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Vol.664 世界の遺伝情報差別禁止法と日本国民の不利益

医療ガバナンス学会 (2012年11月28日 06:00)


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この原稿は生存科学A 2012年9月 vol23, seriesA より転載です。

東京大学医科学研究所
村重 直子
2012年11月28日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


●背景
約17年前にはわずか300程度の遺伝子検査しかできず、それも、稀少疾患に関する研究として行われる場合がほとんどだったが、急速なヒトゲノム時代の進 展に伴い、すでに1500以上の遺伝子検査が可能となり、一般的な疾患に関するものとなってきた(1)。こうした膨大な遺伝情報の洪水ともいえる時代の到 来に備え、遺伝情報を人類のためにいかに役立てるか、遺伝情報による差別をいかに防ぐか、といった議論が、長らく世界各国において活発になされてきた。そ の結果、完璧とはいえないながら様々な法制度が各国で整備されつつある。
しかしながら、我が国では全くと言ってよいほど議論が進展せず、法整備はなされていない。このため、遺伝子検査・診断によって、より適切な予防法・治療法が可能となる場合であっても、遺伝情報に基づく差別を恐れて検査を辞退する患者が多い。
本稿では、実在した症例(2)を紹介したうえで、世界の状況及び我が国の状況について考察する。

●症例提示
47歳女性が両側眼窩周囲の浮腫を主訴に受診した。浮腫は、2種類の抗アレルギー剤の内服とステロイド外用剤に反応せず、右眼瞼に始まり両側に進行性であった。
幼少時から繰り返す蕁麻疹(と思っていたもの)などの皮膚症状があり、アナフィラキシーのような症状であると医師に指摘されたことがあった。家族歴として、父親も繰り返す蕁麻疹様皮膚症状を有していた。
血液検査の結果、C3とC4が低値を示し、遺伝性血管性浮腫の可能性が示唆された。

●遺伝子検査に関する諸問題
血管性浮腫は、原因を特定できない症例が多いが、その中に遺伝性血管性浮腫が含まれる。遺伝性血管性浮腫は、C1インヒビターの欠損による常染色体優性遺 伝の疾患で、あらゆる部位の皮下浮腫や粘膜下浮腫、腹痛、吐き気、嘔吐、下痢などの消化器症状、喉頭浮腫などの発作を繰り返す。発作は通常24時間でピー クとなり、次の2~3日でゆっくりと改善する。典型的な発作は2~5日間続く。約半数の患者が生涯に少なくとも1度の喉頭浮腫を経験するが、もし緊急時に 診断がつかず治療されない場合、致死率は約30%である(3)。
本症例は血管性浮腫である可能性が極めて高く、喉頭浮腫など、浮腫が気道に起きた場合、気道狭窄し命に関わる可能性があるが、遺伝性血管性浮腫と診断確定できた場合には、急性発作時にC1インヒビター補充療法(4)が可能となる。
疾患や治療法について、また、気道狭窄し命に関わる可能性について患者に説明したところ、よく理解していることが確認された。
さらに患者に説明同意文書を渡し、診断確定のための遺伝子検査の実施について説明したところ、患者は家族と相談したいとのことで、説明同意文書を持ち帰っ た。次回受診時、患者は、診断がついてしまったら保険に入れなくなる、就職が難しくなるという懸念を理由に、遺伝子検査を辞退した。患者・家族は社会的不 利益を恐れており、国民を守る法制度のない日本では合理的な懸念であると思われた。

●世界の状況
今から22年前の1990年に、ベルギーで遺伝情報に関する差別禁止の法制度ができたのを皮切りに、欧州はじめ世界各国でさかんに議論が行われ法整備が進んでいる(5)(6)。
ユネスコは遺伝情報に基づく差別の禁止について、1997年に「ヒトゲノム及び人権に関する世界宣言」(7)を発表し、さらに2003年の「ヒト遺伝情報 に関する国際宣言」(8)では、遺伝情報は第三者、特に雇用者、保険会社に開示されてはならないことを宣言している(第14条(b))。
米国では1995年に遺伝情報の誤用を防ぐ初めての連邦法が導入され、その後も13年に渡る議論を経て、2008年に遺伝情報差別禁止法が成立し、雇用者 や保険会社による遺伝情報に基づく差別から消費者が守られることとなった(9)。オバマ大統領がNIH(米国国立衛生研究所)所長に任命した、遺伝学の権 威であるフランシス・コリンズ氏は、こうした法制度の整備に尽力し、国民的議論を牽引してきた。その姿勢は、米国議会において「個別化医療の明るい展望に 対する遺伝情報差別の脅威」(10)と題して語った彼自身の証言にも表れている。

