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臨時 vol 185 「医療崩壊」と職業倫理;その(2)上

医療ガバナンス学会 (2008年12月3日 12:24)


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「医は仁術」、「応招義務」そして過労死

大阪府立成人病センター
血液・化学療法科
平岡 諦

 

現在の医療危機は「医療崩壊」(1)と呼ばれている。患者にも医者にも不幸な
事態である。低医療費政策、患者からの不信感、および医師法第21条を介した
検察の介入が主な原因と考えられ、その対応が模索されている。後二者と職業倫
理との関係を、前稿(2)において考察した。本稿では、「医療崩壊」の最重要原
因である低医療費政策の結果である過重労働・過労死と、「医は仁術」、「応招
義務」との関係につき考察する。「医療崩壊」の現場は主に病院であるので、主
として病院勤務医についての考察である。

結論を先に述べると、いわゆる「応招義務」規定が「医療法」でなく「医師法」
に述べられていることが諸悪の根源である。そして、根本的な解決策はこの規定
を「医療法」に移すことである。

1:医師法と医療法について;

はじめに医師法と医療法について、その成立時期の状況を考える。

「占領政策における成功例として農地改革がよく知られているが、医療福祉改
革のことは意外に知られていない。ジャン=ジャック・ルソーは「一国の文化水
準は、出生率と死亡率の割合によって測られる」といい、単独講和を押しすすめ
た吉田茂首相に対して、東京大学総長南原茂は「文化の発達の指標は必ずしも学
問や芸術ではなく保健衛生状態である」と述べている。また、国際人権規約第12
条は、締約国に「すべての者が到達可能な最高水準の身体および精神の健康を享
受し得る権利を有する」とし、具体的には「死産率と幼児の死亡率の低下、児童
の健全な発育推進の政策、環境衛生および産業衛生の改善、伝染病・風土病・職
業病などの予防・治療・抑制、病気の場合、医療および看護を確保し得る条件の
創出など」を義務付けている」(3, p.307;「解説」より)。

「『貧乏人も金持ちも等しく良質な医療を受けられるシステムの構築』という
GHQ公衆衛生福祉局長クロフォード・F・サムス准将の改革理念」(3, p.2;「新
版の出版に寄せて」より)に則って戦後日本の医療制度・医学教育の改革が進め
られ、平均寿命・健康寿命ともに世界一位となる現在の医療制度が築かれた。こ
の改革の中で施行されたのが「医師法」であり「医療法」である。「医師法」は
医師の資格基準を、「医療法」は病院基準を規定した法律で、ともに昭和23年7
月30日に成立している。

2:「応招義務」規定の背景;

いわゆる「応招義務」は、医師法第4章 業務;第19条に述べられている。昭
和23年7月30日制定当時のまま現在に至っている。その内容は「診療に従事する
医師は、診察治療の求があった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んで
はならない」である。

この規定の由来・歴史は次のように記載されている。「現在の医師法の規定は
明治7年の「医制」中に萌芽があり、明治13年制定の旧刑法第427条9号、
昭和17年の国民医療法第9条を経て今日に至っている。応招義務に関しては旧
刑法以来、抑留、科料などの罰則規定がおかれていた。しかるに昭和23年の医
師法制定の際には、このような義務を法定すべきではないとの意見があったが、
医師職務の公共性よりみて応招義務は残しておくべきとする意見が大勢を占めて、
今のような形で残された。しかし、罰則規定は削除され、医師の良心に委ねられ
ることになったといわれる」(4)。

また、医師法第19条の法律学上の位置づけについては次のように述べられて
いる。「明治初期の大陸(ドイツ)法継受に由来すると思われる。法律学上、医
師を通勤・旅行客や貨物輸送を引き受ける鉄道会社、あるいは電気供給を行う電
力会社などの独占企業と同じ立場に置き、契約当事者の一方に契約締結を義務付
け・強制する条文の一つと考えられている」と。なお、医師による医業の独占に
ついては、医師法第17条に「医師でなければ、医業をなしてはならない」(5)と
ある 。

