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臨時 vol 198 「国立病院に生き続ける陸海軍の亡霊」

医療ガバナンス学会 (2008年12月22日 11:43)


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東京大学医科学研究所
先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門
上昌広

※今回の記事は2008年11月5日に村上龍氏が主宰する Japan Mail Media
JMMで配信した文面を加筆修正しました。

東京都を舞台とした妊婦受け入れ不能事件が連日マスメディアで報道されてい
ます。この事件をきっかけに大都会 東京の問題点が暴露され、皆さんはわが国
の社会保障制度の脆弱性を認識されたことでしょう。さらに、先週は、二階経産
大臣による「医師のモラル」発言もあり、事態は予期せぬ展開を示しそうです。

前回、東京都内の大病院の配置が山手線の内側に偏っていること、および都内
の大病院の半数を占める大学病院は明治から大正にかけて創立されていること、
都立病院の多くが東京市の貧困・衛生対策を目的に明治期に創立されたことを紹
介しました。このような病院の創設の経緯は、マスメディアであまり報道される
ことはありませんが、現在の医療問題を考える上では極めて重要です。なぜなら、
各病院は歴史を背負っており、その制約を受けているからです。今回は、国立病
院の歴史を議論しましょう。

東京は軍都だった

現在、東京23区内には独立行政法人化された国立病院機構を除き、国立がんセ
ンター、国立国際医療センター、国立成育医療センターの3つの国立の医療機関
があります。いずれの病院もわが国の治療・研究の最高峰とされています。とこ
ろで、この3つの病院を受診やお見舞いで訪れた方はお感じになったかもしれま
せんが、どの病院も敷地が広く、便利なところ、あるいは高級住宅街の真ん中に
立地しています。これは、明治期の東京都市圏の端に位置する都立病院とは対照
的です。

皆さん、築地、戸山、大蔵という地名をお聞きになると何を思い出されるでしょ
うか。現在、築地といえば築地市場、寿司屋、戸山と言えば集合住宅・文教施設、
大蔵といえば高級住宅街が思いつく方が多いでしょう。ところが、戦前までの、
この3つの地域のイメージは現在とは全く異なります。

驚く方も多いかもしれませんが、いずれも「軍隊」に密接に関係した地域なの
です。築地には海軍施設、戸山には、戸山ヶ原と呼ばれ陸軍の射撃場や陸軍の軍
人養成機関である陸軍戸山学校など軍施設が並んでいました。さらに、戦前の世
田谷地区は軍施設のメッカであり、そもそも世田谷の郊外化、都市化は、旧軍施
設の進出が大きな役割を果たしたと考えられているのです。明治政府は、明治初
期に四谷・赤坂・青山などに兵営を築きましたが、1890年頃にはスペースの限界
から郊外に進出せざるを得なくなりました。この結果、農地や雑木林が広く展開
し、交通の便がよく、土地も廉価な世田谷が候補地として注目されたのです。建
設省関東地方建設局京浜工事事務所が編纂している『多摩川誌』によれば、当時、
世田谷の地元では軍施設の進出に対し,土地の有償譲渡その他のメリットのため
招致運動まで起こったようです。

陸海軍が地域の開発を促進し、現在の国立病院の礎を築いたという事実は、21
世紀を生きる私たちは全く認識することがありません。ところが、現在の国立病
院、つまり厚生労働省が提供する医療の根源には、陸軍・海軍の伝統が深く息づ
いています。

海軍は築地で誕生した

ここでは、国立がんセンターをモデルに軍隊と医療の関係と考えてみましょう。

先ほども述べましたが、戦前の築地は海軍の町でした。ことの発端は幕末まで
遡ります。1853年、浦賀沖に米国のペリー提督が率いる艦隊が来航します。その
後、外国船の来港が相次ぎ、世情は騒然となっていくわけですが、列強の近代的
軍備に刺激された江戸幕府は、1854年、現在の浜離宮の南側に大筒4挺ほどの操
練場を作ります。この施設が1856年に講武所という、旗本・御家人、およびその
子弟を対象とした武芸訓練機関に発展します。その後、1861年に武芸の訓練所は
水道橋の現日本大学法学部図書館の場所に移転し、築地には軍艦操練場が残り、
幕府の海軍の中核的施設となります。この軍艦操練場の教授が、有名な勝海舟で
す。

