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Vol.629 福島を”死生観”から語る

医療ガバナンス学会 (2012年10月29日 06:00)


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南相馬市立総合病院・神経内科
小鷹 昌明
2012年10月29日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

この地に来て以来、もう既に両手以上の患者に対して死亡宣告を行ってきた。臨床の最前線に復帰するということは、つまりそういうことだ。
中には、救急搬送された”脳卒中”や”解離性大動脈瘤破裂”、”高エネルギー外傷”、”急性心筋梗塞”による心肺停止患者もいたが、ほとんどが老齢者だっ たし、大往生と呼べる患者であった。もちろん、被災された中には、”悔やまれる死”や”納得のいかない死”もあったかもしれないが、概して平穏な死で”苦 慮する死”に巡り会うことはなかった。
この患者を看取るまでは。
お彼岸の日に、83歳となった高齢発症の筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の生涯が閉じられた。

彼女は、私の初出勤の外来診療日に、息子とともにかろうじて歩ける状態で訪れた。前任の医師からの申し送りでは、「3年前発症の”球麻痺型ALS”で、昨年胃瘻を造設しましたが、人工呼吸器等の延命処置の方針は決定していません」とのことであった。
息子は、痰の貯留と窒息の心配とを理由に入院を求めた。「今後の方針決定やサービスの見直し、吸引器等の用意など、家庭環境の整備のためには、じっくり時間をとって話し合った方がいいだろう」と考え、私はその要望を受け入れた。
それから私は、否が応でもこの街における福祉体制の現実を思い知ることになった。

私は神経内科医なので、髄膜炎やギラン・バレー症候群、脳卒中といった、緊急に対応しなければならない一方で、改善する可能性のある疾患も診るが、圧倒的 に多いのは、いわゆる神経難病に分類される病気である。ALSやパーキンソン病、脊髄小脳変性症、慢性炎症性脱髄性多発神経炎などの疾患であり、そうした 患者の診療は長期に亘る。
当たり前だが、そのような患者は、この地域にもたくさんいた。
何度もお伝えしてきたように、確かにこの街の介護・福祉体制は、とても惨劇的なことになっているし、療養しながらリハビリのできる施設に、空きなどない。 結果として、青森など遙か遠方の地に転院先を求めるか、それを望まない場合には、自宅に戻るしかない。当然、後者では、家族への介護負担が重くのし掛かる し、疲弊して家庭崩壊などという話も聞く(前者でも、見舞いに行くための負担は莫大であるが)。

相馬市在住のこのALS患者は寺院の尼僧で、夫と息子夫婦の4人暮らしであった。”介護保険制度”による週間サービスは、1日1回、1時間程度の訪問看護 が平日の5日間、ヘルパーと訪問入浴が2回であった。やりくりできないときには、家政婦を1日依頼し、身の回りの片付けなどをしてもらっていた。
これで何とか平日は成り立っていたが、むしろ、サービスの入らない休日がどうにもならなかった。それというのも寺院運営は家業のようなものであり、息子は同じお寺の住職であった。寺務業務というのは週末に特に忙しく、震災の影響で寺自体も修繕中であった。
さらに、夫も要介護者にて車椅子のADLで、嫁は独居暮らしで心疾患を抱える母のもとに、埼玉県まで帰らなければならなかった。兄弟に頼ろうにも、彼らも石巻市などで生活する、いわゆる被災者であった。
ALS患者を支えるためには、極めて厳しく、あまりに脆弱な福祉・介護環境であった。「徐々に症状が重くなっていくにも関わらず、相談しても受けられるサービスが減っていく」、私が息子から言われた言葉である。このことに、この地域の福祉体制の最大の矛盾があった。

「被災地だから、何もかも不備なのは仕方がない。除染の進まない現状では、仕事や雇用だって立ち行かない、教育システムも崩壊している。そもそも、将来を支える若者がいない」、そうした叫び声が聞こえてくる。
それはそうかもしれないし、それを声高に発信することも必要かもしれない。しかし、そんなことを言っていても、誰かが何かをしてくれるわけではない。日本は、それぞれが、それぞれの事情で、数多くの問題を抱えている。