富国強兵、列強国の仲間入りが国是であった明治政府が、医師に罰則規定付き
で「応招義務」を課したのは理解できるところである。しかし、現在の医療を見
渡して奇妙に思われるのは、医師の資格基準を定めた「医師法」の中に「応招義
務」を置いている点である。なぜ「病院」でなく「医師」が鉄道会社や電力会社
などの独占企業と同じ立場に置かれたのであろうか。「医師法」・「医療法」が
制定された敗戦直後において、「医師」を独占企業と同じ立場に置く状況があっ
たものと推測されるが、どのような状況であったのだろうか。「応招義務」規定
が必要なのは緊急医療に対してである。想像するに、敗戦直後の緊急医療の担い
手は主に「自宅を診療所とする」開業医であったのではなかろうか(当時は、現
在のようにオフィスを構えた開業医はいなかったであろう)。当時の病院と開業
医の様子をクロフォード・F・サムス准将(3)は次のように描写している。

「敗戦時には日本の病院の約4分の一が、戦火に焼かれ、爆撃を受け、また原
爆の投下などによって破壊されてしまっていた。(中略)日本の病院の状況は、
昔のアメリカやヨーロッパの病院と異なるところがなかった。すなわち、病院は
人間が生の最後に逃げ込む場所であった。そこは人間の死に場所であったのであ
る。(中略)日本のベッドは、アメリカの白い金属製のベッドとは異なり、多く
の場合畳の上に敷かれた布団であった。これらの病院には石鹸も無く、掃除が行
き届かず汚れていた。部屋を暖めるための燃料も無く、熱いお湯さえも出なかっ
た。医療器具や医薬品も不足していた。少なくとも3年間はX線のフィルムすらも
無かった。彼らはそれまで使っていた木綿の包帯類を洗い、再使用しなければな
らず、紙のシーツやタオル類などまで使っている状態であった」(3, p.224-225)

とても緊急医療を病院で行っていたとは考えられない。次に開業医の状態はど
のようであったか。

「戦前、日本には大学レベルのかなり高度の医学教育機関が全国で17ほどあっ
た。(中略)このような大学レベルの医学教育機関に入るためには、6年間の小
学教育、4年ないし5年の中等教育、さらに、3年間の予科の過程を修了しなけれ
ばならなかった。医学部の課程は4年で、最初に2年は基礎科目、後の2年間で臨
床医学の講義を受けた。医師免許はこれらの過程を修了すれば自動的に与えられ、
資格試験はなかった。(中略)日本人は私に、すべての大学レベルの医学部卒業
生は病院のスタッフとなるのだと説明してくれた。一流の医師の大部分は、都市
や首都圏の大病院にとどまった」(3, p.197-198)。

「日本では17の大学レベルの医学教育機関のほかに、医学専門学校と呼ばれる
二流の医学教育機関があった。これらの学校は、中学卒業者を受け入れて、4年
間医師になるための専門教育をほどこし、卒業生は医師になる資格を与えられた。
このような医専は、1938年以前には9校あったが、1945年までに46校に増加した。
(中略)地方の医師需要に応えるためには、医専のような安価な教育、つまり低
水準で短期間に養成できる医師のコースが必要であった。(中略)事実、二流の
医師は経済的利益のことばかり考え、医学知識の増進や医療の質の向上にあまり
力を注がなくなる。(中略)日本ではアメリカのように開業医が自分の患者を、
他の大病院に連れて行き、その患者に最も適する医師と患者の疾病について意見
を交換するなどという道が開かれていないから、医師としての職業的資質を向上
させることが難しかった」(3, p.198, 201-202)。

「1945年以前でも、日本には一応適当な数の医師、すなわち77,000人ほどの医
師がいた。だがその中には医専卒業者が48,000人もいた。(中略)医師の資格基
準を規定した医師法が施行された。本法は医師免許を得るため国家試験、および
受験資格を得るためにはAクラスの医学校を卒業しなければならないということ
を規定した。(中略)およそ48,000人の二流の医師が、(暫定的措置として)新
しい医師法の下でも開業を許された」(3, p.196, 204, 212)。

