医療ガバナンス学会 (2008年12月25日 11:40)
●事件の経緯
08年12月19日の各紙の報道によれば、国立循環器病センターで補助人工心臓を
装着した少年が死亡した問題について、厚労省内に事故調査委員会を設けること
が決められた。この少年は回復が望めない拡張型心筋症のために、心臓移植まで
のつなぎとして補助人工心臓が装着されていた。
以下、毎日新聞から抜粋する。
「国立循環器病センター(大阪府吹田市)で昨年春、補助人工心臓を埋め込む
手術を受けた男性(当時18歳)が呼吸停止に陥った末に死亡した問題で、厚生労
働省は18日、遺族側の要望を受けて、第三者による事故調査委員会を省内に設け
ることを決めた」。
「同省医療安全推進室は『遺族に内部調査への強い不満があり、客観的な検証
が必要と判断した』としている」。「この問題で同センターは、内部の検討会で
『医療事故ではない』との結論を出している。人工心臓の臨床データを取る治験
への協力についても、17日に開いた会見で『家族の同意は得られていた』との認
識を示している」。
「これに対し遺族側は『急変時に医師は直ちに対応してくれず、原因の説明も
一切なかった。検討会を開いたことすら教えてもらえず、調査は信用できない』
と反発」。
患者や家族が医療に疑問や不満がある場合、病院は誠実に答える義務がある。
私の勤務する虎の門病院では、外部委員を含む院内事故調査委員会が調査をして、
その結果を患者に説明する。調査結果の公表についても、ルールが決められてい
る。病院の説明に納得が得られない場合、一般的には、患者側が裁判に持ち込む。
法廷では、双方が疲れ果てるまで徹底した争いをすることになる。また、患者家
族の問題の捉え方、医療の実情、法の論理がそれぞれ食い違うため、議論が噛み
合わず、当事者の納得が得にくい。
●補助人工心臓
日本では補助人工心臓を装着して心臓移植を待っていても、ドナーがめったに
現れず、心臓移植が実現する可能性は極めて低い。補助人工心臓の装着は、心機
能の低下のために生命維持が困難になった症例に限られる。装着していることそ
のものに大きな危険を伴う。
いったん、合併症が起こると、耐え難い苦痛を伴ったり、人間の尊厳を貶める
ような悲惨な状態になったりすることがある。通常なら死亡するような状況でも、
補助人工心臓によって終末期が延長され、果てしのない苦しみが持続することに
なる。
このような苦痛への対応として、アメリカでは、補助人工心臓を装着するに際
して、目的(心臓移植までのつなぎ、心機能の回復を待つ、永久使用)が明確に
される。その目的を達成できないことが明らかになったときには、補助人工心臓
を外すこともある。これについては、あらかじめ患者が承諾の署名をするという。
「心臓外科医のひとりごと」というブログに、アメリカ留学中に、補助人工心
臓を装着した患者の死を目撃したことが書かれていた。この患者は、ポンプ感染
を繰り返して、これ以上の治療は不可能という結論になった。本人、家族、心臓
外科医に、精神科医、倫理学者が加わって、長い議論が行われた。最終的に、本
人の同意を得た上で、補助人工心臓のスイッチが切られ、直後に患者は死亡した
という。医療費の負担も、治療中止の判断に影響を与えると推測されていた。
アメリカのやり方が正しいかどうか分からないが、日本だとスイッチを切るこ
とは、議論することさえはばかられるのが実情である。高度医療を行えば、それ
に伴って特有の倫理的問題が発生することがある。日本社会は高度医療を切望す
ることには寛容だが、付随する倫理問題を冷静に議論することには必ずしも寛容
とはいえない。
●第三者委員会
裁判に持ち込むかどうかとは別に、社会的に大きな問題になった場合、病院側
の依頼で第三者委員会を立ち上げて調査することもある。第三者委員会の目的は、
真相を明らかにして、紛争を解決すること、社会の理解を得ることである。第三
者委員会は、裁判所のように法律で強制力が付与されているわけではないので、
双方が納得しない限り、紛争を終結できない。
第三者委員会が紛争を解決できるのは、双方が話し合いで解決する意思を持っ
ていることが前提になる。紛争がこじれて話し合いが持てないような状況では、
第三者委員会が全面的に病院側の非を認めないかぎり、患者側が調査結果を受け
入れることは考えにくい。実際、第三者委員会の成功例は、名古屋大学での腹腔
鏡手術における大動脈損傷事故や昭和大学藤が丘病院での腹腔鏡下副腎手術にお
ける膵損傷事故のように、病院側が全面的に非を認めた事例だけである。
社会の理解を得るという目的については、調査報告書の公表が必須である。し
