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Vol.398 南相馬市、『攻めの医師募集』プロジェクトの提案~医療再建を目指し、今年2月1日開始(その1/2)

医療ガバナンス学会 (2012年2月11日 06:00)


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この文章は、m3の医療維新に掲載されたものです。医師の採用手続きの簡素化に伴い若干の変更を加えました。

亀田総合病院副院長
小松秀樹
2012年2月11日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


●原発事故による医療従事者の離職
福島県南相馬市が含まれる相双医療圏は、従来、医師の少ない地域でした。ウェルネス二次医療圏データベース(厚労省の2010年「病院報告」に基づく)によると、2010年の10万人当たりの勤務医数は、全国149人、福島県125人に対し、相双医療圏は87人でした。

南相馬市の2011年3月11日の人口は7万1559人でしたが、福島第一原発事故の後、居住者が1万人程度まで減少しました。南相馬市の南部、小高区の 大半は原発20km圏内の警戒区域に指定され、住民は全員避難しました。この地域の病院・診療所はすべて閉鎖されました。原町区の大半は20-30km圏 の屋内退避区域(後の緊急時避難準備区域)に指定されました。その後、西側の山間部は、計画的避難区域に指定され、全住民が避難しました。緊急時避難準備 区域では、入院診療が認められなくなり、ほとんどの医療機関で外来診療もストップしました。原発が落ち着くにつれて緊急時避難準備区域に住民が戻りました が、4万人程度で横ばいになりました。緊急時避難準備区域の指定が解除された後も、2011 年12月段階で、3000人ほどの増加にとどまっています。

南相馬市全体で、震災前に8病院、38診療所が稼動していましたが、8月23日段階で、2病院、13診療所が閉鎖されました。現在、入院診療を実施してい るのは、原町区の3病院と30 km圏外の鹿島区の1病院だけです。震災前の許可病床数は総計で一般病床695床、療養病床276床でしたが、8月12日の実入院患者数は、一般病床 188人だけで、居住者数に見合っていません。介護施設の復旧も遅れています。震災前、介護老人福祉施設3、介護老人保健施設2ありましたが、それぞれ1 施設になりました。短期入所施設は10施設あったものが、1施設になりました。20-30 km圏の5病院では常勤医師の57%、常勤看護師の55%、その他の職員の42%が離職しました。
2011年12月現在、実入院患者数が8月に比べて増えたものの、大きな改善はみられていません。逆に、12月いっぱいで人手不足のために閉鎖される医院 があります(番場さち子「地域医療なくなる不安~南相馬市の現状http://medg.jp/mt/2011/12/vol341.html)。看護 師、事務職員がいなくなり、父と娘の二人の医師が、受付、事務、看護師、薬剤師の仕事を兼務していましたが限界になりました。

2011年12月14日、福島県立医大の整形外科医局が、南相馬市立総合病院の要請に応たえて、2012年1月半ばより、整形外科医1人だけですが、派遣 を再開するという情報が入りました。この律儀さは称賛に値します。私は、南相馬市立総合病院の支援者として、整形外科医局には深く感謝します。赴任してく れる医師を見つけるのは、容易ではなかったと想像します。福島県立医大の学長が整形外科医なので、福島県からの医師派遣要請に応えざるを得なかったのだと 想像します。しかし、多数の医師が、福島県立医大の医局を離れたとみられており、福島県立医大に頼るだけでは、十分な医師を確保できません。そもそも、福 島県立医大の学長には、個別の医局の人事に対する影響力は期待できません。
その後、福島県立医大から消化器内科医も派遣されることが決まりました。循環器内科も非常勤とはいえ、週3日間派遣されることになりました。福島県立医大には深く感謝します。

●坪倉正治医師と高橋亨平南相馬市医師会長
震災後、長崎大学、諏訪中央病院など、様々なグループの医師たちが、南相馬市に入って地域の医療を支えました。福島県立医大の医師も、南相馬市立総合病院の当直の一部を引き受けています。
以下、私が良く知っている二人の若い医師の活躍を紹介します。
坪倉正治医師(29歳)は東京大学出身の6年目の医師です。亀田総合病院で初期研修を受けました。今は東京大学医科学研究所の大学院生で、血液内科医で す。2011年4月より相双地区に入り、5月からは南相馬市立総合病院の非常勤医師として、ホールボディーカウンター(WBC)による内部被ばくの検査、 小児の尿中セシウム検査、健康診断、放射線被ばくについての健康相談を行ってきました。チェルノブイリ事故後の内部被ばくの状況を調査するために、ウクラ イナにまで出かけてきました。