●日本の状況
一方、日本では、膨大な量の遺伝情報の洪水ともいえる現代にあって、遺伝情報に基づく差別から国民を守ろうという議論は全くと言っていいほど見られない。 様々な学会等によるガイドライン等(11)(12)(13)は、当然ながら、医療関係者向けに現場の実務について個人情報保護やインフォームド・コンセン ト等を述べたものである。また、経済産業省(14)や厚生労働省(15)によるガイドライン等も個人情報保護法の概念にあるため、主たる内容は個人を特定 できないよう匿名化する、本人のインフォームド・コンセントを取得するといったことであり、雇用者や保険会社による遺伝情報に基づく差別から法的に国民を 守ろうという概念ではない。
我が国では、米国における議論の進め方とは対照的に、医療現場で患者・家族にとって必要な法制度に関して、現場と政治家・官僚との意識の乖離が際立ってい る。日本が世界に誇る著名な遺伝学者であり、民主党が内閣官房・医療イノベーション推進室長に任命した中村祐輔氏は、無力さを痛感して辞任し、日本を離れ てシカゴ大学へ活動拠点を移した(16)。「医療の現在・将来を憂う危機意識が共有できなかった」(17)「結局は霞が関や永田町は大きな視野で戦略を立 てることはできない」(18)とコメントを残している。
こうして日本の国民は、遺伝子検査によって、より適切な予防法・治療法が可能となる場合であっても、その恩恵に与ることが難しい状況に取り残されている。

●考察
遺伝情報に基づく差別を禁止する法制度は、必要であるが、決して完璧ではなく、常に新たな問題に直面している。医学や遺伝学は日進月歩であるため、法制度 が時代遅れとなるのは避けられないし、医学や遺伝学において発展した新たな概念を、従来通りの法的概念に縛られたままの法制度に無理に組み込むと、国民に その歪みを負わせることになる。さらに、遺伝情報に基づく差別を禁止すると一口に言っても、何が遺伝情報で何が遺伝情報でないのかという定義は、法制度 上、人為的に定めるものであるから、どこまでを禁止するのかという問題も生じる。ヨーロッパの経験から、こうした法制度が整備された後も、差別を恐れて遺 伝子検査を辞退する人もいることがわかる(19)。
しかし、だからといって何もせず手をこまねいていては、世界で進歩する医学や遺伝学の恩恵を、日本国民は受けられないまま取り残される。遺伝情報を国民の ためにいかに賢く使うか、遺伝情報差別から国民をいかに守るか、といった視点から広く国民的議論を行い、法制度も医学の進歩についていく努力が必要であろ う。

<参考文献>
1)Hudson KL, Holohan MK, Collins FS. Keeping pace with the times–the Genetic Information Nondiscrimination Act of 2008. N Engl J Med 2008;358:2661-3.
2)Murashige N, Tanimoto T, Kusumi E. Unprotected fear for genetic discrimination in Japan. Lancet. in press.
3)Banerji A. Hereditary angioedema: classification, pathogenesis, and diagnosis. Allergy Asthma Proc. 2011;32:403-7.
4)ベリナートP静注用500 添付文書http://www.info.pmda.go.jp/downfiles/ph/PDF/100806_6343426F1032_1_03.pdf
5)Van Hoyweghen I, Horstman K. European practices of genetic information and insurance: lessons for the Genetic Information Nondiscrimination Act. JAMA 2008;300:326-7.
6)Otlowski M, Taylor S, Bombard Y. Genetic discrimination: international perspectives. Ann Rev Genomics Hum Genet. 2012. DOI: 10.1146/annurev-genom-090711-163800.
7)UNESCO. The Universal Declaration on the Human Genome and Human Rights. 11 November 1997. http://www.unesco.org/new/en/social-and-human-sciences/themes/bioethics/human-genome-and-human-rights/
8)UNESCO. the International Declaration on Human Genetic Data. 16 October 2003. http://www.unesco.org/new/en/social-and-human-sciences/themes/bioethics/human-genetic-data/
9)Hudson KL, Holohan MK, Collins FS. Keeping pace with the times–the Genetic Information Nondiscrimination Act of 2008. N Engl J Med 2008;358:2661-3.
10)Collins FS. The Threat of Genetic Discrimination to the Promise of Personalized Medicine. Testimony before Subcommittee on Health, Committee on Energy and Commerce, the U.S House of Representatives. March 9, 2007.

http://www.genome.gov/Pages/Newsroom/SpeechesAndTestimony/CollinsGINATestimony030807.pdf

11)日本医学会 医療における遺伝学的検査・診断に関するガイドライン

http://jams.med.or.jp/guideline/genetics-diagnosis.html

12)遺伝医学関連学会 遺伝学的検査に関するガイドライン

http://jshg.jp/resources/data/10academies.pdf

13)日本臨床検査標準協議会 遺伝子関連検査に関するベストプラクティス・ガイドライン

http://www.jccls.org/techreport/bestpractice_guideline.pdf

14)経済産業分野のうち個人遺伝情報を用いた事業分野における個人情報保護ガイドライン (経済産業省 2004年)

http://www.meti.go.jp/policy/bio/seimei-rinri/files/keisanshoguideline.pdf

15)医療・介護関係事業者における個人情報の適切な取扱いのためのガイドライン (厚生労働省 2004年、2006年改正)

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/seisaku/kojin/dl/170805-11a.pdf

16)Cyranoski D. Genomics ace quits Japan. Yusuke Nakamura blames government inertia for his move to the United States. Nature 2012;482:18-19.
17)産経ニュース 医療イノベーション推進室辞任 「医療憂う意識共有できず」中村教授の一問一答 2012.1.15 22:29 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120115/trd12011522330015-n1.htm
18)産経ニュース 国家戦略欠如「無力さ」痛感 医療イノベーション推進室長辞任の中村祐輔教授 2012.1.15 22:23 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120115/trd12011522260014-n1.htm
19)Van Hoyweghen I, Horstman K. European practices of genetic information and insurance: lessons for the Genetic Information Nondiscrimination Act. JAMA 2008;300:326-7.

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