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Vol.591 追悼 額田 勲先生 ―激しさと、優しさと―

医療ガバナンス学会 (2012年9月11日 06:00)


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医師
村田 敬
2012年9月11日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


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額田 勲(ぬかだ いさお)先生
神戸生命倫理研究会代表、医療法人社団倫生会会長。
1940年5月29日、神戸市生まれ。
1966年京都大学薬学部卒、1975年鹿児島大学医学部卒。
2003年第12回若月賞受賞、2011年第65回神戸新聞社会賞受賞。
2012年7月12日、原発不明癌のため死去。享年72歳。
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日本における生命倫理のパイオニアの一人であった額田 勲先生が2012年7月12日、原発不明癌のため亡くなられた(1)。

額田先生との出会いは、筆者が医学生の頃、東京大学の学園祭「五月祭」における公開討論会準備のため脳死問題を取材していた1990年に遡る。脳死移植が 賛成派と反対派で鋭く対立して着地点が見えない中、「社会的合意の形成」を訴える額田先生の主張がたいへん新鮮に思われたことを今でもよく覚えている。 1990年5月27日に東京大学本郷キャンパスで開催された公開討論会では、賛成派と反対派の間の慎重論者として、社会的合意形成の重要性を強調されたこ とが、まるで昨日のことのように思い出される。とくに公開討論会終盤での「禅問答的になりますが、我々が考えた社会的合意というのは民主主義のもっとも高 次の概念だと思います。」という発言は、額田イズムの核心とも言えよう(2)。

額田先生は自ら経営するみどり病院の院長職の傍ら、神戸生命倫理研究会を創立し、代表として脳死問題を中心に公開シンポジウムの開催、著書の刊行など、精 力的に活動していた(3-6)。そのような活動を一変させたのが、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災であった。幸い、ご自身は無事であった ものの、自らが生まれ育った神戸市、とくに長田区は続発した火災の影響もあって壊滅的な打撃を受けた。震災直後から医療活動、ボランティア活動に奔走した 額田先生であったが、彼が現代日本社会における人間疎外の問題に直面したのは、むしろ震災被害が慢性期に入ってから頻発した仮設住宅における「孤独死」の 問題であった。額田先生は神戸市郊外の仮設住宅内に仮設診療所「クリニック希望」を開設し、伊佐秀夫医師をはじめとするみどり病院の職員たちとともに、類 を見ない真摯さを持って被災者医療と取り組んだ。その経験は「孤独死 被災地神戸で考える人間の復興」という一冊の本に結実する(7)。岩波書店のホーム ページで確認したところ、現在、この名著は品切となっており、東日本大震災後の被害が慢性期に入りつつある現状を思うと、入手困難な状況が非常に惜しまれ る。

その後、額田先生の関心は、次第に癌を中心とした終末期医療に向かって行く(8-9)。そんな中、運命の皮肉とも言うべきか、2005年に額田先生自身が 前立腺癌を発症した。当時、筆者はみどり病院に勤務していたため、額田先生がどのようにこの問題と向かい合ったかを、つぶさに目撃した。このときの額田先 生の体験は「がんとどう向き合うか」という本に詳しく書かれているが、筆者の印象は本に書かれているものと少し異なるものであった(10)。いかにも迫力 に満ちた風貌の額田先生であったが、体調が悪くなると、まるで手負いの野獣のように姿を隠し、弱音を漏らすこともなくじっと回復を待っていたのだ。この強 靭な精神力は、おそらく挫折と苦労の多かった若き日の経験により培われたものだと想像する。

額田先生は、「前立腺がんは長く治療を続ける慢性疾患だ」、と自らに言い聞かせながら、治療と平行して病院経営と社会的活動をそれまでどおりに続けられた (11,12)。2008年12月1日に放映されたNHKスペシャル「さまよえる がん患者」では、医療制度の間隙で苦悩する「治らない患者」への支援の 重要性を肉声にて訴えた(13)。
2011年3月11日に東日本大震災が発生すると、さっそく現地に入って調査を始め、そのときの所感が河北新報のインタビューに残されている(14)。し かし被災者支援の具体策を練ろうとしていたその矢先、急激に病状が悪化し、2012年7月12日、帰らぬ旅に発たれてしまった。