南相馬市にWBCを導入するきっかけを作ったのは、南相馬市医師会の高橋亨平会長です。原発事故後、日本中でWBCを探しました。南相馬市が鳥取県からバ ス式のWBCを借りましたが、測定限界が高く、低線量の内部被ばくを検出できませんでした。南相馬市が、高性能のキャンベラ社製のWBCを購入しようとし たところ、放射線医学総合研究所の規格に合わないとして、販売を断られました。高橋会長は、持ち前の突進力でこれを突破して購入しました。この装置によっ て、測定限界値が下がり、信頼性の高いデータが得られるようになりました。高橋会長は、この間の経緯について書いた文章を、以下のように締めくくりまし た。

戦いは終わった。あとは後輩達が、正しい科学的な、世界に恥じない、データと治療法を開発できると信じている。
(「ホールボディ―カウンターとの戦い」http://medg.jp/mt/2011/12/vol343.html )

ここに書かれた後輩達とは、南相馬市立総合病院の金澤幸夫院長、及川友好副院長と坪倉医師のことです。11月末、私は、高橋会長を訪問しました。進行がん を患っておられ、数日後に入院されるとのことでした。しかし、ライオンのようなごつい顔を嬉しそうにほころばせて、しっかりしたデータが得られたことを喜 ばれていました。孫のような年代の坪倉医師のことを、目を細めて誇らしげに語っていました。
私は、放射線医学総合研究所の「規格」なるものがどのようなものか承知しませんが、これがなければ、南相馬市にもっと早くキャンベラ社のWBCが導入できたはずです。
この「規格」の詳細と、「規格」ができた経緯、「規格」に則った機器の性能、すなわち、測定限界値、データの精度、一人の検査にかかる時間などを検証する必要があります。
坪倉医師は、キャンベラ社製WBCを用いて、南相馬市の小児の約半数に内部被ばくが認められるものの、ウクライナに比べて、内部被ばくの程度が極めて軽微 であることを明らかにしました(『内部被曝量、子供と成人で減少幅に差』を参照)。現時点では、被ばくより放射能トラウマによる健康被害が深刻であると見 ています。今後の被ばくによる健康被害を防ぐためには、食品検査と内部被ばくの検査の徹底が不可欠であると訴えています。

●原澤慶太郎医師と仮設住宅
原澤慶太郎医師(31歳)は慶應義塾大学出身の8年目の医師です。亀田総合病院で初期研修を受け、その後も勤務しています。坪倉医師の2年先輩で、旧知の 間柄です。もともと外科医でしたが、思うところがあって、震災の1年ほど前に家庭医診療科に専攻を変えました。2011年11月より、亀田総合病院から、 南相馬市立総合病院に出向しました。
原澤医師は、赴任する前に南相馬市の状況を観察して、仮設住宅を担当したいと希望しました。必要な医療サービスが届いていない人たちが多く、家庭医とし て、貢献できると思ったからです。南相馬市の仮設住宅には12月22日現在、4489人もの被災者が暮らしています。原澤医師は、本格的な冬を前にして、 住宅が寒いこと、生活が近接していることから、インフルエンザワクチンと肺炎球菌ワクチンの予防接種が必要だと考えました。当初、市役所は、「仮設住宅の 集会所での医療行為を認められない」「市としては協力できない」「開業医の先生方に迷惑がかかる」「医師会は許可しないと思う」などと原澤医師の計画に反 対しました。
肺炎球菌ワクチンは、日赤が提供してくれました。インフルエンザワクチンは不足していましたが、彼は、自分で動いてワクチンを調達しました。前述の高橋南相馬市医師会長に直談判したところ、医師会長からは、反対どころか、逆に感謝され、激励されました。

仮設住宅の住民には、ワクチン接種の必要性を説明して回りました。社会福祉協議会、看護師、病院の事務職員などを組織して、予防接種を実現しました。11 月26日以後、12月末まで、毎週末、南相馬市内の仮設住宅の集会所で集団接種が行われることになりました。毎回数人の亀田総合病院の医師が、はるばる千 葉県からこの活動に参加しました。南相馬市立総合病院のベテラン外科医、根本剛医師が、若い医師の活動に重みを添えました。原澤医師と個人的に知り合った 福島県立医大出身の若い医師たちも、入れ替わり立ち替わり、この活動に個人的に参加しました。
相馬市にも仮設住宅があり、相馬市、南相馬市、浪江町、飯館村の被災者が住んでいます。飯館村からの依頼がきっかけになり、12月11日、12日に相馬市 の仮設住宅でも予防接種を行う計画を立てました。ところが、12月6日、相馬市医師会が自分たちで引き受けるとして、強く反対したため、計画が中止になり ました。しかし、個人開業の医院を受診した被災者への接種だけでは、仮設住宅で集団接種を実施した場合の接種率には達しません。相馬市医師会は大きな責任 を背負いこみました。これは、相馬市医師会が、地域住民のために、今までにない大きな役割を果たすチャンスです。今後の新たな取り組みと成果を期待しま す。