私はエッセイストなので、この際だから言ってしまう。
原子力は確かに費用対効果の高いテクノロジーかもしれないが、それは、けっして事故のないまま運用され、廃炉や廃棄物処理のコストが思い切り安く楽観的に 見積もられ、作業員に対する恩恵を打ち消した場合であり、長期的にはまるで割に合わない技術であることを、まだ認めようとしない人がいること、公務員は出 世すればするほど特権意識を強く持ち、若い芽を潰そうとすること、政治家には高齢世代が多く、将来の展望を持たずに国の方向性を決めようとしていること、 事件を起こした犯罪者の人権を慮るのと反比例して、被害者についても無神経な報道を繰り返すこと、沖縄の人々は米軍基地問題で翻弄され続けていること、生 命の尊さや価値に関しての認識が、社会全体で不足していることなど、挙げればキリがないが、つまり何が言いたいかというと、「震災や原発事故の問題も、や がて解決されない課題として、先送りされるか、うやむやにされていく」ということである。
現状を踏まえたうえで、判断を保留せず、本質を見据えて、内部の体制から変える必要がある。今、私たちは、改めてこの街における機能予後を考えなければならない。

この地で”障害を持つ”ということや、”老いる”ということをどう捉えていけばいいのだろうか。どうやっても死が避けられないとしたら、死にやすくするた めの準備を、人間はどう始めればいいのだろうか。そして、死への秒読みが始まったときに、私たち医療者は何を支援できるのだろうか。
「尊厳死」、「自然死」、「平穏死」など、死に方にもいろいろある。そんな用語を聞いただけでも、死に方というのは実に多様で複雑である。

ALS患者家族の選んだ道は、「最後まで、できるだけのことをしていく」ということであった。人工呼吸器を装着して生きる選択をした。
「呼吸筋が麻痺したらそれで終わりということではない。ALSは、脳が障害されるわけではないし、痛く苦しい状態が持続するわけでもない。手足や喉の動 き、息を吸うための筋肉は確かに衰えるかもしれない。しかし、維持できる方法のある生命と、手を尽くしても維持できない生命とを、同一で考えることはでき ない」という判断を、家族はくだした。
私は、素直に同意した。

この患者を支えるための環境作りが始まった。
まずは、本人、家族、病棟看護師、介護士、ソーシャル・ワーカー、ケア・マネージャー、リハビリスタッフ、医療器具メーカーたちとミーティングを開催し た。助成が降りないために、吸引器を自費で購入してもらった。療養しやすい医療器具のレンタルをお願いした。身体障害者診断書(肢体不自由障害)を、2級 で申請した。何かあった時にすぐに相談できる”かかりつけ医”を探した。相馬市の総合病院(相馬中央病院)に、支援要請のための紹介状を書いた。サービス 提供の見直しをケアマネに依頼した。
私は、私で、胃瘻を使用しての栄養管理と、失われていく機能に対するメンタルサポートとに徹した。
やがて、吸引器が到着し、身障者1級の認定が降り、近所に、簡単な診療を引き受けてくれる”かかりつけ医”が見つかり、レスパイト病院の算段が立ち、私と理学療法士の定期的な往診と、訪問看護師、あるいは介護士の食事時間における訪問が決定した。
ただ、これをもってして、「人工呼吸器を装着して在宅にて療養できるか」と問われれば、まったく不可能であろう。

介護保険によって与えられるのは、訪問介護や訪問入浴、福祉用具貸与(または購入)であるが、週に2~3回の訪問入浴を利用し、介護ベッドと褥瘡予防の マットレスとをレンタルして、ヘルパーを1日に1~2時間頼んだら、これだけで支給限度額(単位数)のほぼ上限に達してしまう。
言うまでもないことだが、つまり、”介護保険”は、動ける患者にしか有効には機能せず、動けない患者の純粋な介護に関しては、この制度のみでは基本的に家族が行わなければならないのである。
最初は何とかなっても、徐々に耐えられなくなることは目に見えている。主介護者の負担が蓄積されてくると、「熟睡できない」、「不安で仕方がない」など、肉体的な疲労はもちろんのこと、精神的な弊害が出てくる。重度者は、介護保険だけではとても支えきれないのである。
秘策のひとつとして、「障がい福祉サービス」の併用があるわけだが、これにより「重度訪問介護」を利用できれば、長時間滞在型のヘルパー利用が可能となる。すなわち、月あたり400時間超の支給も可能となるのである。
ALS患者にこの制度が使えれば、家族の安眠・就労・個人の時間が確保できる。さらに、医療的ケアもここ数年の法改正で一部行えるようになってきたので、痰吸引や経管栄養の注入もできるのである。

