
意見や質問に回答したときは、自分の回答が質問のポイントをはずしていなかったか、相手が納得しない不十分、おざなりな回答ではなかったかを自己点検する。十分に回答する時間がない場合、演者は、発表終了後に自ら進んで、質問者が十分納得する回答をすべきである。

知識を得るための質問、解説は講演後でもかまわないが、議論は講演時間の中で、参加者を交えて行うべきである。時間がないといって座長が発言を制止し、異 議申し立てや議論をさせないことが多い。的を得た回答をせず、「時間がないから」、「あなたの言うことは分かりました。しかし私はあなたに同意しない」と 切り捨てる演者がいる。「言われた意味は理解した。分かった」と言葉の意味の理解の確認が必要なのは内容が難しく、理解が困難な場合のみである。そうでな く「分かった」というのは、分かったという結論を言うためではなく、同意、了解しない相手を高圧的に切り捨てることを正当化し見せかけるための言葉であ る。「分かった」と言ったら「だから」あるいは「分かったことに基づいて」と続けるべきである。
「しかし」と続け、相手や論理を切り捨ててはいけない。

教育的講演は、講演内容と洞察において、聴衆よりも演者が圧倒的に知識や力量が勝っている場合のみ成り立つ。小中学校や高校の授業、大学の講義はその例で ある。能力が卓越していなくても、経験して考えたことや、文献を読んで勉強した知識を演者として提供することは価値のあることであるが、この場合は教育的 講演ではなく議論のための話題・資料提供とし、提供した後は対等に議論することが良い。研究者あるいは指導者、専門家であるかのように、教師的立場で講演 しようということは適切でない。
演者が圧倒的力量を前提に指導的講演をした場合でも、演者に対する反論や、異議の提示があった場合はその時点で、教師・生徒の関係ではなくなるので、対等 な立場で議論すべきである。講演内容が稚拙で、指導になっていない場合でさえ、聴衆に対して「自分は選ばれた講演演者で、自分が上である」と考えて講演 し、質問には適切に回答せずに教師として解説しようとする演者がいるが正しくない。質問に対して正当な回答ができないとき、それを反省・解決しないまま、 別の場で次の講演を行う演者がいるがすべきではない。まじめで的確な異論を受け付けず、適切な回答、議論をする意思と能力がない場合は教育的講演の演者に なるべきではない。演者に責任があるとともに、演者を選んだ主催者にも責任がある。

客観的事実や法則の存在や正しさを知る人と知らない人の違いは、知識の違いであって考え方や立場の違いではない。議論に必要な客観的事実や法則を理解して いて初めて議論は可能である。参加者が議論するための知識が不足している場合、参加者は演者に、対等に知識提供を依頼してよい。演者は参加者に、有効な議 論を行うため議論に必要な知識を提供する義務がある。議論に必要な知識を演者自身がもっていないことに気づいた時は、演者は、質問者、発言者から教えても らい、謝辞を述べる、その上で議論に復帰する。知識の提供は議論ではなく議論の準備過程である。議論の対象は知識ではなく論理、考え方である。議論に当 たって必要な知識は互いに提供し、知識を共有した上で議論をすることが健全なあり方である。
相手を見下す解説はすべきでない。回答や解説は相手の発言を制止するためではなく、発言を促進、発展させるために行う。
正当な反論をする能力がない時、細かな数値や約束事の知識をひけらかして、論点をすり替え、相手の異論や反論を抑えるべきではない。正確さを要求することで相手の主張や発言を封じることは、代表的な反則技である。相手の発言を抑えようとする言葉は、全て誤りである。

日本文化では、事実と認識を区別しないこと、知識の有無と意見の区別を明瞭に区別しないことが往々にしてある。これは克服すべきである。この理解なしに正 当な議論はできない。自分の知識・理解不足を、「意見・立場の違いだ」と考えることや、説明されることを拒否して強引に押し切ること、それらを容認するこ とは、健全な議論を阻害する。
議論の前提となる基礎知識を提供しようとすると、「考えを押し付ける」、「理解しないのは、説明のしかたが悪いからだ」、「面倒な話しをもちこむな」など と、説明を受ける人だけでなく、聴衆や座長が、説明する人を非難、排除することがある。誤りである。知識の欠如は説明する側の責任ではなく、知識がない側 の責任である。会をこのように運営するのは、知識の欠如と考え方の違いを区別しないことと議論のルールを理解せず、恣意的に会や「議論」を進めようという 誤った認識と精神に由来するものである。

演劇鑑賞やスポーツ、会食などをするとき、ルールを無視して強引に押し通し、その場を仕切る(コントロール=支配する)人がいると、その場は台無しにな る。学会・研究会における発表や議論も同様である。自由で知的、健全、有効な議論を保障し、行うためには、ルールの理解と自覚と、ルール違反を容認せず、 知的で自由な議論の場を保障しあう参加者の自覚と発言が必要である。