かし、私は、患者側の言い分を全面的に認める内容以外の報告書が公表されたの
を見たことがない。日本では、患者側との関係を損ねないようにとの配慮から、
多くの病院は、報告書の公表に患者側の同意が必要だとするルールを設けて自ら
を縛ってきた。このため、患者側は自分にとって不利な内容を含む報告書の公表
を差し止めることができる。
2000年以後の傾向として、病院の調査委員会や病院が依頼した外部調査委員会
は、紛争が社会問題になったときに、しばしば、患者側に有利な評価をする。一
旦、メディアスクラムが発生すれば、紛争解決をしたと社会に納得させられるか
どうかが、病院にとって死活問題となるからである。しかし、無理に患者側に有
利な判断をすると、別の紛争を惹起することもある。福島県立大野病院事件では、
県の調査委員会が、遺族に賠償金を支払うことを可能にするために、十分な根拠
なしに執刀医の過失を認定した。これが刑事事件を誘発した。東京女子医大病院
事件では、刑事事件の第一審で無罪になった被告が、調査委員会の報告内容に問
題があったとして、当時の病院幹部を提訴した。これまで調査委員会に加わった
外部委員が訴えられた例は、私の知る限り発生していないが、患者側、病院側の
対立が強い場合、医療行為の評価にまで踏み込むと、調査委員会の委員は、裁判
官のような免責がないので、一転して紛争の当事者になる可能性がある。
医療行為の評価をめぐる争いを裁判所外で行うことには、大きな制約がある。
水戸黄門のような、超法規的裁断が可能な権威は、現代社会では想定できないこ
とを銘記すべきであろう。
日本の危うい医療の状況の中で、国立循環器病センターの事件をうやむやにす
ることは、医療提供体制そのものを危うくしかねない。すでに実施されているよ
うだが、第三者委員会を立ち上げるかどうかは別にして、少なくとも、国立循環
器病センターは、院内できちんと調査をして、病院として評価をしなければなら
ない。事件についての評価を院内で固めておかないと、病院を運営し、医療を担っ
ていく上で支障をきたすからである。さらに、社会の理解を高めるために、その
判断を公表する努力をすべきである。何らかの圧力で公表が差し止められても、
最終的に、裁判になれば、自動的に病院の判断が公開される。
●第三者委員会の条件
第三者委員会を立ち上げるとすれば、発議するのは、これまでの事例のように、
費用と動機の関係から、病院以外は想定できない。ただし、病院の報告書に問題
があった場合、学会が技術的問題を検討するようなことはありうる。いずれも、
医学全体のために真相を究明する必要があり、しかも、第三者委員会が十分に機
能すると判断した場合に限られる。
委員としては、心臓病の専門家、補助人工心臓の専門家、臨床試験制度の専門
家、医療倫理あるいは医療事故の専門家、これらに加えて、議論が正当に行われ
ていることを担保するための、紛争の処理に深い知識を有する学識経験者が望ま
れる。当然なことだが、委員は双方の当事者と利害関係があってはならない。し
かし、これにも限界がある。コンピューター外科学会で聞いたことだが、審議会
などで、厳密に利害関係者を排除すると、先端的医療機器の分野では専門家は限
られた人数しかいないため、委員が素人ばかりになるという。その場では、専門
家の自律という観点からの解決しかないという議論になった。
●厚労省の利害
08年12月12日、国立循環器病センターや国立がんセンターなど6つのナショナ
ルセンターの独立行政法人化法案が成立した。国立循環器病センターは、厚労省
の天下り先になる可能性があり、政治的な問題になっている。
先に多額の借金付きで独立行政法人化した国立大学の状況が参考になる。借金
を背負っている上に、退職金の引当金など職員数を決める上で決定的な部分が交
付金になっている。しかも、運営交付金が毎年減額されるため、各大学は文科省
の意向に従わざるをえない。このため、大学は文科省から理事や副学長を迎えざ
るを得ない。学内での投票結果を選考委員会が覆して、前文部事務次官が学長に
就任した大学もある。
現在、各大学の教官は、徹底した管理的環境におかれている。研究計画、研究
の進捗状況、業績の自己評価など、ほとんど誰にも読まれることのない大量の報
告書を書くことに追われて疲弊しきっている。本来、研究者に能力を発揮させる
ためには、自由な環境が必須である。
世界をリードする立場の物理学者から聞いたことだが、研究が当初の計画通り
に進行しないと、評価が下げられるという。本格派の研究成果は本来の目的とず
れたところから発展することが多い。この物理学者は文科省が学問を壊している