このような経過・状況から、敗戦直後の緊急医療は主に医専卒業の開業医で担
われたであろうことが考えられる。昭和23年の医師法制定の際に考えられたと
思われるストーリーを以下に述べる。まず医師に医業を独占させる規定を設けた。
それとともに、独占企業に課せられる義務の一つとしての「応招義務」の規定を
必要とした。当時の医療状況では、この規定の対象の大部分が個々の開業医であ
る。そこで医師の資格基準を規定する「医師法」の中に規定した。このように考
えると、独占企業に課せられる義務の一つが、個々の医師の資格基準を規定する
「医師法」に含まれたことが納得できるのである。また、多くの開業医を占めた
「二流の医師」について、「事実、二流の医師は経済的利益のことばかり考え、
医学知識の増進や医療の質の向上にあまり力を注がなくなる」(3, p.201)と受け
取られる状況であったことを考えると、(明治時代とは異なる社会状況を背景に
罰則規定は削除されたとはいえ)、応招義務は残しておくべきとする意見が大勢
を占めたことも、納得できるのである。

敗戦直後と現在では大きく医療供給状況が変化してきた。現在、「応招義務」
が関連する緊急医療の大部分を担うのは勤務医である。次に「応招義務」が「医
師法」に規定されているために起こっている勤務医の悲劇について述べる。

3:「医師法」に規定された「応招義務」による勤務医の悲劇;(1)「医は仁
術」の影の薄さ。

「医は仁術」についてWikipediaでは次のように解説されている。「医は仁術
(あるいは「医は仁術なり」)とは、「医は、人命を救う博愛の道である(広辞
苑)」ことを意味する格言。特に江戸時代に盛んに用いられたが、その思想的基
盤は平安時代まで遡ることができ、また西洋近代医学を取り入れたのちも、長く
日本の医療倫理の中心的標語として用いられてきた」と。

盛んに用いられた江戸時代の「医は仁術」とはどの様であったか。最も有名な
のが江戸時代の蘭学者、緒方洪庵の「扶氏医戒の略」であろう。その第一項には
次のように述べられている。「医の世に生活するは人のためのみ、己が為に非ず
ということを其の業の本旨とす。安逸を思わず名利を顧みず唯己を捨てて人を救
わんことを願うべし。(後略)」。まさにこれこそが「医は仁術」であろう。
「扶氏医戒の略」の基をたどればドイツ人医師フーフェラントの著作である。
「医は仁術」の精神が、洋の東西を問わず医師一般の「職業倫理」であることが
判る。「唯己を捨てて人を救わんことを願うべし」と云う言葉において、己の最
大限の努力が期待されているものと思われる。なお「過労死」の項で述べるが、
「唯己を捨てて人を救わんことを願うべし」と「唯己を捨てて人を救うべし」と
を誤解しないように注意する必要がある。

「医は仁術」の日本の現状はどうであろうか。その一つは「赤ひげ」であろう。
江戸時代の医師を描いた「赤ひげ診療譚」を山本周五郎が著したのは1958年、
1965年には黒沢明監督、三船敏郎主演で映画化された。「多くの若者がこの「赤
ひげ」を見て医師への道を目指したことも有名である」とWikipediaの「赤ひげ」
の項には記載されている。その後も、テレビ、演劇で何度も取り上げられている。
インターネットで「赤ひげ」を検索していると一つのサイトにぶつかった。そこ
には、2005年2月4日付けで、長野県南相木村診療所長・色平哲郎氏の意見が掲
載されていた。タイトルは「現代社会が『赤ひげ』を求める皮肉」というもので
あり、東京で開かれたワークショップに参加された感想である。テーマは「赤ひ
げ」であり、「現代の赤ひげ像として『バランス感覚』『人のために働ける気持』
などの必要性が指摘された」そうである。「人のために働ける気持ち」の中に
「医は仁術」の精神がやっと現在に受け継がれているのであろう。