額田先生が原発不明癌による転移性脳腫瘍と診断される直前の2011年4月に執筆した「日本人の死生観 多田富雄の静かな諦念」というエッセイには、自ら の闘病体験が静かに投影されている(15)。「医学にとって死とはいかなる意味を持つのかを問い、医療水準の真の向上のためには死への向かい方が核心であ るとの認識を強める医師は少なくない。・・・・今、医学は生命の細分化に向かうあまり、大きな目的を見失っている。」との認識は、脳死論争以来、額田先生 が鳴らし続けてきた警鐘の通奏低音である。「有名な『方丈記』の記述に認められる元暦の大地震(1185年)のように、古来より自然災害の猛威にさらされ てきた日本社会である。そうした中で自然的、文化的な対象のすべてが移り変わって「常」なるものは一切ないとみなすことで、人間の死を相対化するのは日本 人の「無常」観の根源と言える。」との一節には、自らの病とやがて来るべき死を見据えた、額田先生の寂しくも穏やかな心象風景が伺われる。

まるで何かに取り付かれたかのように、一貫して現代社会における死の問題を問い続けてきた額田先生ではあるが、実際に親しく接すると、きわめて社交的で楽 しい人物であった。稀代の美食家であったことは、知る人ぞ知るところであり、額田先生を囲む酒宴はつねに笑い声で満ちていた。今思うに、人生は短く有限だ から、多いに楽しみなさい、と自ら範を示されていたのだと思う。額田先生においては、死を見つめ続けていたからこそ、その鏡像としての生が輝いていたの だ。額田先生の周囲にはいつも人の輪があった。そう、みんな額田先生の激しくも優しい人柄が、大好きだったのだ。

伝え聞くところによると、まだ出版されていない額田先生の遺稿が残されているらしい。脳死論争の頃、額田先生は筆者に「私たちは歴史の批判に耐えられる判 断をしなくてはならない。」とよく語っていた。ともすれば短期的な利益の追求が長期的な利益を犠牲としがちな現代社会である。額田先生と直にお会いするこ とができなくなってしまった今、私たちは額田先生の人間本位の思想をあらためて振り返り、実践し、後世に伝えていかねばならない。額田先生は、これからも 私たちの心の中で生き続ける。

<参照>
(1) 神戸新聞, 被災地医療尽力の医師 額田勲さん死去 72歳, 2012年7月13日

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0005210157.shtml

(2) 東京大学医学部脳死論争を考える会 編著, 五・二七 公開討論会, 解剖 日本の脳死―なぜ、議論はすれちがうのか? p82-p125, 筑摩書房 1991
(3) 神戸生命倫理研究会, 研究会のあゆみ,

http://homepage3.nifty.com/doctors-osaka/history.htm

(4) 神戸生命倫理研究会 (編集), 脳死と臓器移植を考える―新たな生と死の考察, メディカ出版 1989
(5) 額田 勲, 終末期医療は今−豊かな社会の生と死, 筑摩書房 1995
(6) 額田 勲, 脳死・移植の行方, かもがわ出版 1999
(7) 額田 勲, 孤独死 被災地神戸で考える人間の復興, 岩波書店 1999
(8) 額田 勲, 医療の進歩と死生観の変化, 20世紀の定義[7] 生きること/死ぬこと p123-p146, 岩波書店 2001
(9) 額田 勲, いのち織りなす家族-がん死と高齢死の現場から-, 岩波書店 2002
(10) 額田 勲, がんとどう向き合うか, 岩波書店 2007
(11) 額田 勲, なだらかな下り坂を豊かに過ごす「がんとの共存」人生, がんサポート47:104-108, 2007年9月号

http://www.gsic.jp/survivor/sv_02/36/index.html

(12) 額田 勲, 自身のがんと向きあいながら、地域に根ざした医療で患者さんを支える, アストラゼネカ株式会社「がんになっても」, 2011

http://www.az-oncology.jp/taiken/taiken_message_13profile.html

(13) さまよえる がん患者, NHKスペシャル, 2008年12月1日放映

http://www.nhk.or.jp/special/onair/081201.html

(14) 河北新報, 焦点/”仮設孤独死”宮城で2人/きめ細やかなケア必要, 2011年7月16日

http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110716_01.htm

(15) 額田 勲, 日本人の死生観 多田富雄の静かな諦念, 医事新報 4539:88-91, 2011年4月23日

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