と嘆いていた。
知人の経済学者が、「社会科学者の95%は学者としては落ちこぼれです」と本
音を話してくれたことがある。大学教官に本格的な研究をせよと管理を強めても、
もともと能力のない学者が世界に通用する研究成果を出せることはない。それど
ころか、5%の有能な学者まで、疲弊させることになる。
厚労省の官僚にとって国立循環器病センターを含むナショナルセンターは、文
科省における国立大学法人と同じように、天下り先になる可能性が高い。民主党
の足立信也議員は国会質問で、「6つが独立法人化した場合、理事長6人、幹事12
人、理事24人が、みなし公務員として出向になるのか。人事交流による出向なら
ば、 必ずしも理事にする必要はないのではないか」(医療介護CBニュース)と
追及した。
国立循環器病センターの紛争を厚労省に設置した委員会が調査すると、厚労省
はセンターの支配を強めることが可能になる。天下りもやりやすくなる。厚労省
には利益相反があるので、調査結果の信頼性が損なわれる。
●医療安全推進室の利害
もう一つの問題は医療安全推進室である。現在、「医療安全調査委員会(医療
事故調)」の設置法案をめぐって政治的せめぎあいが続いている。医療安全推進
室は、医療安全調査委員会を「○○省」(大綱案)に置こうとしている。多くの
現場の医師が、この委員会は患者と医療提供者の対立を高め、医療の進歩を阻害
し、医療提供体制の維持を困難にするとして設置に反対している。一方で、医療
安全推進室は、現場の声や民主党の対案を無視したまま、強引に、厚労省案(実
質的には医政局案)の実現に向けて活動してきた。医療安全推進室はこの2年間、
医療安全調査委員会設立だけに取り組んできたといっても過言ではない。
今回の国立循環器病センターの問題で、厚労省に第三者委員会を置くことは、
医療安全調査委員会を厚労省に置くための前例を作ることになる。現在、医療安
全調査委員会が政治的争点になっていることを考えると、医療安全推進室がこの
ような提案をすることは行政官の立場を超えている。今回の問題は、08年12月17
日発売の週刊文春の記事が発端になっている。週刊誌に記事が掲載されてから、
ほとんど時間をおくことなく厚労省内に第三者委員会を置くことが決められた。
医療安全推進室の判断が公務員として適切だったかどうか検証が必要かもしれな
い。
●行政と平等
政府の行動はすべて法律に則っている必要がある。法律は全国民に対して平等
でなければならない。通常業務と異なることを実施する場合には、相応の理由、
正当性が必要である。平等のためには、個別事例を特別に扱うことには慎重でな
ければならない。医療法25条3で、厚生労働大臣は特定機能病院への立ち入り調
査権限を認められている。しかし、個別事件について、従来設けられたことのな
い第三者委員会を厚労省内に設置するとなれば、当該部署の担当官の判断で決め
ることは適切でない。
●厚労省の問題点
厚労省は全国の病院に対し強大な権限を持っている。病院を代表する立場にあ
る病院長が厚労省を批判することはほとんどない。これは不満がないということ
ではない。厚労省の細かい規則を全て遵守できている病院はない。しかも、頻繁
に立ち入り検査が行われ、実際に処分を受けないまでも、その都度、病院は担当
官から叱責を受ける。
厚労省が、病腎移植に関連して、市立宇和島病院と徳洲会宇和島病院の保険医
療機関の取り消しを行おうとした。万波医師の病腎移植を問題視した厚労省が、
保険診療報酬請求をチェックしたところ、多くの「不正・不当」請求がみられた
のだという。二つの病院の処分が政治問題化して宙に浮いたままになっている。
他の病院と比較して、明らかに悪質であることが客観的に示されない限り、病腎
移植に無関係の住民に迷惑のかかる処分に正当性はない。
徳州会宇和島病院で実施された病腎移植で、腎摘出術の適否が二つの委員会で
検討された。移植医には手続上の問題があり、相応の非難を受けてしかるべきで
ある。一方、これを攻撃した学会にも問題があった。学会の専門委員会と、病院
外の専門家を多数含む病院の依頼による調査委員会で、腎摘出の適否について結
論が異なった。学会の専門委員会は腎摘出以外の治療法に大きな危険が伴うもの
を含めて、すべての腎摘出が不適切だと決め付けた。これは医療現場の実情と異
なる。
学会は病腎移植を不適切な医療だとして完全に否定したが、その後、アメリカ
やオーストラリアでは、病腎移植が定着しつつある。「病腎移植に関する学会声
明」(日本移植学会、日本泌尿器科学会、日本透析医学会、日本臨床腎移植学会)