平成18年6月5日付け日医ニュース「オピニオン;各界有識者からの提言」蘭に
次のような記事が掲載された。タイトルは「医の倫理綱領;「医は仁術」は、も
はや死語か?」である。投稿者は、平成12年の日本医師会「医の倫理綱領」、平
成16年の日本医師会「医師の職業倫理指針」の作成時の委員をされ、また、平
成18年発行の日本医師会「医の倫理;ミニ事典」の共監修者である、畔柳達雄氏
(弁護士・日医参与)である。記事の中で氏は、「医は仁術」の語源を解説する
とともに、次のように述べられている。「日医の『医の倫理綱領』の前文、ある
いは三項『医師は医療を受ける人びとの人格を尊重し、やさしい心で接するとと
もに、医療内容についてよく説明し、信頼を得るように努める』、六項『医師は
医業にあたって営利を目的としない』と貝原益軒の解説とを比較すれば、両者は
同じ趣旨を述べていることが分かる。古典的な意味での『医は仁術』の精神は、
言葉こそ使われていないが、平成版『医の倫理綱領』にも脈々として継受されて
おり、決して死語になってはいないと考えるが、いかがであろうか」と。日医の
「医の倫理綱領」の前文は以下のようになっている。「医学および医療は,病め
る人の治療はもとより,人びとの健康の維持もしくは増進を図るもので,医師は
責任の重大性を認識し,人類愛を基にすべての人に奉仕するものである」と。

この記事を書かれた経緯を次のように述べられている。「『医の倫理-ミニ時
典』配布直後、親しい法律家の友人に、この本を贈呈した。同期の元最高裁判所
判事からの手紙には、次の二点が指摘されていた。第一は「『医は仁術』という
ものがテーマとして取り上げられていないが、これはもはや死語になったという
ことでしょうか」という問いである。第二は「倫理と道徳と法」の関係について、
「われわれは(法学部学生時代には)もっと強烈に『法律は道徳の最小限』と教
わっていたのであり、それを強調していただきたかった」との提言である。前者
の問いは、私自身考えていなかった問題であり、まさに虚を突かれた思いがした」
と。

「医は仁術」の精神は、日医の「医の倫理綱領」の最初、すなわち前文に述べ
られるほどに重要な医師の職業倫理であり、努力目標であるはずなのに、なぜ、
「医は仁術」は死語に、との問いに、「まさに虚を突かれた思い」をされたので
あろうか。「医は仁術」の精神はそれ程に「習い性」となっているのであろうか。
あるいは影が薄くなっているのであろうか。その解答は先ほどの手紙の第二の指
摘にあるように思われる。すなわち、「医は仁術」の中心精神である「唯己を捨
てて人を救わんことを願うべし」が、法律の中に「応招義務」として義務化され
ているからではなかろうか。

「唯己を捨てて人を救わんことを願うべし」は職業倫理の一つ、努力目標の一
つである。この目標に向かって最大限の努力をするべきである。しかし、この努
力は他からの強制ではなく、”己の最大限”という制限のある主体的な努力であ
る。したがって過労死につながる危険因子になるとは考えられない。この主体的
努力を、強迫的努力に変えているのが「応招義務」である。医者が「医は仁術」
を職業倫理としていくら努力していても、患者にとっては「診療を依頼すれば、
いついかなる場合も医者が診察するのが当たり前、法律で義務化されているのだ
から」と受け取る。そのため、患者からは「お医者さんも大変ですね」との同情
はあっても感謝されることはない。これが勤務医の悲劇でなくて何であろうか。

前稿(2)では、インフォームド・コンセントについて、医者にとっては職業倫
理の一つであり努力目標の一つであるが、患者にとっては法理としての権利であ
ること、この違いが「患者からの不信」、「検察からの介入」の根本原因であり、
医療崩壊につながっていることを述べた。同じ構造が「医は仁術」と「応招義務」
との関係に見られる。いずれも倫理と法律との関係である。時代の流れによって
状況が変わる、そして、状況の変化によって法律を変えていく必要がある。イン
フォームド・コンセントが法理としてわが国に入ってきた時、追加という形で
「医療法」が変えられた。何故か奇妙なことに「医師法」でなく「医療法」に追
加記載された。このことはインフォームド・コンセントが医師にとって法律上の
義務ではないことを示すとともに、立法上「医師法」に記載できない理由(医者
・患者間の情報格差に起因する理由があると考えられる)があるのであろう。

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