相馬市医師会の反対は、別の展開を生みました。仮設住宅には、震災での体験を引きずって立ち直れていない方、運動不足と偏食で体調を崩されている方が大勢 います。原澤医師は、予定をキャンセルしないでそのまま人を集め、南相馬市の既に予防接種に訪問した仮設住宅で、戸別訪問活動を展開しました。前回接種で きなかったけれども、接種を希望している住民の掘り起こしと、住民の健康聞き取り調査を敢行しました。この日だけで、早急な医療介入が必要な方が数人見つ かりました。
東日本大震災の1カ月後、石巻で、亀田総合病院の小野沢滋医師が中心になって、被害のひどかった地区(元世帯数1万1271世帯)の全戸調査が、300人 のボランティアによって行われました(「石巻ローラー作戦」http://medg.jp/mt/2011/04/vol135.html)。これによ り、何らかの医療を必要とする方が274人見つかりました。原澤医師は、この時の調査票を改変して、新たに調査票を作成しました。これは、今後の、仮設住 宅での医療の基礎になります。

この日の原澤医師の最大の収穫は、看護師からの感謝の言葉だったそうです。このような訪問活動をしたいと思っていても、きっかけがなく、できなかったとの ことでした。看護師の中にも、被災者がいます。私が参加した11月26-27日の第1回目の集団接種で、私と一緒に作業したのは、全住民が避難した小高区 に住んでいた看護師でした。小高区の知人たちとおしゃべりをしながら、作業をしていました。
今後、仮設住宅の医療・介護のための組織が整えられ、住民の健康を守るためのプロジェクトが計画されるはずです。12月11日、亀田総合病院の初期研修医 や福島県内の若い医師たちが、生き生きと働いているのを現地で見て、この国はまだ捨てたものではないとうれしく思いました。

●インセンティブ
政府にしても、医局にしても、南相馬市に、むりやり医師を派遣しようとすると、大きな軋轢が生じます。結果として、必要な医師を集めることはできません。 集められたとしても、十分に働いてもらえません。しかし、医師のみならず、若い医療従事者の中には、自分が必要とされている地で活躍したいと願っている者 が大勢います。2011年11月より、原澤医師と一緒に、亀田総合病院から、大瀬律子作業療法士、山本喜文理学療法士が志願して南相馬市立総合病院に出向 しました。他にも10人以上、志願者がいます。

震災前より、南相馬市の医療には決定的に医師が不足していました。南相馬市立総合病院の許可病床数は、230床でしたが、実際に稼働していたのは、180 床でした。震災前の医師数は、常勤医12人、非常勤医9人でした。入院患者100人当たり、常勤医師数6.7人です。これは若い医師からみるとびっくりす るほどの少なさです。これで24時間、救急患者を受けると、医師は疲弊します。このまま医師を募集しても、誰も応募しないと思いました。ちなみに入院患者 100人当たりの医師数は、国立大学病院53.1人、都道府県立病院23.9人、市町村20.2人、日赤24.6人、厚生連18.4人、国立病院機構 13.4人です(国立病院機構以外については、厚労省の平成20年の「病院報告」による。国立病院機構については、平成21年度患者数と平成22年1月1 日現在の職員数より算出)。私の勤務する亀田総合病院は47.0人(2011年4月1日)です。入院患者100人当たりの医師数が6.7人では、提供でき る医療の質が違ってきます。せめて20人程度にはする必要があります。
亀田総合病院からの出向だけでは、到底この地域の医療は再建できません。亀田総合病院も、長期間、支援できるわけではありません。この地域で医療提供サービスを継続するには、どうしても、地域の病院が自立する必要があります。

実は、日本最大の医師の人事システムである医局制度が、時代に合わなくなっています。医局に所属する医師がすべて、医局に適応できているわけではありませ ん。多くの医師が、医局講座制の中でキャリアを積んでいくことに、閉塞感を持っています。医局に適応できない医師の方が、しばしば、自立的で活動的です。 この状況と個々の医師のインセンティブが合わされば、医師を集められる可能性があります。
医局になじめない医師に、医局と異なる性質の人事システムを示して、医局を離れても、きちんとした卒後教育が受けられること、能力次第で、立派なキャリア 形成が可能であること、被災地で活躍することが、キャリア形成のための勲章になることを理解してもらうことができれば、医師を被災地に集めることができま す。坪倉医師や原澤医師は、若い医師の新しいロールモデルになりつつあります。彼らの活動が伝説になれば、日本の若い医師の行動が変容し、医療は大きく変 わります。

従来の医学部では、臨床の教室であっても、臨床より基礎研究が一段上だとみなされてきました。多くは生物学的手法を用いた研究でした。医療を進歩させるの に研究が重要であることは間違いありませんが、臨床医にとって、目の前の患者に医療を提供することはもっと重要です。さらに、一人の個人が、基礎研究と臨 床を両立させることは不可能です。研究上の業績で臨床現場の地位が決められるとすれば、弊害がでてきます。そもそも、二流以下の研究にはほとんど価値があ りません。しかも、臨床の教室で、一流の研究成果を出すところは稀なのです。

(その2/2へ続く)

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