明治維新の後、講武所跡は明治政府に接収され、海軍施設として利用されます。
また、同時に築地には多くの海軍関連施設が建設されます。例えば、1872年には
海軍本省が元尾張藩別邸跡地に創立されますし、1869年には旧芸州屋敷内に海軍
操練場が設立され、1876年に海軍兵学校に改称されます。その後、1888年に広島
県江田島に移転するまで海軍兵学校は築地にありました。

また、1908年に海軍軍医学校が、港区芝から築地に移転してきます。現在の国
立がんセンターの場所です。この学校では、医学・薬学・歯学の3コースを設定
し、海軍病院を総括指導する軍医を養成する普通科・高等科・特修科、看護士・
技師を養成する選修科を設置していました。古今東西、戦争の遂行に軍医養成は
必須であり、わが国の陸海軍も医学校の運営に力を入れます。

ちなみに、創設者の一人である高木兼寛(薩摩藩出身)は、世界の医学史に大
きな功績を残します。彼は、日本の医学界の中核である東京帝国大学医学部、陸
軍軍医団がドイツ医学一辺倒で学理・研究を優先していたことに反発を感じ、海
軍軍医学校には実証主義的色彩が強く、臨床医学を重視する英国医学を取り入れ
ました。このような姿勢が、有名な脚気の予防法の確立へと繋がり、脚気対策の
確立は日露戦争での間接的勝因といわれるに至ります。このあたりを詳しく知り
たい方には、吉村昭氏の『白い航跡』をお奨めします。その後、高木兼寛は慈恵
医大や日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所も創設し、日本の
医療の礎を築きました。

 

敗戦後、『陸海軍病院』の名前が『国立病院』に変わった

このように海軍軍医学校は、軍医養成機関として戦争遂行に大きく貢献します。
ところが、敗戦が、この機関の行く末を大きく変えます。

まず、海軍省は1945年11月30日に勅令第680号を以て廃止され、海軍軍人の復
員を主導する第二復員省となります。この第二復員省は、1946年6月に第一復員
省(旧陸軍省)と統合して、復員庁となり、その後、1947年10月には復員庁は廃
止され、厚生省に移管されます(一部の部局は総理府直属となった後、廃止され
ます)。

中国残留孤児対策、引揚援護、戦傷病者、戦没者遺族、未帰還者留守家族等の
援護を、防衛省でなく、厚労省が行っているのは、このような歴史的経緯がある
からです。

では、戦後、軍医療機関はどうなってしまったのでしょうか。実は、軍医療機
関は戦後の日本医療の救世主だったのです。敗戦直後、日本の病院の大半は、戦
災によって破壊され、機能不全に陥っていました。日本を占領したGHQは、ま
ず占領軍が使用する優良医療施設を確保し、次いで、日本国民の医療提供体制を
考える必要がありました。その際、GHQがまず手をつけたのは、陸海軍が保有
する医療機関の厚労省移管でした。この際、全国146の軍施設が国立病院、国立
療養所となったわけですが、注目すべきは建物も職員も従来のままで診療が継続
されたことです。つまり、病院自体の組織は「陸海軍」のままで、名称が軍病院
から国立病院に変更されただけなのです(新村拓、『日本医療史』、吉川弘文館)。
昨日まで軍隊の職員だった人が、ある日を境に国立病院のスタッフになるのです
から、国立病院の制度が軍隊の制度と類似するのは当たり前です。

海軍病院、米軍接収、国立がんセンター誕生

では、このような経過を築地の海軍軍医学校について具体的に見てみましょう。
海軍軍医学校は、戦争中に空爆を受けなかったため、比較的良い状態で終戦を迎
えます。一説には、築地周辺に米軍が接収を考えていた聖路加国際病院があった
ため、築地・明石町一帯は東京大空襲による爆撃を免れたとも言われています。

このため、終戦後、海軍医学校は米軍に接収されます。この頃の状況について
は、塩谷信幸先生のブログ
http://blog.excite.co.jp/shioya-antiaging/6511888/)から引用させていた
だきます。これは、2000年9月に雑誌「諸君」の特集「進駐軍がやってきた!80
人の証言」に掲載されたものです。塩谷先生は1931年生まれで、東京大学医学部
を卒業後、日本の形成外科医の草分けとしてご活躍された方です。