議論や論理には、好き嫌いや個人の考え・立場とは関係なく客観的法則があるということを理解していれば、自分の論理が成り立たないときに、自分の論理・判 断の敗北を認め取り下げることができる。この場合、論理の誤りを認め取り下げることは、単に論理の敗北であって、相手に対する人格的屈服や非難を意味しな い。一方、論理が破綻しても撤回せず、強引な言動を続けることは容認されるべきでない。強引に続ければ、議論と会合を破壊することであり、不公正な人物と して人格的社会的評価を下げる。これが健全な議論のあり方であり、欧米では日常的な常識である。自分の意見に対して異論や反論が出た場合は、「相手の異論 が誤りであること」を論証して論破するか、自分の誤りを認めて撤回するかのどちらかだけが正当な回答・対応である。中間はない。あいまいな言葉を使ってご まかすべきではない。誤りがあった場合は、自分の誤りを認めて撤回することだけが正当な対応である。このような議論は健全に行えば、敵対、非難、攻撃など 人格的対決にはならず、楽しく議論できる。友好関係は損なわれずむしろ強まる。

●主催者・座長の役割
良い議論をするためには、座長と主催者が良い議論をしようという意思を持ち、議論に十分な時間を用意することが必要である。
座長の役割は、参加者からの適切な発言をていねい、適切に取り上げ、良い議論ができるように、発言を生かして、議論を発展させることである。十分な時間を 準備したのに、参加者から良い意見や質問が出ない場合は、参加者の一人として座長が良い意見、異論や質問を述べ、議論を引き出すこともよい。参加者に発言 させないことや、演者や座長による価値のない時間あわせの発言はすべきではない。
座長の役割は、質問、発言、回答が適切に行われ、ルール違反がないように注意し、健全な議論を進めることに責任を持つべきである。日本では、演者だけでな く、多くの場合、座長が率先してルール違反を行い、健全な議論を妨げている。参加者も、議論するのではなく、まるで生徒のように教えていただくことや、相 手の価値を低めるたにけちをつける、意見でなく感想を述べることなどを、良い発言であるかのように誤って理解し議論を妨げていることがある。良い議論をす る認識、自覚、技量がないことによる。
共通の結論に達しようという意思がなく、自分の思い込みや経験や教訓、感想を一方的に述べるだけの「活発な」発言は、見た目が活発でも良い議論ではない。日本では、多くの学会や研究会、シンポジウム、講演会が議論の場として機能していない。まずいことである。
「時間がありませんので」と言って発言を止めさせるのは時間がなくなったからではなく、主催者と座長が、あらかじめ、良い議論をするという意思をもってい ないことと、議論のための十分な時間を用意していないことによるものである。議論するためには、発表の倍か、少なくとも発表と同じ時間を議論の時間として 準備することが必要と私は考える。
座長は、「講演がなされ、若干の発言があり、つつがなく終わること」をもって自分の責任を果たしたと考えていることが多いが、誤りである。良い議論ができ たかに関心がなく「多数が参加し、成功しました」とまとめる座長はまずい。良い議論をすることを目標とし、座長の評価の基準にすべきである。共通の結論を 目指すことなく、見かけ上活発な発言があっただけの言葉のやり取りだけでは不十分である。

●まとめ
学会、研究会などで、発表、議論することをテーマに以下の考えを述べた。
1. 発表、議論は、日記や感想、随筆、ひとりごととは異なり、相手やそれまでの一般認識とは異なる自らの判断と、その判断が合理的であり価値があることを主張し、相手と結論を共有しようとする言葉の往復である。
2. 発表、発言、質問、回答、議論に際しては、相手に敬意を持ち、まっすぐ、真剣、ていねい、誠実な言葉で発言し、的をはずさない的確な回答を述べ、そ れが相手に了解されることが大切である。相手を威圧、ごまかし、切り替えし、はぐらかし、無視など、自分の発言や回答に対して、異論や発言を制止すること はルール違反で健全な議論を阻害する。
3. 座長、司会者は、かみ合った的確で健全な議論をすることを最大の役割と考えて会を運営すべきである。座長が議論を妨げる運営をしてはいけない。

学会や研究会活動において、優れた言葉を使い、健全で有効な発表と議論をするためには、言葉、論理、議論についての基本的知識と能力、自覚を持ち、発言することが必要である。
健全で有効な発表、議論は、一人ひとりが「自分は、自分ならこう考える」という自分の見解と、的確に主張する能力を持って自覚的な発言をし、健全な議論を 大切にする文化を持って初めて可能になる。より深い真実に迫る、知的で自由な発言、健全な議論は楽しくできるものである。学会発表や論文発表と議論は知的 言論活動そのものである。
価値ある学会、研究会活動、発表活動に役立つことを企図して、発表と議論の仕方についてまとめ、考察した。

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