の冒頭に「わが国で行われている生体腎移植は、日本移植学会倫理指針に基づい
て、健康なドナーから家族を救うために腎臓を提供する移植であり、腎臓も健常
であることが前提である」と書かれている。しかし、日本移植学会の倫理指針が
なんといおうと、健康なドナーから腎臓を摘除することの倫理的問題が消滅する
わけではない。私は、学会の無理な行動の背後に、厚労省の関与があったかどう
か、検証する価値があると思っている。
宇和島の状況は、旧ソ連の状況を想起させる。旧ソ連では物資不足のため、国
民は日常的に、勤務先から物資を持ち出し、融通しあって生きていた。国民全員
が何らかの違法行為を犯さざるを得ない状況下で、政治犯を経済犯として処罰し
ていた。このようなやり方が国民と国家をいかに蝕んだかは想像に難くない。
行政と医療は作動の基本的論理が異なる。厚労省は、無理な規範に従うことを
現場に強いる。実情を反映しない規範をたよりに「あるべき論」で医療を実施し
ても、簡単に病気は治らない。個々の患者の状況は工業製品のように均一ではな
い。診療方針を決める上で、過去に基盤をおくガイドラインは、参考意見にすぎ
ない。難しい症例では、患者の状況の厳密な認識と持っている方法を、想像力で
組み合わせる作業が優先される。医療は変化し続ける。常に未来に向わなければ
進歩がなくなるだけでなく、現状維持すら困難になる。
現在の政治的状況で、国立循環器病センターの問題の調査委員会を厚労省に置
くと、センターの運営の主導権が行政官に奪われる可能性が高い。そうなれば、
過去に固定された行政官の「あるべき論」に支配され、統制医療に堕す可能性が
ある。旧共産圏では医療の進歩は止まった。国立循環器病センターを、行政官の
「あるべき論」の支配下におくことは、日本の循環器病医療の将来に大きな禍根
を残すことになりかねない。
●国家と医療
厚労省内に医療を裁く委員会を置くことには、社会思想史的な問題がある。こ
の委員会は何が正しい医療かを決めることになりかねない。厚労省は「正しい医
療」を認定できるような行動原理を持っているのであろうか。
ヘルシンキ宣言は「ヒトを対象とする医学研究の倫理的原則」として制定され
たが、医療全般について医師が守るべき倫理規範でもある。実質的に日本の法律
の上位規範として機能している。その序言の2に「人類の健康を向上させ、守る
ことは、医師の責務である。医師の知識と良心は、この責務達成のために捧げら
れる」と記載されている。医師は知識と良心によって行動するのであり、命令に
よって行動するのではない。たとえ国家公務員であっても、医師として行動する
限り、この原則に従わなければならない。この点において、医師の行動原理は行
政官とは異なる。
「正しい医療」は、本来、「医学と医師の良心」に基づいて専門家が提示すべ
きものである。これを社会が批判することでさらに適切なものになっていく。厚
労省は「医学と医師の良心」によって動いているわけではない。法令には従わな
ければならず、しかも原則として政治の支配を受ける。メディアの影響も当然受
ける。しかも、ハンセン病政策のような過ちを繰り返してきた。ハンセン病患者
の、90年に及ぶ隔離政策の歴史で、何人かの医師が異議を唱えた。患者をかくまっ
た医師もいた。これらの医師は、科学と、良心に基づいて行動した。
第二次世界大戦中、ドイツや日本の医師の一部は国家犯罪に加担した。多くの
国で、医師の行動を国家が一元的に支配することは、危険だとみなされている。
公務員は原理的に国家的不祥事に抵抗することができない。このゆえに、行政
は、医療における正しさというような価値まで扱うべきではない。明らかに行政
の分を超えている。医学による厚労省のチェックが奪われ、国の方向を過つ可能
性がある。
●結論
国立循環器病センターは、医療の専門家としての矜持を持って、冷静に問題の
解明に取り組み、真相を社会に開示するよう努力をすべきである。
第三者委員会が機能するのは、当事者が話し合いによる解決の意思がある場合
だけである。第三者委員会が立ち上げられた場合、将来の医療の改善と社会の理
解のためには、調査結果の公表が担保されなければならない。激しい対立がある
状況では、第三者委員会には法的裏づけがないので機能すると思えない。今回の
ような事例は、憲法で司法権が認められている裁判所が扱うべきである。
「医療安全調査委員会」(医療事故調)法案について、2年間近く、政治的せ
めぎあいが続いてきた。今回の厚労省の医療安全推進室の動きは、厚労省案を有
利にする前例を、正当な政治的手続きなしに作ろうとするものであり、公務員の
行動として適正でない。