「その日の昼も我々四人は、築地明石町の一膳飯屋の二階で豚鍋をつっついて
いた。川向こうには、黄色い煉瓦の聖路加病院が聳えている。戦後まもなく聖路
加病院は進駐軍に接収されて、海軍病院(今の国立がんセンター)と同愛病院を
合わせ、東京陸軍病院として米軍の極東での医療センターとなっていた。我々が
そこでインターンをしていたのは昭和三十年のことである。進駐軍と名前はごま
かしても、英語ではJapan Occupation Forcesであり、立派な占領軍である。病
院内はオフリミッツ(日本人立入禁止)で、中ではすべて軍票しか通用しない。
我々インターンは、医療チームの一員のドクターであっても、日本人つまり被占
領国の国民なので、軍票はもてない、従って軍票が必要な院内食堂も使えない。
そこで昼にはこうして、近所のチャブ屋で昼飯をかっこむ仕儀となる。我々とい
うのは、新潟大学の橋本、大阪大学の三木、日本大学の柳沢そして僕の四人であ
る。この四人の他に、インターンは北は北海道、南は九州と日本全国から集まっ
た十二人で構成されていた。」

海軍医学校が米軍に接収されていた間、旧海軍スタッフは病院の職員として働
いていたのでしょう。当時の米軍施設の待遇は庶民とは比べるべくもなく、ある
意味で軍官僚がいい目を見たということも出来ます。

1956年、サンフランシスコ講和条約が締結され、日本が独立します。同時に占
領軍が撤退し、海軍医学校が厚生省に返還されます。つまり、厚生省は、スタッ
フと建物を返還されたわけです。その後の詳細な経緯は公表されていませんが、
1960年、当時の日本医学会会長 田宮猛雄氏ら9名の学識経験者からなる国立が
んセンター設立準備委員会が発足し、「国立がんセンター」のあり方、将来構想
など重要事項について検討され、厚生大臣宛に意見具申書が提出されます。その
後、1962年2月1日、「国立がんセンター」が正式に発足するわけですが、これ
はがん対策の推進という目標をうたったものの、政府の本音は旧海軍病院の事務
スタッフの雇用確保という側面が強かったのではないかと考えています。なぜな
ら、1960年の段階で、国立のがんの研究拠点を作るなら、わざわざ、がん研究の
ノウハウの蓄積がない旧海軍医療機関に作る必要などなかったからです。研究の
専門機関である東京大学や京都大学に研究センターを作るという選択肢もあり、
研究スタッフを集めるという点では、このような既存の大学の重点化の方が遙か
に容易だからです。

どのような経過はわかりませんが、わが国のがん医療の中心施設が、軍官僚制
度を引き継いだことは、その後のわが国のがん医療に大きな陰を落としていきま
す。

国立国際医療センターと国立成育医療センター

ここまで、国立がんセンターについて詳細しました。ここで話が脱線しますが、
都内の他の二つのナショナルセンターについても簡単にご説明しましょう。

まず、戸山の国立国際医療センターは、1993年、戸山の旧国立病院医療センター
と旧国立療養所中野病院を統合して発足したものです。母体の中心となった旧国
立病院医療センターの前身は、1929年に創設された陸軍東京衛戍(えいじゅ)病
院です。衛戍病院とは陸軍の部隊が駐屯する場所に設置された恒常的な病院で,
駐屯部隊の将兵の健康管理や治療に専従するものでした。終戦後、陸軍省から厚
生省に移管し、国立東京第一病院となります。

一方、世田谷の国立成育医療センター(小児医療センター)は、2002年に 国
立大蔵病院と国立小児病院(世田谷区太子堂)を統合し、旧・国立大蔵病院の所
在地に設立されたものですが、その前身は陸軍病院です。国立小児病院の前身は、
1899年に創設された東京衛戍病院が1938年に東京第二陸軍病院に改称されたもの
です。また、国立大蔵病院の前身は東京第四陸軍病院です。