私は、身障者の手続きをして、この「重度訪問介護」の制度を適用させようと考えた。障害者1級の手帳が交付され、市役所との交渉に入る矢先であった。
彼女は逝った。

亡くなる2ヵ月前に方針が決まり、1ヵ月前より在宅療養をしていたのだが、2回目の往診のときから肩で息をするようになっていた。私は、呼吸筋麻痺が近いことを家族に告げ、約束通り人工呼吸器装着の時期をうかがっていた。
一家は迷っていた。患者は退院してからこれまでの残された時間に何をしていたかといえば、”死への準備”であった。処分するものと保存するものとを仕分け、死後に着る服を決め、近親者への遺言をしたためていた。
息子が私に打ち明けた言葉は、「そういう母の毅然とした姿を見ていたら、人工呼吸器を付けることが、はたして本人の気持ちに添うことになるのかどうか、それが分からない」と。
そして、こうも言った。「実際に本人が人工呼吸器を装着して欲しいのか、して欲しくないのか、それも分からない」と。
患者自身は、時折「死にたい」と私に訴えていた。「希望の持てないこんな息苦しい生活は、早く終わらせたい」と、筆談だが私に語っていた。その一方で、花や経本などを眺め、僧侶という立場からか、人生における意義のようなものも私に説いていた。
「死んでもいい」というメッセージと、「生きたい」というメッセージとが到来していたような気がした。

ALSなどの神経難病を抱える患者の気持ちは、「人工呼吸器装着後の生活に希望を持てないという失意」と、「家族を始めとする介護者に迷惑をかけたくない とする心情」と、「身体を動かせなくなった生産性のない人間は生きるに値しないという虚無」といった、処世観に基づく自尊感情の低下である。
それらが理由となって「人工呼吸器を装着しない」という選択をしたのならば、それは患者自身の”生きたい”という気持ち以外の要因が入り込んだ選択であって、”生”が最大限尊重されたうえでの選択ではない。
それは理解できるが、でも、だからと言って、”他人に厳しく、自分にも厳しい社会”ではなく、”困った時はお互い様”という価値観や、「生きたいと思うな ら、それだけで生きる資格があり、存在自体に価値がある」という人間観が認められ、人が、より良く生きられ、尊厳ある”生”を選択できることが重要で、そ うした状況を実現させなければならないという立場から、”生きたい”という気持ちが押し殺されることなく、最大限に引き出される状況を整えることが大切で ある」などという、決まりきった”きれい事”を言うつもりもない。

ALS患者の未来は、「このまま成り行きに任せていいのだろうか?」と考えるか、考えないかで、おそらく決まる。ALSで人工呼吸器を装着した人というの は、「サービスを使って他人にお世話になろう」とか、「困った時はお互い様だ」とか、そういう感情が芽生えてきたということではなく、むしろ、「人生を勝 手に周囲で決められたくない」という独尊的な気持ちからなのではないか。
そして、仮に延命処置を選択しなかったとしても、支えるシステムがあるからこそ、言い方によっては誤解を生むかもしれないが、「安心して人工呼吸器に乗らない」という選択ができるかもしれない。

最後に忠告したい。
ALS患者は超然かつ孤高であった。しかし、そういう患者の態度をいいことに、高齢者や障害者に対する福祉体制の整備がおざなりにされ、放置され続ければ、当たり前だが患者は安心できない。
そして、その方たちを支えるのは周囲の親族ということになる。そうなれば、そういう人たちが介護に追われ、疲弊し、退職するだけでなく、彼らの活動に依存していた周辺の地域社会も同時に壊滅する。
被災地においては、とかく希望を語りたくなるし、もちろんそうした取り組みが優先されることに異論はない。しかし、その一方で、社会福祉に目が届かず、障害者が置き去りにされれば、気付いたときには死に方も分からなくなり、死に場所もなくなったという世の中になる。
そういう地に、この街はなろうとしている。そして、それは間違いなく20年後の、この日本の縮図となる。「障害者を支えられる街創り」と、言葉に表せば簡単だが、今、この街はそうしたシステムが必要である。
私たちは病気を治療する立場にある一方で、「安心して最後を迎えるにはどうしたらよいか」ということにも、考えを巡らせている。そのための第一歩が、「この街で死ぬ」ということがどういうことなのかを、問い直し、じっくり考えていくことなのである。

 

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