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Vol.408 行政から科学を守る

医療ガバナンス学会 (2012年2月20日 06:00)


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亀田総合病院 小松秀樹
2012年2月20日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


福島第一原発の事故で、行政は、被害状況を隠蔽した。被害を隠すことの意味は、突き詰めると、社会の安全を高めることではなく、自らの責任逃れのためだったように見える。あるいは、人格を持った個人の判断が介在することなく、官僚の習性が一人歩きしただけかもしれない。東京電力、原子力保安院、原子力安全委員会は、原発事故による広汎な放射能汚染の可能性を公表しなかった。各地でヨウ素剤の内服のチャンスを逸した。一連の不作為により、将来の小児の甲状腺がんの発生を増加させた可能性がある。

後述するように、行政は、規範重視で、事実の認識を判断の出発としない。このため、規範に合致しているという言い訳が成り立てば、簡単に隠蔽行動に走る。
科学者はどうだったのか。行政官の権威勾配の下に組み込まれた科学者は、当然のように抑圧された。

文部科学省は、SPEEDIによる放射線物質の拡散の試算を、米軍に提供していたにもかかわらず、公表しなかった。このため、原発から北西方向の高度汚染地域に住民が避難した。SPEEDIには科学者が関わっていたはずだが、科学者の声は表面に一切出てこなかった。
気象研究所は、大気中の粒子の放射能観測を、半世紀も前から継続していた。3月15日、大気中の放射線量が急上昇した。継続的な観察データは、何が起こったかを推測するための重要な手掛かりとなる。ところが、3月31日になって、文部科学省が次年度の予算を凍結した。翌日から観測を中止せよというのである。観測の中心メンバーは他の研究機関の支援で観測を継続した。観測データをまとめた論文をネイチャー誌に発表しようとしたところ、気象庁と気象研究所の研究畑ではない管理職が差し止めた。
本来、自由でなければならない学会までもが、批判精神を放棄した。原子力ムラの学者だけではない。日本気象学会は、3月18日、「学会関係者が不確実性を 伴う情報を提供することは、いたずらに国の防災対策に関する情報を混乱させる」「防災対策の基本は、信頼できる単一の情報に基づいて行動すること」とする 新野宏理事長の声明を発表した。

ニクラス・ルーマンによると、「学問がその理論の仮説的性格と真理の暫定的な非誤謬性によって安んじて研究に携われるようになるまで、学問研究の真理性は 宗教的に規範化されていた」。科学における正しさは研究の対象と方法に依存している。仮説的であり、とりあえずの真理である。ゆえに議論や研究が続く。新たな知見が加わり進歩がある。「信頼できる単一の情報」とは、行政による学問研究の規範化に他ならない。地動説を唱えたガリレオに対する宗教裁判は、学問 研究の真理性の宗教的規範化の最も知られた例である。

2011年4月2日の朝日新聞は、山形俊男東京大学理学部長の言葉を紹介した。
「学問は自由なもの。文書を見たときは、少し怖い感じがした」

日本のアカデミズムは、研究費と名誉を求めて行政にすり寄り、行政は、研究費、研究班の班長職、審議会委員の職などを通じてアカデミズムを支配してきた。 このため、日本の学会ボスには批判精神を期待しにくい。批判精神のない科学はもはや科学の名に値しない。行政の持つ論理構造では、科学的判断はできない。 研究者は、自ら何が正しいのかを判断し、自らの責任で公表しなければならない。

社会も、行政から理不尽な圧迫を受けた研究者を、孤立させずに支える必要がある。筆者もささやかながら、行政と科学者の争いを側面から応援した。南相馬市では、内部被ばくのデータを公表したことを守秘義務違反として、総務省から出向している副市長が医師を叱責した。これに対抗するために、副市長とのやり取りを公表し、ジュネーブ宣言を論拠とする反論を提示した(「村田メールと旧内務省」MRICメールマガジVol.350, 351
http://medg.jp/mt/2011/12/vol35012.html#more, http://medg.jp/mt/2011/12/vol35122.html#more )。多様な応援があって、副市長の動きは止まった。

現代社会は機能分化の進んだ社会である。世界社会は世界横断的な巨大な社会システムの集合体からなっている。それぞれの社会システムは独自に正しさを形成し、日々更新している。
ニクラス・ルーマンはこのような社会システムを大きく二つに分類した。規範的予期類型(法、政治、メディア)は物事がうまく運ばないとき、自ら学習せず に、規範や制裁を振りかざして相手を変えようとする。これに対し認知的予期類型(科学、テクノロジー、医療など)は物事がうまく運ばないとき、自ら学習し て、自らを変えようとする。認識を深め、知識・技術を進歩させる。
法学的には、統治権は国家に帰属する。統治権を行使するための意思表明(法律の制定、行政処分、判決等)は国家=法人格の機関(国会、内閣、裁判所等)により行われる(高橋和之)。ケルゼンは、国家は、法秩序としてしか存在しえず、法秩序と別個に法を制定する主体として、あるいは、法に拘束される対象として国家が存在するわけではないと主張する。国家イコール法秩序なのである。
ケルゼンの考え方は誤解を与える。個々の社会システムが巨大化した現代社会において、法がすべての社会システムを覆うような規範の大体系を提示できるはず がない。医療や科学がその機能を全うするためには、自由な活動領域が必要である。科学は帰納を基本とする。演繹を基本とする法とは言語論理体系が根本的に異なる。行政、司法が自らの特殊性を認識せずに、科学を乱暴に扱ってきた。これが社会の安全を阻害している。ルーマンの言葉には深い真理がある。「国家も また、特殊的組織として普遍主義的に振舞うという要請に服する。(個々の社会システムの形成した合理性を尊重しなさい)  国家が機能的分化と特殊的普遍 主義の論理に従わないときは(個々の社会システムにおける正しさを無視すれば)、世界政治のアドレスとしての資格を自ら減少させることになる(信用と権威 を失って国家としてやっていけなくなる)。」
科学者に能力を発揮させるには、アメリカのように行政組織とは切り離すべきである。これは科学を理解しない行政官を不祥事から守ることにもつながる。

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