国立病院に生き続ける陸海軍の亡霊

ここまで、国立病院の歴史をくどいくらいに紹介してきましたのは、病院とい
うのは建物や機械だけでなく、病院スタッフが働いており、現代人が考えたこと
がない病院の歴史が彼らの行動に深く影響していることを認識して欲しかったか
らです。では、国立病院は、陸海軍から、どのようなものを引き継いだのでしょ
うか。

私は、国立病院が陸海軍から引き継いだ最大の弊害は、その人事システムと基
本思想だと思います。

まず、人事制度から議論しましょう。今回は、私が勤務した経験のある国立が
んセンターを例にあげます。国立がんセンターの幹部職員は、総長の下に病院長、
研究所長、運営局長が同格で並んでいます。

運営局というのは事務部門のことで、運営局長は厚労省の官僚が派遣されてき
ます。この人物は医療や病院経営の経験は全くないのですが、厚生労働省の意向
を受けているため、国立がんセンターの運営に関して絶大な権限を持ち、総長、
院長、研究所長以下、その顔色を伺っているというのが実情です。運営局長はキャ
リア官僚ですから、1-2年の任期で他の部署に異動していきます。このように説
明すると、多くの読者はお気づきになったでしょうが、運営局長の役割は旧陸軍
の参謀そのものです。太平洋戦争では、現場経験のない参謀が度々、暴走したこ
とが知られていますし、私の知る限り、このような運用をしている医療機関は知
りません。

次に、運営局について、もう少し詳しく紹介しましょう。その人事制度は精緻
ですが、極めて複雑です。まず、彼らは採用形式ごとに幾つかの職種に分かれ、
その人事は、各グループが自律的に行っています。具体的には、運営局の長であ
る局長は本省から出向するキャリア官僚、次長は本省から出向するノンキャリア
官僚に決まっていて、事務官は地方厚生局採用と病院採用に分かれています。面
白いのは、運営局長が部下の人事権を持たず、出向元のそれぞれのセクションご
とに「ドン」が存在して、彼らが関連する施設の中でのローテーションを決めて
いることです。このため、事務官たちは、病院長や運営局長以上に自分たちの人
事権をもつ「ドン」の意向に忠実であろうとしています。

実は、このような人事制度は、陸海軍とそっくり同じです。例えば、海軍では
各艦の艦長や艦隊の司令長官を務めるのは、海軍兵学校を卒業したエリートたち
ですが、その任期は1-2年で、各ポジションをローテーションします。このため、
彼らが実務に精通することはありません。一方、艦隊を運行するには、高度の専
門知識が必要であり、現場経験の蓄積が不可欠です。このため、実際の戦闘では、
叩き上げの下士官が実務の権限を握らざるを得ず、結果として下士官の人事に上
級士官が口を挟むことができず、両者の連携が不十分になりました。

余談ですが、国立がんセンターの総長の人事は、医系技官のトップである医政
局長が運営局長からの報告を参考に決めています。もちろん、任命権者は厚生労
働大臣なのですが、官職上は総長よりも格下の局長が決めてしまっているのです。
このような人事形態は、国民にとって誰が責任をもって判断するか分からないと
いう点で前近代的であり、また、現場では無責任体制を招きます。早急に改善す
る必要があります。

国策遂行:陸海軍と国立病院が追い求めるもの

国立病院が陸海軍から引き継いだ第二の問題は、「国策を遂行しなければなら
ないという使命感」だと思います。旧陸海軍病院の目的は、言うまでもなく「戦
争の遂行」です。このため、軍医は負傷した軍人を速やかに回復させ、戦闘に復
帰させることが求められますが、逆に、回復が中途半端で戦闘に復帰できない
「障害者」が増えれば、戦闘遂行に大きな負担になり、患者が死亡する以上に大
きな問題になります。このような状況におかれた軍医は、個人としてどのような
信条をもっていようとも、ヒューマニズムよりも戦闘の効率的遂行を優先せざる
を得ません。医師という職業は、そもそも古典的なプロフェッショナリズムを兼
ね備えているはずで、神様に自らの行動規範を誓うものです。このため、組織の
命令に拘束される頻度は少ないのですが、その例外的存在が軍医ということも出
来ます。

