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Vol.617 倫敦通信(第1回)~ロンドン五輪、影の立役者―東京五輪は果たして可能か?

医療ガバナンス学会 (2012年10月19日 06:00)


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星槎大学客員研究員
インペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院客員研究員
越智 小枝(おち さえ)
2012年10月19日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


「NHS(注1)は表に出るけれども、私たちが報道されることはなかったはずよ。報道される状況があったら大変よ。」
オリンピックが閉会した週にHealth Protection Agency(HPA)のヴァージニア・ムレイ教授の下を訪ねた際、「NHSもHPAも頑張っていると聞きました」と言ってしまった私への、彼女の返答で す。確かにニュースではNHSスタッフしか映っていませんでしたので、行き過ぎた社交辞令をとても反省しました。
HPAの異常気象対策長を務めるムレイ教授は、3か月前にお会いした時に比べ明らかに5㎏以上はやつれており、パソコンのメールボックスは1日50件を超すメールが来ることもあるとの事。イギリス人は働かない、などと言われる人々に見せて差し上げたい光景でした。
オリンピックのような大勢の人間が一斉に集まるようなイベント(mass gathering)においては、「病気」の「個人」を診る医療よりも、「健康」な「集団」を診る公衆衛生の専門機関が活躍するのは言うまでもないことで す。今回のロンドンオリンピックでイギリスの公衆衛生機関、HPAが果たした役割を簡単に紹介してみます。
彼らの活動は、2010年秋からパラリンピックが終わるまでの間HPAが発信し続けているE-news( http://www.hpa.org.uk/Topics/EmergencyResponse/2012Olympics/Enewsletters / )で伺い知ることができます。
例えば、ニュースレターの第1報(2010年秋)は「南アのワールドカップから学ぼう」という記事で始まります。また、ちょうどアイスランドの火山の噴火の時期でしたので、火山灰に関する健康被害のサーベイランスも強化しよう、という記事も掲載されています。
第2報(2011年2月)では、食中毒に備えた食物・水・環境汚染の検査結果を報告し、ケータリング業者の訓練や食品のモニタリングの重要性を説いています。また、化学物質や放射能に対する早期感知システムの強化も手掛けているようです。
第3報(2011年春)になると、アウトブレイク(ある疾患が通常よりも高い頻度で発生する事)を早期発見するため、基礎値となる熱性疾患の発生頻度をモ ニタリングする「リアルタイムの症状監視システム(real-time syndromic surveillance)」をロンドン全域に広げる計画が発表されています。また事故(インシデント)が起きた時の報告とその後の対応、政府やメディア との協力体制のための机上訓練が開始されたのもこの頃です。このインシデントにはパンデミックなどの通常問題となるケースだけでなく、選手村で下痢・嘔吐 性の疾患が派生した時、気温が上昇して熱中症患者が発生した時、などの多様なシナリオが含まれます。
各々のニュースレターには2つの記事があり、同じテーマに沿ったものとなっています。たとえば第3報の主題はアウトブレイクで、「通常この季節には、高 熱・鼻汁を主訴に訪れる患者が何人いる」ということがあらかじめ分かって始めてアウトブレイクが発見できること、かつ通常よりも発症頻度が高かった時のマ スコミへの迅速な対応が決まっていれば、感染症が1件発生しただけで旅行者全員に緊急対応を迫って徒にパニックを煽る、というような事故が防げること(日 本では非常にありがちなシナリオです)が示されています。
オリンピックに至るまでのHPAの対応を時系列に沿ってまとめると以下のようになるかと思います。
1. 危険因子(hazard)の同定、過去の事例の調査
2. 異常事態の探知システムの強化:基礎値の測定、異常値の判定方法の確立
3. リスクマネジメントの為の机上訓練:インシデントの規模に応じたリスクコミュニケーション
4. 利害関係者(stakeholder)への呼びかけ:正しい知識の流布と対応の統一化
5. モニタリングの確立:一般市民への定期的な情報公開(インシデントの有無に依らず)
6. 継続性の獲得:リオ五輪やWHOへの引き継ぎ

同定されるハザードの中には、先述した食料・水系感染や火山、化学物質、放射能などの一般的な公衆衛生のトピックだけでなく、大気汚染、気温、花粉、紫外 線情報なども含まれ、更には「オリンピックで開放的な雰囲気となる」ことを予測した上で、性病対策・避妊対策の広報の強化にまで触れられているという念の 入れようです。
また、注目すべきは緻密なモニタリングシステムです。たとえば感染症と診断されない段階の疾患も「判定不能重症感染症(undiagnosed serious infectious illness)」として報告することで、診断がつく前に市民や旅行者に注意を呼び掛けられるようになっているのです。
このようなHPAの活動の背後には、「早期発見で重大な事故を予防しよう」という目的だけでなく、「誤った情報によるパニックを防ごう」という、ゴシップ社会の歴史の古い国ならではの確固たる信念が透けて見えます。
サービスや交通、環境などの条件が決して良いとは言えないロンドンでオリンピック・パラリンピックが滞りなく終了した背景には、このような影武者としての公衆衛生スタッフの並々ならぬ努力があるのです。
仮にも同じ先進国として、東京オリンピックは同様の対応が取れるでしょうか?オリンピックの後には開催国の公衆衛生レベルが上がる、という報告もあるよう ですから、現在公衆衛生の立場にある人間としては、東京オリンピックは歓迎すべきなのかもしれません。しかし、「東京は水も食料も安全だから食中毒のモニ タリングは必要ない」というレポートが対外的に出されたり、1例の結核症例をマスコミが大々的に報道し、外国人全員にマスク着用を強要してしまうなどの愚 行が容易に目に浮かぶのは私だけでないと思います。
ちなみに、イギリスでの熱中症対策は、夜間の気温が15℃以下に下がらなかった段階から準備されるようです(個人的には気温が10℃以下の時の警報の方が 必要だったと思いますが)。東京オリンピックに賛同する方々は、今回のロンドンオリンピックから大いに学んでいただいた上で、本当に東京で安全なオリン ピックを開催することができるのか、慎重に検討していただきたいと思います。

注1) NHS:National Health Service。イギリスの国営医療サービス

略歴:越智小枝(おち さえ)
星槎大学客員研究員、インペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院客員研究員。1999年東京医科歯科大学医学部医学科卒業。国保旭中央病院で研修後、 2002年東京医科歯科大学膠原病・リウマチ内科入局。医学博士を取得後、2007年より東京都立墨東病院リウマチ膠原病科医院・医長を経て、2011年 10月インペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院に入学、2012年9月卒業・MPH取得後、現職。リウマチ専門医、日本体育協会認定スポーツ医。剣 道6段、元・剣道世界大会強化合宿帯同医・三菱武道大会救護医。留学の決まった直後に東日本大震災に遭い、現在は日本の被災地を度々訪問しつつ英国の災害 研究部門との橋渡しを目指し活動を行っている。

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