医療ガバナンス学会 (2012年12月6日 06:00)
それでは、無意識のうちに私たちの精神性と行動を規定し、そのこと自体が自覚されることも乏しい日本人の「土着的世界観」とはどのようなものであろうか。 加藤周一の前掲書から、原発事故後に起きた政府などの情報公開のあり方と関連があると私があると考えた叙述を、引用させていただく。
この書では様々な人物や思想が紹介されているが、その中で江戸時代の富永仲基(1715~46)を「儒教・仏教・神道のすべてに真向から批判を加え、徳川 時代の知的伝統に激しく挑戦した」と評し、「過去のさまざまな思想に対し正邪・真偽の判断を加えるのではなく、異なる体系の継起をいくつかの歴史的発展の 流れとして捉えようとする経験的な科学」の新しい可能性を予測し、発展させた人物として高く評価している。仲基の思考は比較文化論を先取りしていたとさ れ、「彼はそのいわゆる「くせ」、すなわち国民的文化の特徴と、それぞれの文化において特徴的な「イデオロギー」の構造とを、関連させて説明しようとして いた」という。例えば、「儒道のくせは、文辞なり。文辞とは、今の弁舌なり。漢はこれを好む国にて、道を説き人を導くにも、是を上手にせざれば、信じて従 うことなし」「仏道のくせは、幻術なり」といった具合である。
日本の伝統的な信仰心については、さらに痛烈に批判される。「くせは、神秘・秘伝・伝授にて、只物をかくすがそのくせなり。凡かくすという事は、偽盗のそ の本にて、幻術や文辞は、見ても面白く、聞ても聞ごとにて、ゆるさるるところもあれど、ひとり是くせのみ、甚だ劣れりといふべし」という具合である。
意味も理由もなく、「凡かくすという」「くせ」に従って、原子力発電所事故の以前と以後の、どれほど有用な行為の実行が妨げられたであろう。日本の「土着 的世界観」の影響力は根強い。自然的な態度で日本社会に生きている場合、この「凡かくすという」事に従わない明晰な発言を行う人々の方が、閉鎖的な関係性 の内部で、「空気の読めない」非道徳な人間として軽蔑や問責の対象となるほどである。
他にも、例えば法学者であった川島武宣は、『日本社会の家族的構成』という書物の中で、享保年間(1716~)以降に流布するようになった「孝」について の説話の中から、「彼は70歳になっていつも赤ん坊の着物をきて床の上をはいまわっていた。彼の目的は、90歳をこえた両親をして、彼らがこんな幼い子供 をもっているのを見て、まだ自分らはそれほど老いていないのだと思わせることにあった」という話を紹介した。つまり、真実を隠すことこそが道徳的な行為で あり、真実を突きつけるような行為は、非人間的であると考えられたのである。
このように私たちが民族的な思考の経験を積み重ねる中で作られてきた「土着的世界観」が、原子力発電所事故以降のさまざまな問題でもくり返し現れている。過去の積み重ねから身についた「くせ」は、簡単に切り捨てられない。
少し、自分の話をさせていただく。私は東京の大学病院を辞めて、この4月から福島県南相馬市で暮らし、精神科医として勤務している。もちろん、義侠心のようなものはある。不条理に苦しめられている人の近くにいるべきであるという思いは持っている。
しかし、自分個人の事情や計算もなかったわけではない。私は臨床医として、精神科病院やうつ病・自殺などの問題と関わってきた中で、普遍的なエビデンスと して抽象化した場合には取り落とされてしまうローカルな日本文化や社会の問題を、考察の中心的な主題としなければ、現代社会におけるそれらの諸問題への本 質的な対応ができないと考えるようになっていた。この数年はその仕事に専念して研究などを行い、その成果の一部を論文としてまとめることができたが、それ が注目されたり評価されたりすることはなかった。
例えば、沈黙を守ることに過剰な自信を抱き、熱心に語る人をその内容を検証せずに根拠なく軽蔑するような精神性を「日本的ナルシシズム」の現れの一つの形 であるととらえて、この病理性の克服こそが日本社会における個人と社会に望まれている事柄であると主張してきた。しかし、そのように主張する私には、冷た い反応が返されることが多かった。
報われない研究者が自説の受け入れられることを求めている。自分の中のそういう冴えない側面を、あえて隠さずにさらしておきたいと感じている。この文章 も、東京にいる無名の大学病院の助手が、「日本人の「土着的世界観」を考察の中心主題とする試み」として発表しても、読む人は少ないだろう。しかし、事故 を起こした原子力発電所から近い町で働く精神科医が書く、「福島から、日本人の「土着的世界観」を考察の中心主題とする試み」ならば、関心を持ってくれる 人もいるだろう。そんな下心を抱くケチな心も持っている。
福島の人々は、こんな私を許してくれるだろうか。許されるのならば、今回はごく一部を紹介した「日本的ナルシシズム論」の紹介を続けさせて欲しい。ただ無 責任に自分の論じたいことを福島の問題の上に投影して語るつもりはない。実際に関わりながら、考えて語るつもりであるし、現地で精神科臨床医としての責任 は果たしていると思う。原子力発電所事故と関連した社会病理についても、ここまで南相馬市で7か月半暮らしてみて、「日本的ナルシシズム」を主題化して問 題とするべきであるという私の考えが、大きく間違っているという実感はない。むしろその逆で、「日本的ナルシシズム」の考察を通じてこの地域で起きている 問題への対応に貢献できるだろうという感触を抱いている。
かつて私は別のところで、「福島の人々が日本の精神的な課題を先進的に担っている」と論じたことがある。被害を受けて苦しんでいる人々の所に、厳しく難し い課題が押し付けられたのは不条理なことである。日本人の宿痾ともいえる精神的な課題の乗り越えを、福島の人々に期待するのは、私から行う過剰な投影なの かもしれない。しかし、そうであるならば、それを行うしかないのではないだろうか。
最後に紹介するのは、放射能の内部被ばくについてのデータを、坪倉先生たちのグループといわき市のグループで共有し公開している活動である。私はこのよう に「知」を開かれたものとして、現実の問題解決に有効な形として用いようとする姿勢が示され、困難な経験を超えてそれが洗練され続けていく中に、「日本的 ナルシシズム」の病理が克服され、ふたたび誇りを持てる祖国が回復されるための希望を感じている。
http://www.asahi.com/health/hamadori/TKY201211090492.html
しかし、医師と市民の間の垣根を超えるために行われる活動もまだ十分ではなく、地域の全体を巻き込んでいけるようなものではない。今後とも多方面からの理解と強力が必要であると感じている。
<参考文献>
加藤周一:日本文学史序説 上・下.筑摩書房,東京,1999
川島武宣:日本社会の家族的構成.岩波書店,東京,2000
堀有伸:うつ病と日本的ナルシシズムについて.臨床精神病理,32:95‐117,2011