では、このような体質は、現在の国立病院にどのような形で受け継がれている
のでしょうか。これも、国立がんセンターを例にとって説明しましょう。厚労省
は、国立病院の使命は政策医療を遂行することだと考えています。国立がんセン
ターの場合、新規治療開発のための臨床研究の推進があてはまります。実は、医
療機関が臨床試験を効率よく遂行するためには、全身状態の悪い患者は出来るだ
け断り、症状の軽い患者さんを沢山集める方が有利なのです。なぜなら、全身状
態が悪かったり、内蔵機能が低下していると、臨床研究には参加できないからで
す。このため、国立がんセンターを含め、臨床研究を重視している有名病院ほど、
軽症の患者が集まるという皮肉な状況になっています。これは、国民の皆さんが、
「先端医療施設では地元の病院では手の施しようがない難しい患者を治療してい
る」というイメージと反対です。実は、このような患者と医療者の間の認識のず
れは、世界中の医療者が悩んできたことであり、なかなか解決が困難な問題です。

ここで、国立がんセンターが特殊なのは、臨床研究の推進を目的として、進行
した癌患者の切り捨てを組織的に行ってきたことです。近年、マスメディアが、
国立がんセンターが癌難民を大量に生んでいることを問題視したため、対応が変
わりつつありますが、最近まで国立がんセンターでは「あなたは治験に参加でき
ないので、この病院では診療できない。」という主旨を、患者に対して直接説明
する医師が多数いました。実は、私も国立がんセンター在職中にこのような発言
をしたことがありますが、驚くべきことに、このような発言が国立がんセンター
内部で問題視されることはありませんでした。これは、患者の治療を最優先に考
えるべき医師・医療機関としては異常なことであり、同じ研究機関である大学病
院の医師が、患者さんに対して後ろめたい気持ちを持ちながら、このような内容
を婉曲に伝えてきたこととは対照的です。私は、この事例は、国立がんセンター
が「政策医療遂行」という国策を、組織の最優先課題を考えていることを反映し
ており、所属する医師がプロフェッショナリズムより、組織の都合を優先してい
る事例だと考えています。この姿は、陸海軍が日本の国情を無視して戦争に邁進
した姿と相通じます。

生まれ変わりつつある国立がんセンター

これまで、国立病院の代表例として、国立がんセンターに関して説明してきま
した。私も医師として勤務した経験があり、その内情をよく知っているため、典
型的な例として取り上げたわけですが、全ての国立病院は大なり小なり、このよ
うな性質を抱えていると感じています。

国立がんセンターに関しては、いま、新しい病院に生まれ変わろうとする動き
が始まっています。一昨年、院長に就任した土屋了介氏は、従来の先端医療推進
だけでなく、患者・社会への情報開示や患者サイドに立った医療を前面に掲げた
改革を推進しています。具体的には、「患者相談窓口の重点化」「緩和ケア・通
院ケアの整備」「国立がんセンターのスタッフ採用には、地方勤務が必須」など
を前面に打ち出しています。彼は、しばしばマスメディアにも登場し、国民の理
解を求めており、様々なメディアを通じてご覧になった方も多いでしょう。

一方、土屋改革に対し、厚労省は凄まじい抵抗を示していることが漏れ伝わっ
て来ます。これは、厚労省だけに限った問題ではありませんが、改革派が出現す
ると、マスメディアにスキャンダルが報道されるようで、今回も土屋院長も本人
とは無関係な話が週刊誌で取り上げられていました。誰がリークしたのかは知り
ませんが、自分の名前を出して改革を進める一人の院長を、大勢が匿名で足を引っ
張る姿は醜く見えます。官僚からすると、地方方面軍の司令官が「参謀」の言う
ことも聞かず、勝手な作戦を遂行しているように見えるのでしょう。

私は昭和の陸海軍の官僚たちも、このような内部抗争に明け暮れていたのだろ
うと考えています。その後輩たちが、同じような振る舞いをしているのですから、
歴史は繰り返すものです。現在と戦前の違いは、メディア、情報手段の発達によ
り、国民のリテラシーが向上したことです。医療は、医師だけでなく、医師と患
者が一緒になって築き上げるものです。国立がんセンターでの土屋改革がどうな
るか、市民である私たちの見識も問われていると考えています。

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